今回ご紹介するのは、以前紹介した若神子諏訪神社(上之社)とセットとなる中之社(穂見神社)と下之社(當麻戸神社)になります。
JR穴山駅から東に1㎞の場所に位置していますが二社とも八ヶ岳崩壊で形成された七里岩の舌状台地の東側に位置しています。
【穂見神社中之社「獅子岩」】
神橋を渡り隋神門を潜るとすぐ右手に校倉造りを模した宝物殿があります。
郷社でありながら立派な宝物殿があるからには、さぞ貴重な宝物があるのでしょう。
石段を登った場所に拝殿があるのですが、あまり印象に残っていないのかすっかり写真を撮り忘れてしまいました。代わりにこちらは本殿となるのですがかなり立派な神社建築です。
三間社流造で、軒唐破風が見事です。宝歴3年(1753年)の造営とのことです。
組木の細工が見事です。
軒下中央の蟇股に施された動物の彫り物はなんでしょう?
祭祀:倉稲魂命、建御名方命、素盞嗚尊
由緒:延喜式記載の古社で逸見諸郷の租稲を収める屯倉の鎮守に祭祀されたと伝えらる。又稲倉に鎮座するを以て稲倉明神とも称された。
又社地にある周囲十米高さ7米の巨霊石(根の神石)とも言って神体として祭祀している。素盞嗚命の神霊がこもつていると信仰され固くけがれを忌み嫌い石の前に正座して拝したという。又薬草奏進社とも言われている。
明治6年郷社に列し明治42年幣帛料供進指定神社となるも戦后この制度は廃された。宝物殿昭和53年秋建立す。 (境内由緒碑より)
又社地にある周囲十米高さ7米の巨霊石(根の神石)とも言って神体として祭祀している。素盞嗚命の神霊がこもつていると信仰され固くけがれを忌み嫌い石の前に正座して拝したという。又薬草奏進社とも言われている。
明治6年郷社に列し明治42年幣帛料供進指定神社となるも戦后この制度は廃された。宝物殿昭和53年秋建立す。 (境内由緒碑より)
ここが諏訪社の中之社としての位置づけとされたのは由緒にもある様に、境内にあった御神体の巨石に祀られていた「諏訪大神」を天文年間に、本殿に合祀したのが理由だと思われます。
宝物殿には、有栖川宮熾仁親王御染筆など外数点所藏しているそうです。
さて、由緒のご神体石「巨霊石(根の神石)」の所在地が気になるところです。本殿裏手を散策しましたが末社などの祠が立ち並ぶだけで、何処にあるのか思案しているとサクラさんがスタスタと上を歩いています(^^;(写真上)
遅れて後を追うと突き当りにその巨石がありました。
正面より 高さ約15㍍、最大幅約10㍍
左側面より あえて獅子岩と呼ぶより「根の神石」の方がぴったりに思えます。素盞嗚命の神霊がこもっていると信仰され固くけがれを忌み嫌い石の前に正座して拝したと由緒を伝えてます。
【尾鰭宮當麻戸神社(下之社)「御供石」】
続いて、穂見神社から南に3キロほど下った場所に尾鰭宮當麻戸神社(下之社)(おひれのみやとうまじんじゃ)が鎮座しています。
田畑の中に鳥居が立ち並んでいます。
参道の途中にある祠を覗くと丸石神が祀られていました。
門前鳥居は、冠木門でした。
隋神門を抜けてすぐにある「御供石(ごくういし)」
「御供石」由緒にある「烏飼いの神事」とは初めて聞く神事ですが、鵜飼ならぬ「烏飼」(読み方はやはり“うかい”?)
羽にまだら模様のある烏が「この巨石の上に置いた供え物を運んだ先の畑で吉凶を占う」と言う面白い由緒を持つ神事ですが、WEB調査してみてもヒットしてこないので、かなり特殊な神事の一つでは無いかと思えます。
拝殿 武田菱があることから武田氏より崇敬を受けた神社なのでしょう。
本殿 祭祀:建御名方命、素戔嗚尊
もともとこの地は、尾鰭山(おひれやま)と呼ばれていて本来の祭祀は「大酒解命」と「小酒解命」と言う聞きなれない二柱の神様を祀る神社だったようです。大酒解命は大山祇の別名で、小酒解命は木花開耶媛の別名でもありっます。つまりこの二柱はどちらも山の神であり父娘の関係になります。
甲斐国史には、諏訪神を祀り大己貴命も勧請し現在の五柱になったようです。ここが、諏訪下之宮と呼ばれるのは、この所以からです。
境内にも丸石神がさりげなく置かれていました。
【マップ】
穂見神社中之社
尾鰭宮當麻戸神社
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