サヨコの独り言

興味のあるものを「コンデジ」で撮影しに行ったり、
街で偶然に見かけたものを「スマホ」で撮っています。

《 伊藤哲作品展 》 -江戸琳派雅号「雨華庵」継承-

2024年12月11日 | 展覧会
《 伊藤哲作品展 》を観に「成田スカイタウンギャラリー」に行って来ました。「伊藤哲(さとし)」氏は1962年に成田市で生まれ、「東京芸術大学」大学院美術研究科版画専攻修士課程修了後、「(株)電通」でアートディレクターとして勤務しました。4年後に日本画家を志して退社しました。

「琳派芸術」は「俵屋宗達」から始まり、「尾形光琳 」・「酒井抱一」と「私淑」(ししゅく)という形で継承されて発展して来ました。「私淑」とは、時間や場所が遠く離れた人々によって受け継がれ、直接学ぶことは出来ないが、その人を模範として学ぶ事です。「伊藤哲」氏は2016年に酒井家七代目「酒井抱美(ほうび)」氏から雅号「雨華庵」(うげあん)を襲名しました。 

「雨華庵」は現在の台東区根岸にあり、「酒井抱一」が終の棲家として晩年を過ごしました。「夏秋草図屏風」も此処で描かれました。弟子たちを指導する画塾でもあったそうです。残念ながら焼失してしまいましたが、弟子の「田中抱二」が記憶を頼りに「見取図」を描きました。それを基に「伊藤哲」氏が2023年に「復元ジオラマ」を制作しました。

「尾形光琳」の「風神雷神図」(重要文化財)の裏には、依頼を受けた「酒井抱一」の「夏秋草図屏風」(重要文化財)が描かれていました。近年、「酒井抱一」の「夏秋草図屏風」の画面を損傷から守るべく、両作品を分離してそれぞれを別作品として一双の屏風に改められています。それを合成して描いたのが「伊藤哲」氏の【降臨せし風雷神のために】になります。

1998年~2010年の12年間、沈んだ世相を背景に『明るく元気よく』という依頼を受け、「金刀比羅宮」の「干支絵馬」を制作しました。

撮影不可の作品の中には「四季胡蝶絵巻」(春・夏・秋・冬)や「仏涅槃図」(千葉県・長徳寺蔵)などがありました。絵巻はそれぞれ60m位の大作でした。

尚、「酒井抱美」氏は、日本美術の貴重な財産である「江戸琳派」を継承・発展させ、ひいては日本文化の発展に寄与することを目的として、2013年1月に「NPO法人江戸琳派継承会」を立ち上げました。 「伊藤哲」氏も参加しています。

【降臨せし風雷神のために】(二曲一双)  上:【風神雷神図屏風】(模写) 下:【夏秋草図屏風】(写真)

【伏龍図】

【誕生】              【助六】

左上より・・・  【深見草】    【日食】    【紅蓮】    【雪月花】

【讃岐・金刀比羅宮干支絵馬】



プレミアム H2 ウォーター【水素水】のパッケージデザイン

「田中抱二」が残した見取り図(模写)    【雨華庵憧憬】(復元ジオラマ) 約35分の1の縮尺

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《 連続テレビ小説「虎に翼」展とゆかりの地 》 -御茶ノ水界隈にて-

2024年10月29日 | 展覧会
連続テレビ小説「虎に翼」が9月27日(金)で放送が終わりました。10月22日(火)、「明治大学博物館」で開催されていた《 連続テレビ小説「虎に翼」展 》を観に行って来ました。番組小道具・劇中衣装・出演者全身パネル・セット再現など、そして「三淵嘉子」氏に関する資料が展示されていました。 ついでに、ゆかりの地を巡って来ました。題名の「虎に翼」は「鬼に金棒」と同義語になります。

主人公のモデルの「三淵嘉子」氏は日本初の女性弁護士で後に裁判官となった女性。「明治大学」は、いち早く法学を志す女性に門戸を開き、1929年(昭和4年)に専門部の一部門として女子部を設置。1931年(昭和6年)には「明治大学」が設置する学部への入学を認めました。その結果、「三淵嘉子」(ドラマでは猪爪寅子)「中田正子」(ドラマでは久保田先輩)、「久米愛」(ドラマでは中山先輩)という3名の日本初の女性弁護士が誕生しました。

「三淵嘉子」氏(1914年~1984年)は武藤家の長女として生まれ、弟が4いました。書生だった「和田芳夫」(戦病死)と結婚し、長男の「和田芳武」(寄生虫研究者)が生まれました。恩師の喜寿の祝いの寄せ書きには「和田嘉子」の横に「ヨシタケ」(当時5歳位)と名前が書かれていました。1956年に「三淵乾太郎」氏(裁判官)と再婚しました。ドラマの設定とは多少違いがありますね。同級生たちは殆ど創作ですが、朝鮮から来た留学生がいたことは確かだそうです。 

「三淵乾太郎」氏は初代最高裁長官「三淵忠彦」の長男として生まれました。忠彦の伯父の「萱野長修」(通称・権兵衛/会津藩家老)は、「戊辰戦争」に敗れた会津藩の責任者として主君の「松平容保」を命がけでかばって処刑されました。忠彦が建て、晩年を家族と共に過ごしたのが小田原市板橋の「甘柑荘」です。 

話は変わりますが、「中田正子」氏は昭和20年から夫の実家の鳥取県に疎開し、昭和23年に「鳥取県弁護士会」に登録しました。会長として「日本弁護士連合会理事」も歴任し、62年余り弁護士活動を続けました。2016年には「鳥取県弁護士会」がマスコットキャラクター「まさこ先生」を作成しました。

「桂場」や「寅子」たちが度々訪れていた「竹もと」のモデルとなった神田須田町にある「竹むら」 (創業1930年/昭和5年)に行って来ました。昭和の面影が残った木造3階建で、「東京都選定歴史的建造物」に選定されています。ドラマが終わってから1ヶ月近く経っていたのに30人程並んでいました。甘味が好きなので、入ってみたかったのですが諦めました。この辺りは戦災を逃れた古いお店が多く残っている地域だそうで、道路の反対側にはあんこう鍋の「いせ源」 (創業1830年/天保元年)がありました。関東大震災を経て、昭和5年に店舗を再建。同じく「東京都選定歴史的建造物」に選定されています。別の機会にまた来ようと思いました。

「明治大学」の裏手、神田猿楽町にある「錦華公園」と隣接した所にあった「錦華小学校」は、明治6年の開校で「夏目漱石」も学んだ歴史のある学校です。現在は「お茶の水小学校・幼稚園」となっています。公園は昭和4年の開園で、「明治大学」の学生たちが憩いの場所としていた写真が残っています。「階段」と「自然池」と「滝」などは当時の面影が残っているそうです。小学校・幼稚園が近く遊具もあるので、子ども達がいて賑やかでした。

パンフレットの法服には寅子の人生や物語にちなんだイラストが描かれています

「めいじろう」も法服を着ています          「猪爪はる」と「桂場等一郎」の全身パネル

法服とガウン       「明律大学」・「同女子部」の看板    「明治大学女子部」の制帽(資料)


「明律大学」の校旗   女子部の階段踊り場のステンドグラス     「花岡」と「寅子」の着用衣装  


「島田鉄吉」(3代目女子部長)の喜寿祝の寄せ書き  「三淵乾太郎」と「三淵嘉子」 -「甘柑荘」にて-

おしるこ屋「竹もと」のモデルとなった「竹むら」       道沿いには30人程並んでいました

「錦華坂」        「錦華公園」の案内板           「錦華公園」の自然池と滝

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《 第7回飛行機模型展 in NARITA 》-成田生涯学習市民ギャラリーにて-

2024年07月28日 | 展覧会
《 第7回飛行機模型展 in NARITA 》が「なごみの米屋」の「成田生涯学習市民ギャラリー」で開催されていました(7月16日~21日)。飛行機の模型を作り続けて60年以上になる「山田晴男」さんが主催の展覧会です。仲間達13人による作品は100点近くもありました。それぞれ得意なアイテムがあるそうで、ジェット機や自衛隊機・ドイツ機・複葉機・ジオラマ模型など様々で、バラエティーに富んでいて楽しかったです。7月16日(火)に行きました。

今回のメインテーマは『ビンテージ、レトロ&ノスタルジー』。「ノスタルジー」のコーナーには、子どもの頃に弟と一緒に作った事のある様な懐かしい「プラモデル」がたくさん展示してありました。

帰りに参道にある「成田参道房の駅」さんの前を通ったらビラが貼ってありました。4月23・24日に行なわれた「第82期名人戦」の時の「なりた勝負おやつ」の「妖精のお芋モンブラン団子」でした。まだ食べた事はありませんが、食べてみたいです。

成田駅の改札口に「JR東日本 ポケモンスタンプラリー2024」のポスターがあり、その上に「駅長犬」が運転する「山車」のような電車が飾ってありました。 尚、成田駅はスタンプの設置駅ではありません。

成田駅の連絡通路に「ツバメ」の巣がありました。巣立ちが間近のようです。今頃に巣を見るのは珍しいです。毎年4~5月頃に巣を作っていて今年も見ましたが、はて?2回目の産卵なのでしょうか。

【モンローが来た】      -妄想のジオラマ模型です-


飛行機から降りて来たマリリンモンロー         撮影のスタッフの様子

作者のコメントより   -サルは撮影の機器の上、鳥は警備の人達の上にいます-

【米国義勇航空隊 P-40B】    -上と横から見たところ-

【日本海軍 零式三座水偵】  -上と横から見たところ-

【ソッピース キャメル&ブラウニー】     【フォッカーDR.1&レッドバロン】    【スパッドXⅢ&リッケンバッカー】

「成田参道房の駅」さんのビラ   改札口の「山車」の様な電車      ツバメの巣

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《 関東の山車人形と成田祇園祭展 》 -成田スカイタウンギャラリーにて-

2024年07月08日 | 展覧会
「成田祇園祭」が7月5日~7日まで行なわれました。合わせて《 関東の山車人形と成田祇園祭展 》が開催されていました。6月1日~7月7日まで前期と後期に分かれていました。歴代のポスターや古写真に加え、「ミニチュア山車・屋台」の模型なども展示されていました。関東の「山車人形」は全部で27体(対)、前期14・後期13と見応えがありました。同じ人物(神様)を扱った人形が多かったので、まとめてみました。

一番多かったのは【素戔嗚尊(すさのおのみこと)】でした。私の思っているイメージに近いのは桐生市の【素戔嗚尊】です。【楠木正成】と【日本武尊】も複数ありました。佐倉市の【日本武尊】はイケメンで、見上げるような大きさ(3m位)で存在感がありました。人形師によって顔がだいぶ違っていて興味深かったです。私は人形師の三代目「原舟月」が好きなので、合わせて載せました(印)。

鎌倉市の「極楽寺・八雲神社」では例祭の期間中、「導地蔵堂」に「八幡太郎義家」と「鎌倉権五郎景政」の山車武者人形が置かれ、「垂れ幕」が後ろに飾られます。人形は「後三年の役」の折、「義家」が弓で岩石を砕き湧き出させた清水を、「景政」が兜で受けている場面を表しています。 

「ミニチュア山車・屋台」の模型は成田市の「岡崎典利」 さんが制作した作品です。1/10サイズで骨組みから細部の装飾まで再現し、車輪や仕掛けは本物同様に動かせるように拘って作ってあるとの事。最後の「土屋」の「山車」が仕上がり、「成田祇園祭」の10台全ての「山車」と「屋台」が揃いました。

パンフレットより:幸町の山車の様子/仲之町の山車人形【神武天皇】/本町の山車人形【藤原秀郷】

昭島市の【須佐之男命】     本庄市の【素戔嗚尊】       久喜市の【素戔嗚尊】

栃木市の【素戔嗚尊】                 桐生市の【素戔嗚尊】

さいたま市の【楠木正成】     深谷市の【楠木正成】      下仁田町の【楠木正成】

佐倉市の【日本武尊】                栃木市の【日本武尊】

栃木市の【天照大神】               佐倉市の【関羽雲長】

鎌倉市 極楽寺・八雲神社祭典部の垂れ幕 -立体的な刺繍が施されていました-

土屋のミニチュア山車 人形は「大穴牟遅神」(おおなむじのかみ)大国主神 / 制作中の山車のパーツ  

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《 春の花便り④ 》 -水彩画展より-

2024年06月25日 | 展覧会
《 第5回「粋彩会」水彩画展 》が「なごみの米屋」の「成田生涯学習市民ギャラリー」で開催されていました(6月25日~30日)。油彩画の展覧会ばかり観ていたので、水彩画が新鮮に感じられました。講師と会員7名、全36点の作品から花の絵を中心に撮りました(春の花でない物も含みます)。同じテーマで描かれた絵があったので、並べてみました。

1枚目の【ミモザ】と【実りの秋】は講師の「岩澤秋弘」氏の絵です。【実りの秋】は板に描かれていました。【ゆり根の花】は「コオニユリ(小鬼百合)」でしょうか、初めて見ました。【相馬野馬追】は迫力があって躍動感があふれています。【夕暮れどき】は後ろに「公津の杜」の駅が見えています。【夏の日①】は子どもの様子と水の透明感が素敵でした。

【ミモザ】                     【ミモザ】

【柘榴】                        【柘榴】     

【私の好きな花】             【ひまわり】           【クレマチス】

【さくら】                      【優雅な気持ち】

【ゆり根の花】                 【ブランケットと果物】

【窓辺の花】             【花菖蒲】          【実りの秋】

【相馬野馬追】           【夕暮れどき】         【夏の日①】


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《 服部正一郎先生 没後30年記念回顧展 》 -成田山新勝寺にて-

2024年06月12日 | 展覧会
「成田山新勝寺」の「大本堂第二講堂」にて《 服部正一郎先生 没後30年記念回顧展 》が開催されていました。私は今回の展覧会で初めて名前を知りました。「服部正一郎」氏は「成田山光輪閣」のステンドグラスの原画制作や成田山だより『智光』の表紙絵として数々の作品を提供して下さっていました。54点の作品は1996年に令室「美代」氏から奉納されたものです。

先生は「日本芸術院会員」に就任し、「勲四等旭日小綬章」・「勲三等瑞宝章」等を受章。1995年の没後に「従四位」を授かりました。山を描いた風景画が多く、豊かな緑色で表現された自然は暖かさを感じました。「光輪閣」にも行って「ステンドグラス」の実物を観て来ました。「ステンドグラス」は作品名が書かれていなかったので、名前はパンフレットから推測したものです。

帰りに参道にある「國之家」さんの前を通ったらビラが貼ってありました。4月23・24日に行なわれた「第82期名人戦」7番勝負の第2局の時の「勝負めし」のものでした。2日間の昼食を提供しました。「おしながき」6点の中から1日目は上段の2点、2日目は下段の2点が選ばれました。お二人がそれぞれ何を選んだかは分かりません。全てに「千葉のみそピーナッツ」と成田名物の「瓜の鉄砲漬」が付け合わされていました。

また、「なりた勝負おやつ」は応募された中から投票で10点が決められました。1日目の午前中は③「黒平まんじゅう」、午後は⑤「成田産さつまいものショートケーキ」と⑩「妖精のお芋モンブラン団子」。2日目の午前中は⑨「やきだんご」、午後は⑨「やきだんご」と⑦「ぴーなっつ最中」でした。「黒平まんじゅう」・「やきだんご」・「ぴーなっつ最中」は私も食べた事がありますが、とても美味しいです。

【海鹿島燈台】/ ステンドグラス【山茶花】     【黒部】/【山野】/【水郷】/ ステンドグラス【不動】

【山気(黒部ダム)】30号              【松並木】50号

【犬山城】30号                       【船】30号

【母子像】50号             【葦の風景(川と葦)】50号

ステンドグラス【牡丹】              ステンドグラス【輪宝】/【不動】

天婦羅と川魚料理の店「國之家」       昼食に提供された「勝負めし」

投票で決まった「なりた勝負おやつ一覧」       お店のビラ・「黒平まんじゅう」/「やきだんご」

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《 春の花便り③ 》 -2つの写真展と絵画展より-

2024年05月28日 | 展覧会
最近は雨の日も多く、晴れると暑くて爽やかな日が少ないです。3つの展覧会から花の作品を中心に集めました。写真展はパネルが光っていた為、周りの物が映り込んで撮るのが難しかったです。工夫しながら撮りましたが、元の画像を損ねてしまっているかもしれません。「春の花」でない物も含みます。

《 フォトグループ アングル展 》は「なごみの米屋」の「成田生涯学習市民ギャラリー」で開催されていました (5月14日~5月19日)。【風車と虹】は「佐倉チューリップフェスタ」の時の偶然の出来事。【春色日和】は「坂田城跡天空の梅まつり」の時のものです。 【又兵衛桜】は戦国武将「後藤又兵衛」にちなんで名付けられたそうです。奈良県の屋敷跡に位置しています。【大久保駅夕景】は正確には「上総大久保駅」の事です。千葉県に住んでいながら、「小湊鉄道」は行った事がありません。一度は行ってみたいと思っています。

《 第38回 印旛写真愛好団体展 》は「なごみの米屋」の「成田生涯学習市民ギャラリー」で開催されていました (5月28日~6月2日)。3つのサークルの合同の展覧会でした。【小湊線の春】は「桜」と列車との共演が素敵でしたが、「菜の花」のも観たかったです。【さくら・サクラ】の「桜」と「芝桜」の共演は「桜」の開花のタイミングが大事なのでしょうね。【人 ・・・ 人】は「ひたち海浜公園」の「ネモフィラ」が空と一体化した感じが美しいです。

《 青木貴次 自選展 》は「成田市文化芸術センター・スカイタウンギャラリー」で開催されていました。「青木貴次」氏は成田市に生まれ、18歳の時に「篠崎輝夫」氏(日展評議員・光風会常務理事などを歴任)に師事しました。「足尾銅山」を取材した作品を数多く制作しました。100号以上の大きな作品が多く、イーゼルは手作りだそうです。花などの作品は少なかったので、「春の花」ではありませんが載せました。現在は日展会友・光風会会員・千葉県美術会理事・風土舎主催など。

《 フォトグループ アングル展 》

【鷺の楽園】野生の藤  【風車と虹】チューリップ    【春色日和】梅と菜の花

【又兵衛桜】樹齢約300年の瀧桜 (奈良県宇陀市にて)       【大久保駅夕景】小湊鉄道と桜

【咲き誇る】都忘れ(香取市の群生地にて)       【早春】サンシュユ(房総のむらにて)

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《 第38回 印旛写真愛好団体展 》

【小湊線の春】小湊鉄道と桜         【さくら・サクラ】桜と芝桜の共演(東京ドイツ村にて)

【人 ・・・ 人】ネモフィラ(ひたち海浜公園 にて)      【バラ美しく】(京成バラ園にて)

【ぼたん】(茂原牡丹園にて)             【曼珠沙華】(山武市にて)

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《 青木貴次 自選展 》-絵画と共に60年の歩み-

【足尾本山】F100号                   【反射炉の丘】P100号

【山百合の道】          【彼岸花と栗】         【暁】F120号


【銅山回想】P100号               【銅山雪景】F100号

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《 元陽会 千葉支部展 》と《 第42回 青樹会展 》 -2つの展覧会-

2024年03月13日 | 展覧会

最近、寒暖の差が大きくて体がついていきません。前日は雨と風でとても寒い一日でした。13日(水)は晴れて暖かくなったので、成田駅まで展覧会を観に行って来ました。17日(日)まで、展覧会が2ヶ所で開催されていたので両方共観ました。

《 元陽会 千葉支部展 》は「成田市文化芸術センター・スカイタウンギャラリー」で開催されていました。50号から100号位の大きな作品が多かったです。【一夜の輝き サガリバナ】の「サガリバナ」(下がりばな科)という花を初めて知りました。夏の夜に花が咲き、朝になったら萎むそうです。まるで「月下美人」みたいですね。花の形は「ねむの木」(まめ科)に似ていますが、葉や実はぜんぜん違います。

《 第42回 青樹会展 》は「なごみの米屋」の「成田生涯学習市民ギャラリー」で開催されていました。小さな会場なので、50号以下の小さめの作品30点でした。【船溜まり】(F50号)を描いた方は、やはり船をテーマに100号で描き、「日展」にも出品して入選したそうです。

《 元陽会 千葉支部展 》

 【節理】                          【小春日和】

 【波濤Ⅰ】                        【美しい距離】

 【一夜の輝き サガリバナ】                  【光と影】

 

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《 第42回 青樹会展 》

 【花】                           【船溜まり】

 【漁港】                             【秋の日の協奏曲】

 【蟹】                             【かすみが浦】

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《 いわむらかずお絵本原画展 》 -愛らしい14ひきの野ねずみたち-

2024年02月27日 | 展覧会

用事で成田駅に行ったついでに、「成田市文化芸術センター・スカイタウンギャラリー」で《 いわむらかずお絵本原画展 》を観て来ました。「成田市制施行70周年記念」の事業として開催されたものです。残念ながら作品は撮影は不可となっていました。仕方がないので、パンフレットの表と、裏は画像のみコラージュして載せました。私は参加しませんでしたが、「子どものための読み聞かせ会」のイベントとサイン会が会期中に2回行なわれていました。

【 14ひきのさむいふゆ 】は「14ひきのシリーズ」で、野ねずみの家族がテーブルを囲んで「とんがりぼうしゲーム」をしているところです。/【 かんがえるカエルくん 】は子どものための哲学入門です。「カエルくん」は栗の気持ちを考えています。/【 もりのあかちゃん 】は「こりすのシリーズ」で、こりすの3兄弟の話。/他に「トガリネズミ」の若者「トガリィ」が「トガリ山」のてっぺんを目指して登る「トガリ山のぼうけんシリーズ」も展示されていました。

「合作絵本」は【はらぺこあおむし】でお馴染みの「エリック・カール」氏との合作で、【 どこへいくの?To See My Friend!】です。『どこへいくの?』と動物たちが次々と仲間を増やしながら歩いて行くお話です。「エリック・カール」氏が左の表紙から描き始め、「いわむらかずお」氏が右の表紙から描きます。そして、真ん中のページが観音開きになっていて、大画面で二人の絵が出会うというユニークで楽しい絵本です。合作のきっかけは2000年1月に「いわむらかずお絵本の丘美術館」で開催された二人の原画展になります。その時に意気投合し、「エリック・カール」氏の提案で「合作絵本」づくりが始まりました。2001年に出版されました。

代表作の「14ひきのシリーズ」は、豊かな自然を背景に3世代家族の14ひきの野ねずみの日常生活が描かれています。それぞれが個性豊かに生き生きと愛らしく描かれていました。背景の花・昆虫・鳥などの生物や四季折々の自然は、実体験を基にリアルに丁寧に表現されていました。私は子どもの頃は都内に住んでいました。まだ田んぼや溜め池・林などが周りにあって、そこで遊んだのを思い出して懐かしさを感じました。

「いわむらかずお」氏は1939年に東京都足立区に生まれました。5歳の時に秋田県に疎開し、戦後は杉並区に住みました。「東京芸術大学・美術学部」を卒業後、36歳の時に里山を求めて栃木県の益子町に移り住み、畑を耕しながら創作活動を続けました。1998年(平成10年)には栃木県那珂川町に「いわむらかずお絵本の丘美術館」を開設しました。

作品の多くは国内だけでなく、フランス・ドイツ・台湾などでも翻訳され、ロングセラーとなりました。国内では出版の各賞を数多く受賞し、2014年には「フランス芸術文化勲章シュヴァリエ」を受賞しました。84歳の今でも絵本・自然・子どもをテーマに活動を続けています。

  左より【14ひきのさむいふゆ】 【かんがえるカエルくん】/【もりのあかちゃん】/「合作絵本」

 ポスターより:14ひきが成田にやってくる!   入口の撮影のスポットより:顔出しパネル

 会場入口と廊下の壁のタペストリーより:「14ひきのシリーズ」の野ねずみ

 壁に貼られた切り抜きより:「14ひきのシリーズ」の野ねずみと【かんがえるカエルくん】

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《 徳川公爵家のバックヤード 》 -最後の家令の見た半世紀-

2023年11月14日 | 展覧会

「松戸市戸定歴史館」の企画展を観に行って来ました。11月4日(土)~12月17日(日)の9時30分~16時 、「戸定が丘歴史公園」と「千葉大学園芸学部」の間の「回廊門」が開放されていました。申請なしで庭園見学できるチャンスなので、まずは「千葉大学園芸学部」に行くことにしました。尚、「牧野富太郎博士」は明治44年から3年間、「千葉県立園芸専門学校」(千葉大学園芸学部の前身)で教鞭をとっていました。その「牧野イズム」は「牧野植物同好会」に引き継がれています。

「フランス式庭園」は「ヴェルサイユ宮殿」をモデルに造られ、「千葉大学園芸学部」のシンボルとなっています。左右対称性・幾何学的な配置の植栽を特徴としています。

「イタリア式庭園」センターサークルと一段ずつ高さが異なるテラス式の構造で、腰植えの混垣が特徴です。

「イギリス式庭園」は柏物産国際交流会館「洗心倶楽部」の前の庭園で、自然を主役にした「風景式庭園」です。自然の景観美を大切にしながら庭造りを行うのが特徴。

また、歌人の「与謝野晶子」は、この地に咲き乱れる「ヒナゲシ」を見に訪れ、60首もの短歌を詠んでいます。「戸定が丘歴史公園」にも句碑が多くあります。

「松戸市戸定歴史館」では企画展《 徳川公爵家のバックヤード 》が開催されていました。「古澤秀彌」氏は幼少時から「徳川慶喜」の屋敷で息子たちの御相手を勤め、15歳からは「家丁」となって52年間の徳川家職員としての歩みが始まりました。「徳川慶喜」から「慶久」・「慶光」と3代に亘って仕え、「家令心得」まで上りつめて14年間その重責を果たしました。「家令」とは職員をまとめて家政を任される責任者の事で、職員には「家扶」・「家従」・「家丁」などがあります。歴代の当主から譲られた品を核とする「古澤秀彌」氏の旧蔵資料で貴重な物が多くありました。

「古澤秀彌」氏は幼少時から「徳川慶久」の御相手を勤めていました。4歳年上の兄の様な関係で、主従関係を超えた信頼関係と深い絆がありました。「慶久」から「古澤」氏への書簡には自らを「KQ」と親しみを込めて書いています。「徳川慶喜」が仲の良かった弟の「昭武」への電報に【フツカ ニバン ニテ マイル サシツカエ ナキヤ ヘンジ マツ  トクガワ ケイキ】(たびたび「戸定邸」を訪れていました) と記していたのと似ているような気がしました。

この日は「戸定が丘歴史公園」の「東屋」から「ダイヤモンド富士」が見える日だったので、楽しみにしていました。時間も閉館前だったので助かりました。私を含めて5人程が見に来ていました。人気スポットなの? 太陽の位置が少し左側寄りだったので、あっという間に「富士山」の後ろに隠れてしまいました。ここから見るのは初めてだったので嬉しかったです。「昭武」も同じ景色を見ていたのかと思うと感慨深いものがありました。もちろん当時はビルや高速道路もなく、遠くに「江戸川」が見えていましたが・・・。

「千葉大学園芸学部」のシンボルとなっているフランス式庭園

イタリア式庭園          イギリス式庭園          与謝野晶子の句碑

「古澤秀彌」氏と「小日向邸」の庭と玄関      徳川慶喜【紅白花卉図】・ 銀三ツ組賜盃ほか

うっすらと富士山が見えています<14時6分頃>  -手前に見えるのは東京外環自動車道-

頂上の左端に太陽がかかりました<16時24分頃>   左寄の上に太陽が・・・<16時25分頃>

かなり下がりました<16時25分頃>      少しだけ光が見えています<16時26分頃>

富士山の後ろに太陽が隠れた直後<16時27分頃>  -太陽が雲を照らしています-

日没(16時35分)後 <16時45分頃>

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《 風景写真の仲間達・写真展 》 -成田生涯学習市民ギャラリーにて-

2023年10月10日 | 展覧会

10月10日(火)、「なごみの米屋」にある「成田生涯学習市民ギャラリー」に行って来ました。《 風景写真の仲間達・写真展 》が開催されていました。全部で9人、31点の作品でした。「富士山」が好きなので、気が付いたら「富士山」の作品を多く撮っていました。

【空駅へ行く】:「弘海和良」さんの作品で『第70回記念・新美術展』の写真部門で「大賞」になったものです。2枚の写真の合成で、光が当たって青く輝く線路の軌跡が、偶然に空に向かっている様な感じになったそうです。

【幻景】:2時間に亘って撮った光の点を繋げたものだそうです。明るい内にピントを合わせて三脚にセットし、暗くなってからシャッターを何回も押し続けたとのこと。

【妖艶 しだれ栗】:「しだれ栗」は初めて見ましたが、力強くて存在感がありました。夕焼けに浮かぶシルエットが素敵です。

【地霧に包まれる】:「落花生ぼっち」(収穫した落花生を乾燥させる為のもの)が地霧に包まれ、畑に浮かび上がっていて幻想的でした。

【愛しの霧幻列車】:「東日本大震災」と2011年7月の「新潟・福島豪雨」によって甚大な被害を受けた「只見線」。2022年10月1日に全線運転再開したそうです。川沿いを走る「只見線」、冬の雪景色の中を走る列車の風景はとても幻想的です。

【空駅へ行く】                 【月光】 -静岡県富士宮市・田貫湖-

【幻景】 -茨城県霞ケ浦-             【妖艶 しだれ栗】 -群馬県旧六合村-

【霧幻峡~神秘の夏】 -福島県三島町-    【地霧に包まれる】 -千葉県成田市-

【夜明けの神秘】 -茨城県大洗-         【茜焼け】 -山梨県忍野村-

【桟橋夜景】 -千葉県南房総市-  【ダイヤモンド富士】 -山梨県山中湖村-

【波踊る】 -千葉県南房総市-          【愛しの霧幻列車】 -福島県金山町-

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《 広重忌・一日だけの広重展 》 -東岳寺にて-

2023年09月06日 | 展覧会

9月6日は「広重忌」でした。それに合わせて「東岳寺」で《 一日だけの広重展 》が行なわれていました。「東岳寺」は1633年(寛永10年)に浅草新寺町(現在の台東区松が谷1丁目付近)に開創された寺院です。区画整理にともない、1961年(昭和36年)に現在の足立区伊興本町に移転しました。「竹ノ塚駅」から歩いて10分、尾竹橋通り沿いに面しているので分かり易いです。こじんまりとした寺ですが、池や石橋や灯篭が配されていて落ち着いた雰囲気でした。

「歌川広重」(本名:安藤重右衛門)は1797年(寛政9年)に「定火消同心」の「安藤源右衛門」の子として生まれました。家督を継ぎながら、15歳頃の時に「歌川豊広」に入門し、間もなく画号「広重」を許されました。後に号を「一立斎」・「一游斎」などと名乗っています。1858年(安政5年)に62歳でコレラで亡くなり、「東岳寺」に葬られました。「記念碑」と墓は「東京都指定旧跡」となっています。「記念碑」には辞世の句として【東路へ 筆をのこして 旅の空 西の御国の 名ところを見ん】が刻まれていました。あの世に行っても描き続けたいという事でしょうか? 墓石には「一立齋廣重」と刻まれています。「広重」の名跡は二代目は娘婿が継ぎ、五代目まで続きました。

「広重」の浮世絵は遠近法を取り入れた臨場感ある風景画で、大胆なフォルム・構成力・優れた写実性などが掲げられます。「東海道五十三次」・「木曽街道六十九次」・「名所江戸百景」などの「名所図絵シリーズ」を刊行しました。また、特に印象派には多大な影響を与え、「モネ」は「ジヴェールニー」の邸宅に太鼓橋を作って悦に入っていたようです。今展は晩年の大作である「名所江戸百景」からの作品です。「足立区立郷土博物館」の所蔵で、「アダチ版画」が複製制作したものです。

【真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図】の「真先稲荷」(現在の荒川区南千住)は「隅田川」の景観も伴って江戸名所の一つとなっていました。境内には茶店や料理屋が並び、その中でも有名な「甲子屋」の二階からの眺めであると言われています。 丸窓を遮断している白い障子と暗い室内のコントラストが巧みです。そして室内の椿の花と窓外の梅の花を対比することで、この大胆な構図を粋で酒落たものにしています。丸窓から見える景色は対岸の森の中に「水神社」の鳥居が見え、その左手には「木母寺」へ入る「内川」が描かれています。川より先は「関屋の里」、その上方には「筑波山」。季節は椿や梅の咲く頃で、窓外中央に梅の花を配したことで「初午の日」と考えられそうです。

【大はしあたけの夕立】は隅田川ニ架かる「大はし」を、遠景がぼける程に激しい夕立に降られながら渡る人々。西岸から見て描かれています。「大はし」は、日本橋の浜町から深川六間堀の方に架かっていた「新大橋」のこと。東岸には「江戸幕府御座船」の「安宅丸」がかつて繋留されており、船が解体された後も一帯を指して「あたけ」の名が使われていました。オランダの著名な画家「ゴッホ」も、【亀戸梅屋舗】と共にこれを模写しました。

「ジョン・スチュワート・ハッパー」(米国人の浮世絵研究家)は「広重」に魅了されて海外に紹介しました。自ら「廣重ハッパー」と称し、46年間日本に移り住みました。日本文化を世界に広めた功績が認められ、生涯愛した「広重」と同じ「東岳寺」に葬られました。また、元宝塚女優だった「香月弘美」(本名:小笠原弘恵)に捧げる「柳原白蓮」の歌碑がありました。【めになみだ こよひの月の なきものを 香ふさくらか うすあかりせり  白蓮】 「香月弘美」は21歳という若さで舞台で不幸な事故に遭い、この世を去りました。墓地スペースの「小笠原家」の墓に葬られています。川柳で有名な「花屋久次郎」の遺跡もありました。「東岳寺」では毎年2月11日に、「花久忌」という川柳の会が開催されるそうです。

通り沿いに面している門(奥に本堂が見えています)    /    本堂(階段を上がって2階に)

本堂下の1階で展示         /         「歌川広重」の略歴

真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図  /   亀戸梅屋舗  /  水道橋駿河台

大はしあたけの夕立   /   真間の紅葉手古那の社継はし   /   猿わか町よるの景

浅草金龍山     /     深川洲崎十万坪     /     王子装束ゑの木大晦日の狐火

「歌川広重」の記念碑:1924年(大正13年)に建立   /   墓:1958年(昭和33年)に再建

「ジョン・スチュワート・ハッパー」の墓碑  /  「柳原白蓮」の歌碑  /  「花屋久次郎」の遺跡

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《 東国の古墳文化の実像を求めて 》 -大塚初重と明治大学考古学-

2023年07月26日 | 展覧会

この日は東京では35度超の猛暑日でしたが、「明治大学博物館」は駅から近いので思い切って行って来ました。「大塚初重」名誉教授は昨年に95歳で逝去されました。「大塚先生」は「明治大学考古学博物館」の初代館長を務めました。太平洋戦争から復員の後、発掘によって歴史を明らかにする考古学の存在に衝撃を受け、静岡県の「登呂遺跡」の調査への参加を皮切りに、1950年に創設された考古学専攻と歩みをともにする形で日本各地の遺跡の発掘調査とその研究に携わりました。

その中でも、石で古墳の墳丘を築く積石塚が特徴的な長野県の「大室古墳群」未盗掘の状態で壁画が描かれていた横穴式石室が発見された茨城県の「虎塚古墳」をはじめとする東日本の古墳文化を研究の中心に据え、実像を明らかにして来ました。本展では、「大塚先生」が手がけた発掘調査による数々の出土品・調査記録とその関連資料から、その研究と考古学の普及に対する情熱と足跡が伺えました。

「玉里舟塚古墳」の武人の埴輪は上半身と下半身を別々に作り、設置時にはめ込むという特殊な方法で作られています。これは茨城周辺のみで見られる方法だそうです。他に女子・力士・馬を引く人物や円筒埴輪・家形埴輪・馬形埴輪などが出土しました。「箱式石棺」は特殊な二重構造となっています。

「虎塚古墳」の「石室壁画」は「ひたちなか市埋蔵文化財センター」に所蔵されている実物大模型から画像を起こしたものなので、実際の壁画より鮮明に表現されているそうです。凝灰岩の粉末の白土を塗った壁に「赤いベンガラ」で図形を描き、天井石と床石は真っ赤に塗られています。三角文と丸文の他は武器・武具類が描かれているとの事。玄室は全長約3m・天井高1.5m・床面の幅1.5m(いずれも最大値)となっています。

「大塚先生」は現場で「スケッチ」を線描きし、宿舎に戻ってから水彩鉛筆で色付けしていました。何故「スケッチ」をするかというと、「スケッチ」をする為には対象物を確実に見つめないと描けません。観察しながら描くと、不思議と頭の中に特徴がインプットされるそうです。カメラで何枚も撮りまくると、それで安心して観察がおろそかになってしまいます。「スケッチ」は思い出の玉手箱にもなっているとの事。

余談ですが、「大塚先生」は1974年(昭和49年)の48歳頃の時に成田市に転居しました。「成田祇園祭」が大好きで、毎年鰻屋さんの2階を貸し切り、ゼミの学生さんやお弟子さん達と食事をするのを楽しみにしていたそうです。2019年が最後かな、とおっしゃっていたと女将から聞いていました。さっそく、先生が監修した「古代史散策ガイド 巨大古墳の歩き方」の本を持ってサインを戴きに行きました。快く応じていただきました。2020年にコロナ禍で「成田祇園祭」が中止になる前年の事でした。

右上:「三昧塚古墳」の金銅製馬形飾付冠・復元品 / 右下:「大室古墳群」を調査中の大塚氏<1984年>

「玉里舟塚古墳」の人物埴輪  /  「虎塚古墳」の石室壁画   /   「桜井茶臼山古墳」の石室のスケッチ

博物館前の大塚氏<1985年> /  「鳴滝古墳群」にて<2003年> /  「大室古墳」のスケッチ<2003年>

茨城県の「玉里舟塚古墳」  埴輪(上半身) / 埴輪(下半身)  /  箱式石棺

茨城県の「虎塚古墳」の「石室壁画」の実物大模型より  西壁 / 奥壁 / 東壁

スケッチの際に用いた画材(水彩鉛筆と筆で彩色) / 奈良県の「桜井茶臼山古墳」の石室で描く様子

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《 小幡春生の世界展 》 -成田ゆかりの芸術家-

2023年06月13日 | 展覧会

成田市(旧大栄町)生まれの画家、「小幡春生」(おばた しゅんせい 1920-2006)の展覧会が成田の「スカイタウンギャラリー」で開催されていました。「日本画家」でありながら、油絵にも非凡な技量を持ち、仏画・人物画・美人画・風景画・歴史画・民話画など、多彩なジャンルの作品に取り組みました。美術学校に行ったことも無く、技術力は模写で身につけたものです。多くの模写を駆使して「春生」の画法が確立されました。瞬間に見た光景を3ヶ月間忘れないというのも脅威の能力です。「山下清」?

「小幡春生」は少年の頃に出征し、辛酸をなめながら絵を描き続けました。シベリア抑留中にスパイ容疑を掛けられ拷問を受けました。独房へ戻った「春生」は、いつ死ぬかもしれない自らの魂の救いを求め、傷口から噴出す血で牢獄の壁に「不動明王像」を描き始めました。ソ連将校にその才能を驚かれ、看守長や上官・政治家の「肖像画」まで描くようになり、拷問から開放されました。

その後、「レーピン美術館」の作品を模写する任務を与えられました。さらにその功績が認められ、日本人では珍しい「ロシア共和国功労芸術家賞」の受賞という栄誉を得ました。また、「モスクワ大学」で学生に絵を教えることもありました。帰国後、「戦争の真実」というテーマで自らの戦争体験・抑留時代・敗戦により翻弄される人々の姿を何枚も描いていますが、あまりに悲惨なその情景は色などつけられないと、着色せずに描いたそうです。

戦後、「モスクワ展」(正確な名称は不明)が開催された折には、展示された作品の多くは「小幡春生」が模写した作品だったとも言われています。おそらく「ソ連」は原画は持って来ず、「春生」の書いた 「模写作品」 を日本で展示したのかもしれないそうです(真実は不明)。

帰国後は生活の糧として「肖像画家」となり、政治家や著名人からも依頼されました。1976年頃、アメリカの「ボストン美術館」に所蔵されていた【千手観音画像】の修復の依頼が日本政府にあり、「肖像画」を描いたよしみで「坂田文部大臣」から依頼されました。このとき修復と同時に模写もし、絹本に金箔の裏打ちをしたもの(千葉県立美術館所蔵)と、プラチナ箔の裏打ちをしたもの(個人所蔵)の2点を完成させています。そしてこの後、「日本画」へと急速に傾斜していきます。

岩肌の表現は「川合玉堂 」から、ぼかしは「伊東深水」から影響を受けているそうです。1971年頃、住んでいた横浜市の教育委員会の依頼により「横浜の民話画」(水彩画)を描いています。「PTA横浜」という機関誌に47回、およそ8年間にわたり連載したもので、1987年に一冊にまとめたものが【 横浜の民話集 】として発行されています。

1991年には郷土の「香取神宮」から焼失した【 香取神宮年中行事絵巻 】の復元を依頼されました。実際には50号位の大きな額装された作品10点を奉納しました。また、千葉県ゆかりの偉人である「伊能忠敬」の死後、序文や沿海実測録の浄書など「伊能図」の完成に協力した「久保木清淵」。その7代後の末裔で、「春生」の理解者だった「久保木良」氏との交流が【 伊能忠敬 行跡図 】を描く流れになったようです。

【左】紫式部[日本画]  /  【上】大日如来[日本画]  /  【下】横浜の民話より[水彩画]

【上右】騎馬行軍の図[油彩画]  /  【下中】ソビエト抑留中に、血で壁に絵を描く春生[墨彩画]

【仏画】  不動明王(赤不動)[日本画]  /  釈迦修業図[版画]  /  龍上観音[版画]

【歴史画】  天の岩戸[日本画](香取神宮所蔵)   /   白雪に染む桜田門外の変[日本画]

【美人画・動物画】  舞姫[日本画]          /         猫[日本画]

【香取神宮祭典絵図】  大宮司・大禰参拝の図[日本画]   /   神饌調進の図[プリント]

【伊能忠敬 行跡図】  伊豆測量の図    /    測量図を突き合わせている所?

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《 どうする家康 》 -NHK大河ドラマ 特別展-

2023年06月07日 | 展覧会

家で昼食終了後、「三井記念美術館」に行って来ました。初めて行く美術館でしたが、営団地下鉄の「三越前駅」で降りて、A7番出口から出てすぐだったので分かり易かったです。展示期間が前期と後期に分かれていた為、前期のものは観られませんでした。あまり混んでいなかったので、ゆっくり観る事が出来ました。パンフレットに載っているのは主に前期展示と通期展示のものです。

【プロローグ】・・・ 「大日本五道中図屏風」でたどる家康の足跡

この屏風は8曲2双で江戸から長崎までの街道を描いた鳥瞰図的な長い絵図でした。家康没後30年頃の景観が描かれています。岡崎城浜松城駿府城関ヶ原の布陣久能山東照宮甲斐信濃小田原名古屋城などが描かれ、家康の一生をたどることができました。パンフレットには右から岡崎城浜松城駿府城関ヶ原の布陣久能山東照宮が抜粋して載っています。

【第1章】・・・ 家康誕生 -今川からの独立と三河平定-

「今川義元」像「於大の方」(母)像珍しい町人風の「徳川家康」像などが展示してありました。「徳川十六将図」 は江戸時代を通じて写し継がれて数多く伝わっているそうです。私が観たのは18、19世紀頃の刀鍛冶が描いたとされるもので、名前にいくつか誤記があるみたいです。十六という数は「十六羅漢」など宗教的な影響を受けていると思われます。

【第2章】・・・ 戦国乱世の選択 -今川・武田との抗争-

 「長篠合戦図屏風」 も何種類かあるようですが、後期に展示されていたのは 「長篠・長久手合戦図屏風」 (18世紀のもの)でした。これは渡辺家の注文作とされていて、「渡辺守綱」の活躍が強調されています。ご先祖の武勲をたたえる合戦図となっていました。「落合左平治背旗図」もありました。これは「鳥居強右衛門」の最後の磔(はりつけ)姿を描いた「背旗」を写して「掛け軸」にしたもの。下部に由来と経緯が記されていました。

【第3章】・・・ 豊臣大名徳川氏 -豊臣政権下の家康-

後期の「豊臣秀吉」画像は「豊国大明神」として神格化されたもので、垂纓(すいえい)の冠を被り両手で笏(しゃく)を持った姿が特徴のものでした。

【第4章】・・・ 天下人への道 -関ヶ原から江戸開府-

後期の 「関ヶ原合戦図屏風」 は「大阪城天守閣」所蔵のもの。全面に山と金雲が描かれていて豪華でした。家紋の描かれた陣幕で布陣もうかがえ、奮戦の様子が良く分かりました。家康自筆とされる「水艸立鷺図」(みずくさにたつさぎず)は素人ながら味わい深い水墨画でした。

【第5章】・・・ 大御所時代 -駿府での生活と大坂の陣-

後期の「洛中洛外図屏」は、「伏見城」と「二条城」がともに描かれている珍しい屏風でした。「祇園祭」の「山鉾巡行」や「家康参内」の行列も描かれ、賑やかな様子がうかがえました。「びいどろ薬壺」の中には粉末が残っていて、真ん中の壺に「ちんひ」と付箋が付いているので、胃腸の薬の「陳皮」と思われるとの事。「高台院」(ねね)像は凛とした佇まいの老尼として描かれていました。中立を保ち続け、家康も好意を持っていたようです。

【第6章】・・・ 東照大権現 -家康、神となる-

元和2年(1616年)4月17日、家康が「駿府城」内で他界しました。遺言に従いその日の夜、久能山に遺骸が遷されました。社殿の造営が始まり、神としてられました。神号は「天海」の主張する「天台宗系」の「山王一実神道」による大権現号が、「秀忠」によって選ばれました。朝廷の勅許をえて「東照大権現」に決まりました。「東照大権現像」は上部に「天海僧正」の賛写が書かれていました。

【エピロ-グ】・・・ 御神体 家康の刀剣と甲冑

「金陀美具足」と共に「徳川秀忠」所持の「茶糸威具足」も展示してました。「秀忠」の甲冑は殆ど残っていないそうです。    


大河ドラマ「どうする家康」ブースではドラマの相関図が展示されていました。撮影スポットがあり、記念写真を撮れるようになっていました。

「三井記念美術館」の入口は「日本橋三井タワー」の1階アトリウムとなっていました。近代的な超高層ビルの入り口から、昭和初期の洋風建築である「三井本館」(重要文化財)へと進みます。エレベーターで7階に上がると、当時の雰囲気が残る展示室へ導かれるという感じになっていました。「三越前駅」から「三井記念美術館」へ行く途中に「三越日本橋本店」の入口があったので、【おまけの画像】として載せました。

「金陀美具足」と「大日本五道中図屏風」・部分  /  下:長篠合戦図屏風(最古のもの・連合軍側1隻のみ)

中:関ヶ原合戦図屏風(津軽屏風)  /  左下:びいどろ薬壺   /  上:東照大権現像

大河ドラマ「どうする家康」ブースのパンフレット  /  撮影スポット

「三井本館」(三井記念美術館)  / 【おまけの画像】「三越日本橋本店」の地下鉄コンコースからの入口

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