ロゴス古書

 年年歳歳 花相似たり
 歳歳年年 人同じからず 

日本国民高等学校&満州事変

2011年11月21日 | 随想・日記

 

  加藤完治は、大正四年(1915)年東大農学部の推薦で、大正天皇即位の御大典事業として山形県が自冶講習所をつくった、そこの初代所長になった。農本主義的青年幹部の養成のため全国に先駆けて開設したものである。

 また、その後茨城県宍戸町に、「日本国民高等学校」を創設してその校長になり、さらに開拓移民の中心的人物となっていった。列強のアジア植民地化のなかで、日本の近代化と独立を守ることを名目として、第二次世界大戦への過程の中で、国内では解決できない土地所有のありかた、小作制による貧農問題の内部矛盾をかかえたままの農村の被幣や、農民の貧困を、満蒙開拓に、そして後には満蒙青少年義勇兵とその道に進める中心的人物となっていった。農村の次三男が対象であったのである。花巻にほど近い六原農場(道場)もそのひとつであった。

 大戦中の桜にあった「兵舎」には、乙種工業国民学校(正式の名前は忘れたが)が創られた。にがい思い出である。

 加藤完治の実践は、賢治の理想としたフォルケ・ホイスコーレとは程遠い学校であったと思う。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。