ロゴス古書

 年年歳歳 花相似たり
 歳歳年年 人同じからず 

宮澤賢治友の會

2012年02月18日 | 随想・日記

 

 「宮澤賢治全集」や「江刺と宮澤賢治」等によると、菊池武雄の誕生日は明治二十七年十二月八日で亡くなられたのは昭和四十九年七月十一日である。

 昭和十年四月から同十一年十二月までに出された宮澤賢治友の会 「宮澤賢治研究」は、賢治研究資料としては最初期のものである。発行者が菊池で連絡場所も自宅だった。

    

 わたくしは菊池武雄に就いての知識は無い。しかし昆の「新聞人菊池武雄」は「宮澤賢治の友人」とは異なる人物ではないかと思う。記載されている生まれた日の違いもあるが、亡くなられた頃の年月日も異なるように思われる。「練馬新聞」の社長であった菊池は、昭和二十三年から同五十六年五月まで「練馬新聞」を続けていたとの事である。住まいは小竹町や桜台に住んでいたとの事、堀尾さんが知らないはずが無い。奥田氏も国会図書館で「岩手日報」等の新聞を良く調べられている(研究資料探索)。両者とも「新聞人菊池武雄」には一言も触れていない。

 「注文の多い料理店」の挿絵や装丁そして賢治昭和六年東京八幡館での病臥に駆け付けた菊池武雄の晩年がわたしはあまり良く解らない。「全集」に「戦後は吉祥寺にデザインを生かした洋装店を経営」とある。「書簡」に「展示会云々」とあるが堀尾さんは「北斗会」について知って居られたと思うが何も書かなかった。「初期研究資料集成」の座談会でも菊池の事は「校本宮澤賢治全集」に出つくしているからか、何方も触れることはなかった。

 些細のことだが「西巣鴨第二小学校」の名前は、昭和六年四月一日~昭和十年九月末日であった。

 

 ※ 訂正 文中奥田氏の「研究資料探索」ではなく「ホタル 増補版」でした。


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