サヨコの独り言

興味のあるものを「コンデジ」で撮影しに行ったり、
街で偶然に見かけたものを「スマホ」で撮っています。

《 初夏の花便り 》 -5月下旬から6月-

2023年06月27日 | 動植物

暑い日や雨の日が多かったので、あまり外には出掛けませんでした。5月30日から6月に街で見かけた花をまとめました。

「ノアザミ」(野薊)は定点観察をした訳ではないので、全て別の個体です。因みに、「ノアザミ」は食用になるとの事。茎は油炒めや煮物に、葉は天ぷらに、根はきんぴらにすると美味しいそうです。また、生薬としても様々な利用法があります。<5月30日・6月6日・6月18日>

「シロバナシモツケ」(白花下野)の和名は最初に「下野国」(現在の栃木県)で発見されたことに由来。細い「雄しべ」が花びらより長い為、遠くからは霞に包まれた様に見えて素敵でした。遊歩道で偶然に見つけました。<6月6日>

「タチアオイ」(立葵)は梅雨入りの頃に花が咲きはじめ、てっぺんまで花が咲くと梅雨明けの頃といわれています。団地の壁際に咲いていました。<6月18日>

「墨田の花火」は「装飾花」(がく片)が八重咲きの「ガクアジサイ」の一種になります。星形の花が飛び出すような形をしていて、花火が打ち上がって開いたように見えます。マンションの入口の花壇に植えられていました。花殻が殆ど摘み取られていて最後の2輪でした。<6月25日>

「ネジバナ」は庭で草むしりをしていた時に見つけました。小さな花が細長い花茎に密着してつき、花茎の周りに螺旋状に並んで咲くのが和名の由来です。小さいのでウッカリ抜きそうになってしまいました。<6月21日>

「ノアザミ」 つぼみ / 開花(白いツブツブが) / もうすぐ種が飛びます / 飛び終わりました

「シロバナシモツケ」 -細くて長い雄しべが可愛いです- / 丸いつぼみも可愛いです

「ウスベニアオイ」(別名:ブルーマロウ)    /    「タチアオイ」

アジサイ 「墨田の花火」 -花火のように見えます-  /  「ガクアジサイ」<6月6日>

「ハルジオン」の蜜を吸いに来た「ベニシジミ」<5月30日>    /    「ネジバナ」

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《 小幡春生の世界展 》 -成田ゆかりの芸術家-

2023年06月13日 | 展覧会

成田市(旧大栄町)生まれの画家、「小幡春生」(おばた しゅんせい 1920-2006)の展覧会が成田の「スカイタウンギャラリー」で開催されていました。「日本画家」でありながら、油絵にも非凡な技量を持ち、仏画・人物画・美人画・風景画・歴史画・民話画など、多彩なジャンルの作品に取り組みました。美術学校に行ったことも無く、技術力は模写で身につけたものです。多くの模写を駆使して「春生」の画法が確立されました。瞬間に見た光景を3ヶ月間忘れないというのも脅威の能力です。「山下清」?

「小幡春生」は少年の頃に出征し、辛酸をなめながら絵を描き続けました。シベリア抑留中にスパイ容疑を掛けられ拷問を受けました。独房へ戻った「春生」は、いつ死ぬかもしれない自らの魂の救いを求め、傷口から噴出す血で牢獄の壁に「不動明王像」を描き始めました。ソ連将校にその才能を驚かれ、看守長や上官・政治家の「肖像画」まで描くようになり、拷問から開放されました。

その後、「レーピン美術館」の作品を模写する任務を与えられました。さらにその功績が認められ、日本人では珍しい「ロシア共和国功労芸術家賞」の受賞という栄誉を得ました。また、「モスクワ大学」で学生に絵を教えることもありました。帰国後、「戦争の真実」というテーマで自らの戦争体験・抑留時代・敗戦により翻弄される人々の姿を何枚も描いていますが、あまりに悲惨なその情景は色などつけられないと、着色せずに描いたそうです。

戦後、「モスクワ展」(正確な名称は不明)が開催された折には、展示された作品の多くは「小幡春生」が模写した作品だったとも言われています。おそらく「ソ連」は原画は持って来ず、「春生」の書いた 「模写作品」 を日本で展示したのかもしれないそうです(真実は不明)。

帰国後は生活の糧として「肖像画家」となり、政治家や著名人からも依頼されました。1976年頃、アメリカの「ボストン美術館」に所蔵されていた【千手観音画像】の修復の依頼が日本政府にあり、「肖像画」を描いたよしみで「坂田文部大臣」から依頼されました。このとき修復と同時に模写もし、絹本に金箔の裏打ちをしたもの(千葉県立美術館所蔵)と、プラチナ箔の裏打ちをしたもの(個人所蔵)の2点を完成させています。そしてこの後、「日本画」へと急速に傾斜していきます。

岩肌の表現は「川合玉堂 」から、ぼかしは「伊東深水」から影響を受けているそうです。1971年頃、住んでいた横浜市の教育委員会の依頼により「横浜の民話画」(水彩画)を描いています。「PTA横浜」という機関誌に47回、およそ8年間にわたり連載したもので、1987年に一冊にまとめたものが【 横浜の民話集 】として発行されています。

1991年には郷土の「香取神宮」から焼失した【 香取神宮年中行事絵巻 】の復元を依頼されました。実際には50号位の大きな額装された作品10点を奉納しました。また、千葉県ゆかりの偉人である「伊能忠敬」の死後、序文や沿海実測録の浄書など「伊能図」の完成に協力した「久保木清淵」。その7代後の末裔で、「春生」の理解者だった「久保木良」氏との交流が【 伊能忠敬 行跡図 】を描く流れになったようです。

【左】紫式部[日本画]  /  【上】大日如来[日本画]  /  【下】横浜の民話より[水彩画]

【上右】騎馬行軍の図[油彩画]  /  【下中】ソビエト抑留中に、血で壁に絵を描く春生[墨彩画]

【仏画】  不動明王(赤不動)[日本画]  /  釈迦修業図[版画]  /  龍上観音[版画]

【歴史画】  天の岩戸[日本画](香取神宮所蔵)   /   白雪に染む桜田門外の変[日本画]

【美人画・動物画】  舞姫[日本画]          /         猫[日本画]

【香取神宮祭典絵図】  大宮司・大禰参拝の図[日本画]   /   神饌調進の図[プリント]

【伊能忠敬 行跡図】  伊豆測量の図    /    測量図を突き合わせている所?

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《 どうする家康 》 -NHK大河ドラマ 特別展-

2023年06月07日 | 展覧会

家で昼食終了後、「三井記念美術館」に行って来ました。初めて行く美術館でしたが、営団地下鉄の「三越前駅」で降りて、A7番出口から出てすぐだったので分かり易かったです。展示期間が前期と後期に分かれていた為、前期のものは観られませんでした。あまり混んでいなかったので、ゆっくり観る事が出来ました。パンフレットに載っているのは主に前期展示と通期展示のものです。

【プロローグ】・・・ 「大日本五道中図屏風」でたどる家康の足跡

この屏風は8曲2双で江戸から長崎までの街道を描いた鳥瞰図的な長い絵図でした。家康没後30年頃の景観が描かれています。岡崎城浜松城駿府城関ヶ原の布陣久能山東照宮甲斐信濃小田原名古屋城などが描かれ、家康の一生をたどることができました。パンフレットには右から岡崎城浜松城駿府城関ヶ原の布陣久能山東照宮が抜粋して載っています。

【第1章】・・・ 家康誕生 -今川からの独立と三河平定-

「今川義元」像「於大の方」(母)像珍しい町人風の「徳川家康」像などが展示してありました。「徳川十六将図」 は江戸時代を通じて写し継がれて数多く伝わっているそうです。私が観たのは18、19世紀頃の刀鍛冶が描いたとされるもので、名前にいくつか誤記があるみたいです。十六という数は「十六羅漢」など宗教的な影響を受けていると思われます。

【第2章】・・・ 戦国乱世の選択 -今川・武田との抗争-

 「長篠合戦図屏風」 も何種類かあるようですが、後期に展示されていたのは 「長篠・長久手合戦図屏風」 (18世紀のもの)でした。これは渡辺家の注文作とされていて、「渡辺守綱」の活躍が強調されています。ご先祖の武勲をたたえる合戦図となっていました。「落合左平治背旗図」もありました。これは「鳥居強右衛門」の最後の磔(はりつけ)姿を描いた「背旗」を写して「掛け軸」にしたもの。下部に由来と経緯が記されていました。

【第3章】・・・ 豊臣大名徳川氏 -豊臣政権下の家康-

後期の「豊臣秀吉」画像は「豊国大明神」として神格化されたもので、垂纓(すいえい)の冠を被り両手で笏(しゃく)を持った姿が特徴のものでした。

【第4章】・・・ 天下人への道 -関ヶ原から江戸開府-

後期の 「関ヶ原合戦図屏風」 は「大阪城天守閣」所蔵のもの。全面に山と金雲が描かれていて豪華でした。家紋の描かれた陣幕で布陣もうかがえ、奮戦の様子が良く分かりました。家康自筆とされる「水艸立鷺図」(みずくさにたつさぎず)は素人ながら味わい深い水墨画でした。

【第5章】・・・ 大御所時代 -駿府での生活と大坂の陣-

後期の「洛中洛外図屏」は、「伏見城」と「二条城」がともに描かれている珍しい屏風でした。「祇園祭」の「山鉾巡行」や「家康参内」の行列も描かれ、賑やかな様子がうかがえました。「びいどろ薬壺」の中には粉末が残っていて、真ん中の壺に「ちんひ」と付箋が付いているので、胃腸の薬の「陳皮」と思われるとの事。「高台院」(ねね)像は凛とした佇まいの老尼として描かれていました。中立を保ち続け、家康も好意を持っていたようです。

【第6章】・・・ 東照大権現 -家康、神となる-

元和2年(1616年)4月17日、家康が「駿府城」内で他界しました。遺言に従いその日の夜、久能山に遺骸が遷されました。社殿の造営が始まり、神としてられました。神号は「天海」の主張する「天台宗系」の「山王一実神道」による大権現号が、「秀忠」によって選ばれました。朝廷の勅許をえて「東照大権現」に決まりました。「東照大権現像」は上部に「天海僧正」の賛写が書かれていました。

【エピロ-グ】・・・ 御神体 家康の刀剣と甲冑

「金陀美具足」と共に「徳川秀忠」所持の「茶糸威具足」も展示してました。「秀忠」の甲冑は殆ど残っていないそうです。    


大河ドラマ「どうする家康」ブースではドラマの相関図が展示されていました。撮影スポットがあり、記念写真を撮れるようになっていました。

「三井記念美術館」の入口は「日本橋三井タワー」の1階アトリウムとなっていました。近代的な超高層ビルの入り口から、昭和初期の洋風建築である「三井本館」(重要文化財)へと進みます。エレベーターで7階に上がると、当時の雰囲気が残る展示室へ導かれるという感じになっていました。「三越前駅」から「三井記念美術館」へ行く途中に「三越日本橋本店」の入口があったので、【おまけの画像】として載せました。

「金陀美具足」と「大日本五道中図屏風」・部分  /  下:長篠合戦図屏風(最古のもの・連合軍側1隻のみ)

中:関ヶ原合戦図屏風(津軽屏風)  /  左下:びいどろ薬壺   /  上:東照大権現像

大河ドラマ「どうする家康」ブースのパンフレット  /  撮影スポット

「三井本館」(三井記念美術館)  / 【おまけの画像】「三越日本橋本店」の地下鉄コンコースからの入口

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《 弘法大師ご誕生1250年記念大祭 》 -成田山新勝寺にて-

2023年06月06日 | イベント

「成田山新勝寺」では4月28日から6月18日まで《 弘法大師ご誕生1250年記念大祭 》が行なわれています。「真言宗」の開祖である「弘法大師」は、774年6月15日に誕生しました。今年は生誕から1250年(足掛け1250年?)になります。記念として「成田山書道美術館」で『成田山の美術』が開催していました。1858(安政5)年に建立された重要文化財の「釈迦堂」に施された「狩野一信」の複数の大作、及び「成田山文化財団」の所蔵品を含めた寺宝が展示されていました。因みに、「成田山書道美術館」の階段の吊り下げ灯は「筆」の形を模しているそうです。

余談ですが、「宇多天皇」の孫にあたり11歳の時に出家した「寛朝大僧正」は、『平将門の乱』を鎮める為に、939年に「朱雀天皇」の勅命を受けました。「弘法大師」みずからが敬刻開眼した「不動明王」を捧持して京の都を出発。成田の地にて御護摩祈祷を厳修し、結願の日に『平将門の乱』が終息しました。940年、関東を守る霊場として成田山が開山。【新たに勝つ】という意味の「新勝寺」の寺号を賜りました。この事から、「平将門命」が三の宮の祭神である「神田明神」を崇敬する者は、「成田山新勝寺」を参拝しないという伝説があります。

記念事業として 「仁王門」 の耐震補強・「清瀧権現堂」 の保存修理・「天満宮」 の修復などが行なわれました。「弘法大師」をまつる 「大師堂」 では「大塔婆」が建立されていました。「弘法大師」の御手よりつながる「金剛線」が「大塔婆」に結ばれ、五色の帛で飾られています。これを「御手綱」と称し、御手に直接触れてお参りするのと同じとされています。

話は変わりますが、「成田山新勝寺」の「仁王門」の「提灯」は砲金(銅合金)で出来ている為、折り畳む事は出来ません。東京築地の魚河岸の旦那衆が奉納したものです。因みに 「浅草寺」 の「提灯」は和紙です。途中の 「仁王池」 の前には 「江戸町火消し」 による奉納の「狛犬」がありました。左右で「阿形」・「吽形」になっています。視線を感じて振り返ったら、石段の上の方の左右に「獅子岩」が・・・。「江戸消防記念会」が奉納したものだそうです。

【パンフレット】弘法大師像  /  【ポスター】 釈迦文珠普賢四天王十大弟子図(部分・狩野一信)

「書道美術館」の階段の吊り下げ灯   /   「大師堂」では大塔婆が建立され、「御手綱」が・・・

「大本堂」前の広場の両側に吹き流しと庭旗が・・・ /  「三重塔」には「1250年記念大祭奉修」の木札

保存修理された「清瀧権現堂」        /        修復された「天満宮」     

「仁王門」の階段は全部で53段  /  砲金製の「提灯」   /   「提灯」の下側

「江戸町火消し」による奉納の「狛犬」       /       「獅子岩」も阿形・吽形に・・・

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