主人公のモデルの「三淵嘉子」氏は日本初の女性弁護士で後に裁判官となった女性。「明治大学」は、いち早く法学を志す女性に門戸を開き、1929年(昭和4年)に専門部の一部門として女子部を設置。1931年(昭和6年)には「明治大学」が設置する学部への入学を認めました。その結果、「三淵嘉子」(ドラマでは猪爪寅子)、「中田正子」(ドラマでは久保田先輩)、「久米愛」(ドラマでは中山先輩)という3名の日本初の女性弁護士が誕生しました。
最近、寒暖の差が大きくて体がついていきません。前日は雨と風でとても寒い一日でした。13日(水)は晴れて暖かくなったので、成田駅まで展覧会を観に行って来ました。17日(日)まで、展覧会が2ヶ所で開催されていたので両方共観ました。
《 元陽会 千葉支部展 》は「成田市文化芸術センター・スカイタウンギャラリー」で開催されていました。50号から100号位の大きな作品が多かったです。【一夜の輝き サガリバナ】の「サガリバナ」(下がりばな科)という花を初めて知りました。夏の夜に花が咲き、朝になったら萎むそうです。まるで「月下美人」みたいですね。花の形は「ねむの木」(まめ科)に似ていますが、葉や実はぜんぜん違います。
《 第42回 青樹会展 》は「なごみの米屋」の「成田生涯学習市民ギャラリー」で開催されていました。小さな会場なので、50号以下の小さめの作品30点でした。【船溜まり】(F50号)を描いた方は、やはり船をテーマに100号で描き、「日展」にも出品して入選したそうです。
【節理】 【小春日和】
【波濤Ⅰ】 【美しい距離】
【一夜の輝き サガリバナ】 【光と影】
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《 第42回 青樹会展 》
【花】 【船溜まり】
【漁港】 【秋の日の協奏曲】
【蟹】 【かすみが浦】
用事で成田駅に行ったついでに、「成田市文化芸術センター・スカイタウンギャラリー」で《 いわむらかずお絵本原画展 》を観て来ました。「成田市制施行70周年記念」の事業として開催されたものです。残念ながら作品は撮影は不可となっていました。仕方がないので、パンフレットの表と、裏は画像のみコラージュして載せました。私は参加しませんでしたが、「子どものための読み聞かせ会」のイベントとサイン会が会期中に2回行なわれていました。
【 14ひきのさむいふゆ 】は「14ひきのシリーズ」で、野ねずみの家族がテーブルを囲んで「とんがりぼうしゲーム」をしているところです。/【 かんがえるカエルくん 】は子どものための哲学入門です。「カエルくん」は栗の気持ちを考えています。/【 もりのあかちゃん 】は「こりすのシリーズ」で、こりすの3兄弟の話。/他に「トガリネズミ」の若者「トガリィ」が「トガリ山」のてっぺんを目指して登る「トガリ山のぼうけんシリーズ」も展示されていました。
「合作絵本」は【はらぺこあおむし】でお馴染みの「エリック・カール」氏との合作で、【 どこへいくの?To See My Friend!】です。『どこへいくの?』と動物たちが次々と仲間を増やしながら歩いて行くお話です。「エリック・カール」氏が左の表紙から描き始め、「いわむらかずお」氏が右の表紙から描きます。そして、真ん中のページが観音開きになっていて、大画面で二人の絵が出会うというユニークで楽しい絵本です。合作のきっかけは2000年1月に「いわむらかずお絵本の丘美術館」で開催された二人の原画展になります。その時に意気投合し、「エリック・カール」氏の提案で「合作絵本」づくりが始まりました。2001年に出版されました。
代表作の「14ひきのシリーズ」は、豊かな自然を背景に3世代家族の14ひきの野ねずみの日常生活が描かれています。それぞれが個性豊かに生き生きと愛らしく描かれていました。背景の花・昆虫・鳥などの生物や四季折々の自然は、実体験を基にリアルに丁寧に表現されていました。私は子どもの頃は都内に住んでいました。まだ田んぼや溜め池・林などが周りにあって、そこで遊んだのを思い出して懐かしさを感じました。
「いわむらかずお」氏は1939年に東京都足立区に生まれました。5歳の時に秋田県に疎開し、戦後は杉並区に住みました。「東京芸術大学・美術学部」を卒業後、36歳の時に里山を求めて栃木県の益子町に移り住み、畑を耕しながら創作活動を続けました。1998年(平成10年)には栃木県那珂川町に「いわむらかずお絵本の丘美術館」を開設しました。
作品の多くは国内だけでなく、フランス・ドイツ・台湾などでも翻訳され、ロングセラーとなりました。国内では出版の各賞を数多く受賞し、2014年には「フランス芸術文化勲章シュヴァリエ」を受賞しました。84歳の今でも絵本・自然・子どもをテーマに活動を続けています。
左より【14ひきのさむいふゆ】 【かんがえるカエルくん】/【もりのあかちゃん】/「合作絵本」
ポスターより:14ひきが成田にやってくる! 入口の撮影のスポットより:顔出しパネル
会場入口と廊下の壁のタペストリーより:「14ひきのシリーズ」の野ねずみ
壁に貼られた切り抜きより:「14ひきのシリーズ」の野ねずみと【かんがえるカエルくん】
「松戸市戸定歴史館」の企画展を観に行って来ました。11月4日(土)~12月17日(日)の9時30分~16時 、「戸定が丘歴史公園」と「千葉大学園芸学部」の間の「回廊門」が開放されていました。申請なしで庭園見学できるチャンスなので、まずは「千葉大学園芸学部」に行くことにしました。尚、「牧野富太郎博士」は明治44年から3年間、「千葉県立園芸専門学校」(千葉大学園芸学部の前身)で教鞭をとっていました。その「牧野イズム」は「牧野植物同好会」に引き継がれています。
「フランス式庭園」は「ヴェルサイユ宮殿」をモデルに造られ、「千葉大学園芸学部」のシンボルとなっています。左右対称性・幾何学的な配置の植栽を特徴としています。
「イタリア式庭園」はセンターサークルと一段ずつ高さが異なるテラス式の構造で、腰植えの混垣が特徴です。
「イギリス式庭園」は柏物産国際交流会館「洗心倶楽部」の前の庭園で、自然を主役にした「風景式庭園」です。自然の景観美を大切にしながら庭造りを行うのが特徴。
また、歌人の「与謝野晶子」は、この地に咲き乱れる「ヒナゲシ」を見に訪れ、60首もの短歌を詠んでいます。「戸定が丘歴史公園」にも句碑が多くあります。
「松戸市戸定歴史館」では企画展《 徳川公爵家のバックヤード 》が開催されていました。「古澤秀彌」氏は幼少時から「徳川慶喜」の屋敷で息子たちの御相手を勤め、15歳からは「家丁」となって52年間の徳川家職員としての歩みが始まりました。「徳川慶喜」から「慶久」・「慶光」と3代に亘って仕え、「家令心得」まで上りつめて14年間その重責を果たしました。「家令」とは職員をまとめて家政を任される責任者の事で、職員には「家扶」・「家従」・「家丁」などがあります。歴代の当主から譲られた品を核とする「古澤秀彌」氏の旧蔵資料で貴重な物が多くありました。
「古澤秀彌」氏は幼少時から「徳川慶久」の御相手を勤めていました。4歳年上の兄の様な関係で、主従関係を超えた信頼関係と深い絆がありました。「慶久」から「古澤」氏への書簡には自らを「KQ」と親しみを込めて書いています。「徳川慶喜」が仲の良かった弟の「昭武」への電報に【フツカ ニバン ニテ マイル サシツカエ ナキヤ ヘンジ マツ トクガワ ケイキ】(たびたび「戸定邸」を訪れていました) と記していたのと似ているような気がしました。
この日は「戸定が丘歴史公園」の「東屋」から「ダイヤモンド富士」が見える日だったので、楽しみにしていました。時間も閉館前だったので助かりました。私を含めて5人程が見に来ていました。人気スポットなの? 太陽の位置が少し左側寄りだったので、あっという間に「富士山」の後ろに隠れてしまいました。ここから見るのは初めてだったので嬉しかったです。「昭武」も同じ景色を見ていたのかと思うと感慨深いものがありました。もちろん当時はビルや高速道路もなく、遠くに「江戸川」が見えていましたが・・・。
「千葉大学園芸学部」のシンボルとなっているフランス式庭園
イタリア式庭園 イギリス式庭園 与謝野晶子の句碑
「古澤秀彌」氏と「小日向邸」の庭と玄関 徳川慶喜【紅白花卉図】・ 銀三ツ組賜盃ほか
うっすらと富士山が見えています<14時6分頃> -手前に見えるのは東京外環自動車道-
頂上の左端に太陽がかかりました<16時24分頃> 左寄の上に太陽が・・・<16時25分頃>
かなり下がりました<16時25分頃> 少しだけ光が見えています<16時26分頃>
富士山の後ろに太陽が隠れた直後<16時27分頃> -太陽が雲を照らしています-
日没(16時35分)後 <16時45分頃>
10月10日(火)、「なごみの米屋」にある「成田生涯学習市民ギャラリー」に行って来ました。《 風景写真の仲間達・写真展 》が開催されていました。全部で9人、31点の作品でした。「富士山」が好きなので、気が付いたら「富士山」の作品を多く撮っていました。
【空駅へ行く】:「弘海和良」さんの作品で『第70回記念・新美術展』の写真部門で「大賞」になったものです。2枚の写真の合成で、光が当たって青く輝く線路の軌跡が、偶然に空に向かっている様な感じになったそうです。
【幻景】:2時間に亘って撮った光の点を繋げたものだそうです。明るい内にピントを合わせて三脚にセットし、暗くなってからシャッターを何回も押し続けたとのこと。
【妖艶 しだれ栗】:「しだれ栗」は初めて見ましたが、力強くて存在感がありました。夕焼けに浮かぶシルエットが素敵です。
【地霧に包まれる】:「落花生ぼっち」(収穫した落花生を乾燥させる為のもの)が地霧に包まれ、畑に浮かび上がっていて幻想的でした。
【愛しの霧幻列車】:「東日本大震災」と2011年7月の「新潟・福島豪雨」によって甚大な被害を受けた「只見線」。2022年10月1日に全線運転再開したそうです。川沿いを走る「只見線」、冬の雪景色の中を走る列車の風景はとても幻想的です。
【空駅へ行く】 【月光】 -静岡県富士宮市・田貫湖-
【幻景】 -茨城県霞ケ浦- 【妖艶 しだれ栗】 -群馬県旧六合村-
【霧幻峡~神秘の夏】 -福島県三島町- 【地霧に包まれる】 -千葉県成田市-
【夜明けの神秘】 -茨城県大洗- 【茜焼け】 -山梨県忍野村-
【桟橋夜景】 -千葉県南房総市- 【ダイヤモンド富士】 -山梨県山中湖村-
【波踊る】 -千葉県南房総市- 【愛しの霧幻列車】 -福島県金山町-
9月6日は「広重忌」でした。それに合わせて「東岳寺」で《 一日だけの広重展 》が行なわれていました。「東岳寺」は1633年(寛永10年)に浅草新寺町(現在の台東区松が谷1丁目付近)に開創された寺院です。区画整理にともない、1961年(昭和36年)に現在の足立区伊興本町に移転しました。「竹ノ塚駅」から歩いて10分、尾竹橋通り沿いに面しているので分かり易いです。こじんまりとした寺ですが、池や石橋や灯篭が配されていて落ち着いた雰囲気でした。
「歌川広重」(本名:安藤重右衛門)は1797年(寛政9年)に「定火消同心」の「安藤源右衛門」の子として生まれました。家督を継ぎながら、15歳頃の時に「歌川豊広」に入門し、間もなく画号「広重」を許されました。後に号を「一立斎」・「一游斎」などと名乗っています。1858年(安政5年)に62歳でコレラで亡くなり、「東岳寺」に葬られました。「記念碑」と墓は「東京都指定旧跡」となっています。「記念碑」には辞世の句として【東路へ 筆をのこして 旅の空 西の御国の 名ところを見ん】が刻まれていました。あの世に行っても描き続けたいという事でしょうか? 墓石には「一立齋廣重」と刻まれています。「広重」の名跡は二代目は娘婿が継ぎ、五代目まで続きました。
「広重」の浮世絵は遠近法を取り入れた臨場感ある風景画で、大胆なフォルム・構成力・優れた写実性などが掲げられます。「東海道五十三次」・「木曽街道六十九次」・「名所江戸百景」などの「名所図絵シリーズ」を刊行しました。また、特に印象派には多大な影響を与え、「モネ」は「ジヴェールニー」の邸宅に太鼓橋を作って悦に入っていたようです。今展は晩年の大作である「名所江戸百景」からの作品です。「足立区立郷土博物館」の所蔵で、「アダチ版画」が複製制作したものです。
【真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図】の「真先稲荷」(現在の荒川区南千住)は「隅田川」の景観も伴って江戸名所の一つとなっていました。境内には茶店や料理屋が並び、その中でも有名な「甲子屋」の二階からの眺めであると言われています。 丸窓を遮断している白い障子と暗い室内のコントラストが巧みです。そして室内の椿の花と窓外の梅の花を対比することで、この大胆な構図を粋で酒落たものにしています。丸窓から見える景色は対岸の森の中に「水神社」の鳥居が見え、その左手には「木母寺」へ入る「内川」が描かれています。川より先は「関屋の里」、その上方には「筑波山」。季節は椿や梅の咲く頃で、窓外中央に梅の花を配したことで「初午の日」と考えられそうです。
【大はしあたけの夕立】は隅田川ニ架かる「大はし」を、遠景がぼける程に激しい夕立に降られながら渡る人々。西岸から見て描かれています。「大はし」は、日本橋の浜町から深川六間堀の方に架かっていた「新大橋」のこと。東岸には「江戸幕府御座船」の「安宅丸」がかつて繋留されており、船が解体された後も一帯を指して「あたけ」の名が使われていました。オランダの著名な画家「ゴッホ」も、【亀戸梅屋舗】と共にこれを模写しました。
「ジョン・スチュワート・ハッパー」(米国人の浮世絵研究家)は「広重」に魅了されて海外に紹介しました。自ら「廣重ハッパー」と称し、46年間日本に移り住みました。日本文化を世界に広めた功績が認められ、生涯愛した「広重」と同じ「東岳寺」に葬られました。また、元宝塚女優だった「香月弘美」(本名:小笠原弘恵)に捧げる「柳原白蓮」の歌碑がありました。【めになみだ こよひの月の なきものを 香ふさくらか うすあかりせり 白蓮】 「香月弘美」は21歳という若さで舞台で不幸な事故に遭い、この世を去りました。墓地スペースの「小笠原家」の墓に葬られています。川柳で有名な「花屋久次郎」の遺跡もありました。「東岳寺」では毎年2月11日に、「花久忌」という川柳の会が開催されるそうです。
通り沿いに面している門(奥に本堂が見えています) / 本堂(階段を上がって2階に)
本堂下の1階で展示 / 「歌川広重」の略歴
真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図 / 亀戸梅屋舗 / 水道橋駿河台
大はしあたけの夕立 / 真間の紅葉手古那の社継はし / 猿わか町よるの景
浅草金龍山 / 深川洲崎十万坪 / 王子装束ゑの木大晦日の狐火
「歌川広重」の記念碑:1924年(大正13年)に建立 / 墓:1958年(昭和33年)に再建
「ジョン・スチュワート・ハッパー」の墓碑 / 「柳原白蓮」の歌碑 / 「花屋久次郎」の遺跡
この日は東京では35度超の猛暑日でしたが、「明治大学博物館」は駅から近いので思い切って行って来ました。「大塚初重」名誉教授は昨年に95歳で逝去されました。「大塚先生」は「明治大学考古学博物館」の初代館長を務めました。太平洋戦争から復員の後、発掘によって歴史を明らかにする考古学の存在に衝撃を受け、静岡県の「登呂遺跡」の調査への参加を皮切りに、1950年に創設された考古学専攻と歩みをともにする形で日本各地の遺跡の発掘調査とその研究に携わりました。
その中でも、石で古墳の墳丘を築く積石塚が特徴的な長野県の「大室古墳群」、未盗掘の状態で壁画が描かれていた横穴式石室が発見された茨城県の「虎塚古墳」をはじめとする東日本の古墳文化を研究の中心に据え、実像を明らかにして来ました。本展では、「大塚先生」が手がけた発掘調査による数々の出土品・調査記録とその関連資料から、その研究と考古学の普及に対する情熱と足跡が伺えました。
「玉里舟塚古墳」の武人の埴輪は上半身と下半身を別々に作り、設置時にはめ込むという特殊な方法で作られています。これは茨城周辺のみで見られる方法だそうです。他に女子・力士・馬を引く人物や円筒埴輪・家形埴輪・馬形埴輪などが出土しました。「箱式石棺」は特殊な二重構造となっています。
「虎塚古墳」の「石室壁画」は「ひたちなか市埋蔵文化財センター」に所蔵されている実物大模型から画像を起こしたものなので、実際の壁画より鮮明に表現されているそうです。凝灰岩の粉末の白土を塗った壁に「赤いベンガラ」で図形を描き、天井石と床石は真っ赤に塗られています。三角文と丸文の他は武器・武具類が描かれているとの事。玄室は全長約3m・天井高1.5m・床面の幅1.5m(いずれも最大値)となっています。
「大塚先生」は現場で「スケッチ」を線描きし、宿舎に戻ってから水彩鉛筆で色付けしていました。何故「スケッチ」をするかというと、「スケッチ」をする為には対象物を確実に見つめないと描けません。観察しながら描くと、不思議と頭の中に特徴がインプットされるそうです。カメラで何枚も撮りまくると、それで安心して観察がおろそかになってしまいます。「スケッチ」は思い出の玉手箱にもなっているとの事。
余談ですが、「大塚先生」は1974年(昭和49年)の48歳頃の時に成田市に転居しました。「成田祇園祭」が大好きで、毎年鰻屋さんの2階を貸し切り、ゼミの学生さんやお弟子さん達と食事をするのを楽しみにしていたそうです。2019年が最後かな、とおっしゃっていたと女将から聞いていました。さっそく、先生が監修した「古代史散策ガイド 巨大古墳の歩き方」の本を持ってサインを戴きに行きました。快く応じていただきました。2020年にコロナ禍で「成田祇園祭」が中止になる前年の事でした。
右上:「三昧塚古墳」の金銅製馬形飾付冠・復元品 / 右下:「大室古墳群」を調査中の大塚氏<1984年>
「玉里舟塚古墳」の人物埴輪 / 「虎塚古墳」の石室壁画 / 「桜井茶臼山古墳」の石室のスケッチ
博物館前の大塚氏<1985年> / 「鳴滝古墳群」にて<2003年> / 「大室古墳」のスケッチ<2003年>
茨城県の「玉里舟塚古墳」 埴輪(上半身) / 埴輪(下半身) / 箱式石棺
茨城県の「虎塚古墳」の「石室壁画」の実物大模型より 西壁 / 奥壁 / 東壁
スケッチの際に用いた画材(水彩鉛筆と筆で彩色) / 奈良県の「桜井茶臼山古墳」の石室で描く様子
成田市(旧大栄町)生まれの画家、「小幡春生」(おばた しゅんせい 1920-2006)の展覧会が成田の「スカイタウンギャラリー」で開催されていました。「日本画家」でありながら、油絵にも非凡な技量を持ち、仏画・人物画・美人画・風景画・歴史画・民話画など、多彩なジャンルの作品に取り組みました。美術学校に行ったことも無く、技術力は模写で身につけたものです。多くの模写を駆使して「春生」の画法が確立されました。瞬間に見た光景を3ヶ月間忘れないというのも脅威の能力です。「山下清」?
「小幡春生」は少年の頃に出征し、辛酸をなめながら絵を描き続けました。シベリア抑留中にスパイ容疑を掛けられ拷問を受けました。独房へ戻った「春生」は、いつ死ぬかもしれない自らの魂の救いを求め、傷口から噴出す血で牢獄の壁に「不動明王像」を描き始めました。ソ連将校にその才能を驚かれ、看守長や上官・政治家の「肖像画」まで描くようになり、拷問から開放されました。
その後、「レーピン美術館」の作品を模写する任務を与えられました。さらにその功績が認められ、日本人では珍しい「ロシア共和国功労芸術家賞」の受賞という栄誉を得ました。また、「モスクワ大学」で学生に絵を教えることもありました。帰国後、「戦争の真実」というテーマで自らの戦争体験・抑留時代・敗戦により翻弄される人々の姿を何枚も描いていますが、あまりに悲惨なその情景は色などつけられないと、着色せずに描いたそうです。
戦後、「モスクワ展」(正確な名称は不明)が開催された折には、展示された作品の多くは「小幡春生」が模写した作品だったとも言われています。おそらく「ソ連」は原画は持って来ず、「春生」の書いた 「模写作品」 を日本で展示したのかもしれないそうです(真実は不明)。
帰国後は生活の糧として「肖像画家」となり、政治家や著名人からも依頼されました。1976年頃、アメリカの「ボストン美術館」に所蔵されていた【千手観音画像】の修復の依頼が日本政府にあり、「肖像画」を描いたよしみで「坂田文部大臣」から依頼されました。このとき修復と同時に模写もし、絹本に金箔の裏打ちをしたもの(千葉県立美術館所蔵)と、プラチナ箔の裏打ちをしたもの(個人所蔵)の2点を完成させています。そしてこの後、「日本画」へと急速に傾斜していきます。
岩肌の表現は「川合玉堂 」から、ぼかしは「伊東深水」から影響を受けているそうです。1971年頃、住んでいた横浜市の教育委員会の依頼により「横浜の民話画」(水彩画)を描いています。「PTA横浜」という機関誌に47回、およそ8年間にわたり連載したもので、1987年に一冊にまとめたものが【 横浜の民話集 】として発行されています。
1991年には郷土の「香取神宮」から焼失した【 香取神宮年中行事絵巻 】の復元を依頼されました。実際には50号位の大きな額装された作品10点を奉納しました。また、千葉県ゆかりの偉人である「伊能忠敬」の死後、序文や沿海実測録の浄書など「伊能図」の完成に協力した「久保木清淵」。その7代後の末裔で、「春生」の理解者だった「久保木良」氏との交流が【 伊能忠敬 行跡図 】を描く流れになったようです。
【左】紫式部[日本画] / 【上】大日如来[日本画] / 【下】横浜の民話より[水彩画]
【上右】騎馬行軍の図[油彩画] / 【下中】ソビエト抑留中に、血で壁に絵を描く春生[墨彩画]
【仏画】 不動明王(赤不動)[日本画] / 釈迦修業図[版画] / 龍上観音[版画]
【歴史画】 天の岩戸[日本画](香取神宮所蔵) / 白雪に染む桜田門外の変[日本画]
【美人画・動物画】 舞姫[日本画] / 猫[日本画]
【香取神宮祭典絵図】 大宮司・大禰参拝の図[日本画] / 神饌調進の図[プリント]
【伊能忠敬 行跡図】 伊豆測量の図 / 測量図を突き合わせている所?
家で昼食終了後、「三井記念美術館」に行って来ました。初めて行く美術館でしたが、営団地下鉄の「三越前駅」で降りて、A7番出口から出てすぐだったので分かり易かったです。展示期間が前期と後期に分かれていた為、前期のものは観られませんでした。あまり混んでいなかったので、ゆっくり観る事が出来ました。パンフレットに載っているのは主に前期展示と通期展示のものです。
【プロローグ】・・・ 「大日本五道中図屏風」でたどる家康の足跡
この屏風は8曲2双で江戸から長崎までの街道を描いた鳥瞰図的な長い絵図でした。家康没後30年頃の景観が描かれています。岡崎城・浜松城・駿府城・関ヶ原の布陣・久能山東照宮・甲斐・信濃・小田原・名古屋城などが描かれ、家康の一生をたどることができました。パンフレットには右から岡崎城・浜松城・駿府城・関ヶ原の布陣・久能山東照宮が抜粋して載っています。
【第1章】・・・ 家康誕生 -今川からの独立と三河平定-
「今川義元」像・「於大の方」(母)像・珍しい町人風の「徳川家康」像などが展示してありました。「徳川十六将図」 は江戸時代を通じて写し継がれて数多く伝わっているそうです。私が観たのは18、19世紀頃の刀鍛冶が描いたとされるもので、名前にいくつか誤記があるみたいです。十六という数は「十六羅漢」など宗教的な影響を受けていると思われます。
【第2章】・・・ 戦国乱世の選択 -今川・武田との抗争-
「長篠合戦図屏風」 も何種類かあるようですが、後期に展示されていたのは 「長篠・長久手合戦図屏風」 (18世紀のもの)でした。これは渡辺家の注文作とされていて、「渡辺守綱」の活躍が強調されています。ご先祖の武勲をたたえる合戦図となっていました。「落合左平治背旗図」もありました。これは「鳥居強右衛門」の最後の磔(はりつけ)姿を描いた「背旗」を写して「掛け軸」にしたもの。下部に由来と経緯が記されていました。
【第3章】・・・ 豊臣大名徳川氏 -豊臣政権下の家康-
後期の「豊臣秀吉」画像は「豊国大明神」として神格化されたもので、垂纓(すいえい)の冠を被り両手で笏(しゃく)を持った姿が特徴のものでした。
【第4章】・・・ 天下人への道 -関ヶ原から江戸開府-
後期の 「関ヶ原合戦図屏風」 は「大阪城天守閣」所蔵のもの。全面に山と金雲が描かれていて豪華でした。家紋の描かれた陣幕で布陣もうかがえ、奮戦の様子が良く分かりました。家康自筆とされる「水艸立鷺図」(みずくさにたつさぎず)は素人ながら味わい深い水墨画でした。
【第5章】・・・ 大御所時代 -駿府での生活と大坂の陣-
後期の「洛中洛外図屏」は、「伏見城」と「二条城」がともに描かれている珍しい屏風でした。「祇園祭」の「山鉾巡行」や「家康参内」の行列も描かれ、賑やかな様子がうかがえました。「びいどろ薬壺」の中には粉末が残っていて、真ん中の壺に「ちんひ」と付箋が付いているので、胃腸の薬の「陳皮」と思われるとの事。「高台院」(ねね)像は凛とした佇まいの老尼として描かれていました。中立を保ち続け、家康も好意を持っていたようです。
【第6章】・・・ 東照大権現 -家康、神となる-
元和2年(1616年)4月17日、家康が「駿府城」内で他界しました。遺言に従いその日の夜、久能山に遺骸が遷されました。社殿の造営が始まり、神として祀られました。神号は「天海」の主張する「天台宗系」の「山王一実神道」による大権現号が、「秀忠」によって選ばれました。朝廷の勅許をえて「東照大権現」に決まりました。「東照大権現像」は上部に「天海僧正」の賛写が書かれていました。
【エピロ-グ】・・・ 御神体 家康の刀剣と甲冑
「金陀美具足」と共に「徳川秀忠」所持の「茶糸威具足」も展示してました。「秀忠」の甲冑は殆ど残っていないそうです。
大河ドラマ「どうする家康」ブースではドラマの相関図が展示されていました。撮影スポットがあり、記念写真を撮れるようになっていました。
「三井記念美術館」の入口は「日本橋三井タワー」の1階アトリウムとなっていました。近代的な超高層ビルの入り口から、昭和初期の洋風建築である「三井本館」(重要文化財)へと進みます。エレベーターで7階に上がると、当時の雰囲気が残る展示室へ導かれるという感じになっていました。「三越前駅」から「三井記念美術館」へ行く途中に「三越日本橋本店」の入口があったので、【おまけの画像】として載せました。
「金陀美具足」と「大日本五道中図屏風」・部分 / 下:長篠合戦図屏風(最古のもの・連合軍側1隻のみ)
中:関ヶ原合戦図屏風(津軽屏風) / 左下:びいどろ薬壺 / 上:東照大権現像
大河ドラマ「どうする家康」ブースのパンフレット / 撮影スポット
「三井本館」(三井記念美術館) / 【おまけの画像】「三越日本橋本店」の地下鉄コンコースからの入口