おいらがおもろいと思う女性エッセイの双璧は、佐藤愛子と中村うさぎである。
このふたりには女性エッセイストがやりがちな、瑣末事をねちねちと「感性」とやらでうざいほど掘り返したり、ちょっと他人と違うことを発言してみて
「ほら、私ってこんなに個性的なの」と言わんばかりのいやみな不思議ちゃんぶりっ子なところがなく、己の人生に対してひたすら力技で進んでいくさまを、これでもかとばかりに叩きつけけてくるからだ。
その何かに立ち向かう姿は、双方とも格闘技ゲームの勇者のようにすがすがしくさえある。
まあ、ふたりはかなり志向性が違うし、中身も佐藤愛子は柔道の投げ技、中村うさぎはひたすら格闘技、のようなカンジがする。
そんな浪費界の勇者中村うさきが、この本の中でまたいいことを言っていた。
「自分の部屋は拡大された自我像である」
の中に出ていた、このひとことだ。
「私のような人間は、きちんとした自我像を持てず、混沌とした自意識の中で生きているせいで、部屋の中も混沌として荒れ放題なのだ」
おお、そうか、おいらの部屋の中が汚いのも(時間がないってのもあるけど)混沌のせいなのか・・・じゃなくてその混沌をなんとかしろよって。
まあおいらは、その混沌の中からときどきいろんなものを取り出して眺めるのが好きなんだけどさ。
そこがおいらと中村うさぎの違うところだ。
中村うさぎはその混沌と格闘し続けている。
矢折れ、弾尽き刀がボロボロになるまで・・・。
だから勇者なのだ。だからおいらは自分のできないことをする中村うさぎが好きなのだと思う。
このふたりには女性エッセイストがやりがちな、瑣末事をねちねちと「感性」とやらでうざいほど掘り返したり、ちょっと他人と違うことを発言してみて
「ほら、私ってこんなに個性的なの」と言わんばかりのいやみな不思議ちゃんぶりっ子なところがなく、己の人生に対してひたすら力技で進んでいくさまを、これでもかとばかりに叩きつけけてくるからだ。
その何かに立ち向かう姿は、双方とも格闘技ゲームの勇者のようにすがすがしくさえある。
まあ、ふたりはかなり志向性が違うし、中身も佐藤愛子は柔道の投げ技、中村うさぎはひたすら格闘技、のようなカンジがする。
そんな浪費界の勇者中村うさきが、この本の中でまたいいことを言っていた。
「自分の部屋は拡大された自我像である」
の中に出ていた、このひとことだ。
「私のような人間は、きちんとした自我像を持てず、混沌とした自意識の中で生きているせいで、部屋の中も混沌として荒れ放題なのだ」
おお、そうか、おいらの部屋の中が汚いのも(時間がないってのもあるけど)混沌のせいなのか・・・じゃなくてその混沌をなんとかしろよって。
まあおいらは、その混沌の中からときどきいろんなものを取り出して眺めるのが好きなんだけどさ。
そこがおいらと中村うさぎの違うところだ。
中村うさぎはその混沌と格闘し続けている。
矢折れ、弾尽き刀がボロボロになるまで・・・。
だから勇者なのだ。だからおいらは自分のできないことをする中村うさぎが好きなのだと思う。