10月27日(水)、期日前投票を済ませてから、電車でJR松戸駅に行きました。あいにく雨が降っていましたが、「松戸市戸定歴史館」に行って来ました。「松戸市戸定歴史館」には数回行った事がありましたが、久しぶりだったので懐かしかったです。令和3年度は大河ドラマに因んで「徳川昭武」と「渋沢栄一」に関する展示になっていました。私が観たのは【特別展Ⅱ】の後期でした。【特別展Ⅰ】はあいにく観に行けませんでした。
【特別展Ⅰ】 「プリンス・トクガワ」-新時代への布石 (2月6日~6月13日)
【特別展Ⅱ】 「幕府再興とパリ万博」-1867・運命の転換点 (7月3日~10月31日)
-前期:7月3日~9月20日 / 後期:10月13日~10月31日-
【特別展Ⅲ】 「明治日本の国際化」-徳川昭武と渋沢栄一の到達点 (11月20日~令和4年4月3日)
「徳川昭武」と「渋沢栄一」の一行は、15代将軍「徳川慶喜」の命により1867年の「パリ万博」へ派遣されました。「昭武」は往路の船中でフランス語の学習を始めました。横浜出航から約1ヶ月半後、上海や建設中のスエズ運河・地中海を経て、貿易港「マルセイユ」に到着しました(到着時、満13歳6ヶ月位)。パリに着いてから、「昭武」は将軍名代としてフランス皇帝「ナポレオン3世」に国書を奉呈しました。「ナポレオン3世」は、自分の皇太子(11歳1ヶ月位)と年齢の近い「昭武」に親しく接し、友好関係を深めました。皇太子からは「愛犬リヨン」が贈られています。《 プリンス・トクガワ 》と報道され、当時のヨーロッパで最も有名な日本人の一人だったようです。
一方、この時フランス政府は、メキシコ独立運動などに由来する経済的な停滞が始まっており、幕府が再興の一手として期待する支援策が実現不可能になりつつありました。幕府再興への道が停滞する中、日本では「慶喜」が「大政奉還」に踏み切りました。次期将軍の有力候補だった「昭武」は、明治新政府から帰国命令が出されます。「パリ万博」の終了後も留学を続けていましたが、生命もかかった決断をし、わずか1年と数ヶ月で帰国しました。でも、「徳川昭武」と「渋沢栄一」は多くのものを学んだようです。
帰国後は長兄の水戸藩主「慶篤」が死亡した為、最後の水戸藩主になりました。水戸藩知事を経て29歳で隠居するまで、フィラデルフィア万博に参加し、フランスに再留学したり、ヨーロッパ各国を旅行しました。隠居の地の《戸定邸》には生母「秋庭」(しゅうてい)を伴い、家族と一緒に移り住みました。隠居後はたびたび静岡を往来し、「慶喜」と写真撮影や狩猟に出かけるなど交流を深めたそうです。「慶喜」も時々《戸定邸》を訪れました。「徳川斉昭」の7男と18男で年齢も16歳と離れていましたが、とても仲が良かったようです。
10月13日からは「慶喜」所用の「白羅紗葵紋付陣羽織」と陣笠(東京都江戸東京博物館・所蔵)、「昭武」所用の「緋羅紗地三葉葵紋陣羽織」と陣笠(松戸市戸定歴史館・所蔵)を合わせて、154年ぶりに兄弟の陣羽織が一堂に会しました。また、スイス特命全権公使から贈られた懐中時計には、表蓋と裏蓋があり、裏蓋内側に驚異的な精密さで「昭武」の肖像が七宝で描かれていて目を引きました。他には「大政奉還」の「建白書」や手紙・写真など貴重な資料が展示してありました。
余談ですが、7月5日(月)に大河ドラマで「徳川昭武」を演じた「板垣李光人」(りひと)さんが「戸定邸」を訪問したそうです。(写真と文はフリー冊子『松戸市×晴耕雨読』より)
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パ ン フ レ ッ ト よ り 表:イギリス訪問時に紹介されたニュースのイラスト 裏(部分):昭武の衣冠姿 / 断髪姿の渋沢栄一 / マルセイユでの集合写真 / 慶喜の衣冠姿 / 昭武の陣羽織 / スイス特命全権公使から贈られた懐中時計
徳川昭武年表(パンフレットより)
表座敷の縁側に腰掛ける板垣さん / 昭武が着用した陣羽織(複製)に袖を通した板垣さん