「松戸市戸定歴史館」の企画展を観に行って来ました。11月4日(土)~12月17日(日)の9時30分~16時 、「戸定が丘歴史公園」と「千葉大学園芸学部」の間の「回廊門」が開放されていました。申請なしで庭園見学できるチャンスなので、まずは「千葉大学園芸学部」に行くことにしました。尚、「牧野富太郎博士」は明治44年から3年間、「千葉県立園芸専門学校」(千葉大学園芸学部の前身)で教鞭をとっていました。その「牧野イズム」は「牧野植物同好会」に引き継がれています。
「フランス式庭園」は「ヴェルサイユ宮殿」をモデルに造られ、「千葉大学園芸学部」のシンボルとなっています。左右対称性・幾何学的な配置の植栽を特徴としています。
「イタリア式庭園」はセンターサークルと一段ずつ高さが異なるテラス式の構造で、腰植えの混垣が特徴です。
「イギリス式庭園」は柏物産国際交流会館「洗心倶楽部」の前の庭園で、自然を主役にした「風景式庭園」です。自然の景観美を大切にしながら庭造りを行うのが特徴。
また、歌人の「与謝野晶子」は、この地に咲き乱れる「ヒナゲシ」を見に訪れ、60首もの短歌を詠んでいます。「戸定が丘歴史公園」にも句碑が多くあります。
「松戸市戸定歴史館」では企画展《 徳川公爵家のバックヤード 》が開催されていました。「古澤秀彌」氏は幼少時から「徳川慶喜」の屋敷で息子たちの御相手を勤め、15歳からは「家丁」となって52年間の徳川家職員としての歩みが始まりました。「徳川慶喜」から「慶久」・「慶光」と3代に亘って仕え、「家令心得」まで上りつめて14年間その重責を果たしました。「家令」とは職員をまとめて家政を任される責任者の事で、職員には「家扶」・「家従」・「家丁」などがあります。歴代の当主から譲られた品を核とする「古澤秀彌」氏の旧蔵資料で貴重な物が多くありました。
「古澤秀彌」氏は幼少時から「徳川慶久」の御相手を勤めていました。4歳年上の兄の様な関係で、主従関係を超えた信頼関係と深い絆がありました。「慶久」から「古澤」氏への書簡には自らを「KQ」と親しみを込めて書いています。「徳川慶喜」が仲の良かった弟の「昭武」への電報に【フツカ ニバン ニテ マイル サシツカエ ナキヤ ヘンジ マツ トクガワ ケイキ】(たびたび「戸定邸」を訪れていました) と記していたのと似ているような気がしました。
この日は「戸定が丘歴史公園」の「東屋」から「ダイヤモンド富士」が見える日だったので、楽しみにしていました。時間も閉館前だったので助かりました。私を含めて5人程が見に来ていました。人気スポットなの? 太陽の位置が少し左側寄りだったので、あっという間に「富士山」の後ろに隠れてしまいました。ここから見るのは初めてだったので嬉しかったです。「昭武」も同じ景色を見ていたのかと思うと感慨深いものがありました。もちろん当時はビルや高速道路もなく、遠くに「江戸川」が見えていましたが・・・。
「千葉大学園芸学部」のシンボルとなっているフランス式庭園
イタリア式庭園 イギリス式庭園 与謝野晶子の句碑
「古澤秀彌」氏と「小日向邸」の庭と玄関 徳川慶喜【紅白花卉図】・ 銀三ツ組賜盃ほか
うっすらと富士山が見えています<14時6分頃> -手前に見えるのは東京外環自動車道-
頂上の左端に太陽がかかりました<16時24分頃> 左寄の上に太陽が・・・<16時25分頃>
かなり下がりました<16時25分頃> 少しだけ光が見えています<16時26分頃>
富士山の後ろに太陽が隠れた直後<16時27分頃> -太陽が雲を照らしています-
日没(16時35分)後 <16時45分頃>