9月6日は「広重忌」でした。それに合わせて「東岳寺」で《 一日だけの広重展 》が行なわれていました。「東岳寺」は1633年(寛永10年)に浅草新寺町(現在の台東区松が谷1丁目付近)に開創された寺院です。区画整理にともない、1961年(昭和36年)に現在の足立区伊興本町に移転しました。「竹ノ塚駅」から歩いて10分、尾竹橋通り沿いに面しているので分かり易いです。こじんまりとした寺ですが、池や石橋や灯篭が配されていて落ち着いた雰囲気でした。
「歌川広重」(本名:安藤重右衛門)は1797年(寛政9年)に「定火消同心」の「安藤源右衛門」の子として生まれました。家督を継ぎながら、15歳頃の時に「歌川豊広」に入門し、間もなく画号「広重」を許されました。後に号を「一立斎」・「一游斎」などと名乗っています。1858年(安政5年)に62歳でコレラで亡くなり、「東岳寺」に葬られました。「記念碑」と墓は「東京都指定旧跡」となっています。「記念碑」には辞世の句として【東路へ 筆をのこして 旅の空 西の御国の 名ところを見ん】が刻まれていました。あの世に行っても描き続けたいという事でしょうか? 墓石には「一立齋廣重」と刻まれています。「広重」の名跡は二代目は娘婿が継ぎ、五代目まで続きました。
「広重」の浮世絵は遠近法を取り入れた臨場感ある風景画で、大胆なフォルム・構成力・優れた写実性などが掲げられます。「東海道五十三次」・「木曽街道六十九次」・「名所江戸百景」などの「名所図絵シリーズ」を刊行しました。また、特に印象派には多大な影響を与え、「モネ」は「ジヴェールニー」の邸宅に太鼓橋を作って悦に入っていたようです。今展は晩年の大作である「名所江戸百景」からの作品です。「足立区立郷土博物館」の所蔵で、「アダチ版画」が複製制作したものです。
【真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図】の「真先稲荷」(現在の荒川区南千住)は「隅田川」の景観も伴って江戸名所の一つとなっていました。境内には茶店や料理屋が並び、その中でも有名な「甲子屋」の二階からの眺めであると言われています。 丸窓を遮断している白い障子と暗い室内のコントラストが巧みです。そして室内の椿の花と窓外の梅の花を対比することで、この大胆な構図を粋で酒落たものにしています。丸窓から見える景色は対岸の森の中に「水神社」の鳥居が見え、その左手には「木母寺」へ入る「内川」が描かれています。川より先は「関屋の里」、その上方には「筑波山」。季節は椿や梅の咲く頃で、窓外中央に梅の花を配したことで「初午の日」と考えられそうです。
【大はしあたけの夕立】は隅田川ニ架かる「大はし」を、遠景がぼける程に激しい夕立に降られながら渡る人々。西岸から見て描かれています。「大はし」は、日本橋の浜町から深川六間堀の方に架かっていた「新大橋」のこと。東岸には「江戸幕府御座船」の「安宅丸」がかつて繋留されており、船が解体された後も一帯を指して「あたけ」の名が使われていました。オランダの著名な画家「ゴッホ」も、【亀戸梅屋舗】と共にこれを模写しました。
「ジョン・スチュワート・ハッパー」(米国人の浮世絵研究家)は「広重」に魅了されて海外に紹介しました。自ら「廣重ハッパー」と称し、46年間日本に移り住みました。日本文化を世界に広めた功績が認められ、生涯愛した「広重」と同じ「東岳寺」に葬られました。また、元宝塚女優だった「香月弘美」(本名:小笠原弘恵)に捧げる「柳原白蓮」の歌碑がありました。【めになみだ こよひの月の なきものを 香ふさくらか うすあかりせり 白蓮】 「香月弘美」は21歳という若さで舞台で不幸な事故に遭い、この世を去りました。墓地スペースの「小笠原家」の墓に葬られています。川柳で有名な「花屋久次郎」の遺跡もありました。「東岳寺」では毎年2月11日に、「花久忌」という川柳の会が開催されるそうです。
通り沿いに面している門(奥に本堂が見えています) / 本堂(階段を上がって2階に)
本堂下の1階で展示 / 「歌川広重」の略歴
真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図 / 亀戸梅屋舗 / 水道橋駿河台
大はしあたけの夕立 / 真間の紅葉手古那の社継はし / 猿わか町よるの景
浅草金龍山 / 深川洲崎十万坪 / 王子装束ゑの木大晦日の狐火
「歌川広重」の記念碑:1924年(大正13年)に建立 / 墓:1958年(昭和33年)に再建
「ジョン・スチュワート・ハッパー」の墓碑 / 「柳原白蓮」の歌碑 / 「花屋久次郎」の遺跡