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今回は、磐座が御神体として祀られている原始信仰の形態が残る神社の紹介です。
場所は、山梨県韮崎市穴山町久保地区と言う場所にあるのですが地図上だと少々分かりにくい場所にあります。
JR穴山駅前から続く「県道603号 穴山停車場線」を北上し黒沢川と並走する交差点を森の方面へ左折します。
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しばらく黒沢川と並走しながら登っていくと正面に擁壁が見えてきます。
その左手前にさらに上へと続く道がありその突き当りが巌宮諏訪神社の鳥居前になります。
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途中「水神」を祀った石碑があります。ここは雨量の観測施設の様でした。
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登り始めて、10分ほどで鳥居前広場に到着です。
自分たちは、車道の擁壁に沿って車を停め徒歩でここまで登りましたが、車で上がれない事も無さそうですが、大型車だと切り返す場所が限定されるので注意して下さい。
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鳥居を潜ると周辺は幽玄な雰囲気に包まれます。空気がツーンと張りつめているのが実感出来ます。
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社殿奥からは、尖った御神体の磐座が顔を覗かせています。
武田菱がありますが、由緒によると信玄公が諏訪攻略のおりここに戦勝祈願で訪れ大願成就した帰途、「諏方大明神本宮」の木札を奉納されたと伝えます。
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境内の左手奥からは、参道を横切るように清水が静かに流れ黒沢川へと注がれています。
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巌宮諏訪神社御神体石 高さ10メートル以上はありそうです。
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左手から磐座背面に回り込むことが出来ます。岩盤からここだけ吐出しているのが分かります。
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御神体石と一緒になった拝殿
祭祀:建御名方命
甲斐国社記・寺記によれば「神体は大なる自然の巌石に御座候」とあり、また、中込元宮司の記録を見ると「七丈余屹立せる巨巌をうがち木祠を収む、もと諏訪明神なりしを、明治初年村社列せらるる際祠官守屋真清巌宮と改称す」とあり続いて「巌に洞穴をうがち、そこに鎮座したのは明治三十九年日露戦争の記念事業として行ったもの」と、由緒を伝えています。
また、山梨県神社庁の同神社の沿革によれば「巨巖を神として祀れりとあり、巖を御神体とした古い地主神と思はれる。(甲斐國志)」
どうやら 諏訪明神を勧請する以前までは、ここは「巖宮社」と呼ばれていたようで、磐座(巨石)信仰を今でも伝えるなかなか興味深い一社であると言えます。
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この辺りの岩盤は、今からおよそ20万年前にあった八ヶ岳の大規模崩壊によって形成された舌状台地になっています。(衛星写真はGoogleマップより)
※八ヶ岳の崩壊物の到達距離が、八ヶ岳から 遥か七里の遠くまで到達していることからこの辺りでは、通称“七里岩”と呼ばれています。
大規模な岩屑なだれの溶岩ブロックのうち、 侵食により鋭く削り残された岩峰がこの御神体岩を形成していると、推測できます。
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こちらは境内右手にある突き出た巨石
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境内の片隅にひっそりと佇む祠たち
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ここでは、訪れるものも少なく静かな時が流れています。
かつての八ヶ岳山麓大規模崩壊は、長野県諏訪郡富士見町から山梨県北杜市、韮崎市に至るそうですがこの周辺には、縄文遺跡が数多く存在し北杜市大泉町にある金生遺跡で見られるような縄文祭祀遺跡と磐座(巨石)信仰との関連性に興味のあるところです。
還暦過ぎの暇人です
仕事はリタイアしてます
30年前多摩市聖跡桜にて電気工事を自営でしてました
当時大学生のバイトを大分使い職人さんは3人で大学生のバイトは4人使い楽しく仕事し過ごしていました
大学生は新宿の高級クラブに行くと喜んでいました
大分変わったでしょうね
一度も都内には行っていません
コメントありがとうございます。
30年前に聖蹟桜ヶ丘にお住みだったとか。
自分は2012年に多摩市へ越して参りましたが駅周辺も30年前とでは、さぞ様変わりしているのでしょうね。駅を中心として栄え住むのにはとても便利な街でした。
少し離れれば、自然を満喫できる理想的な街だったと今も自負しています。
当時は、ちょうどバブル期と重なり桜ヶ丘の高級住宅街から、仕事の依頼でさぞ引く手あまただったのではと、想像できます。いい時代だったんですね。羨ましい限りです。
縁あって、今年4月より山梨は八ヶ岳の南麓に引っ越して参りましたが、こちらから情報発信しております。
また、お話お聞かせください。
ありがとうございました。