店主敬白(悪魔の囁き)

栄進大飯店の店主さがみやがおくる日々の悪魔の囁き。競馬予想や文学・音楽・仕事のグチやちくりまでいろいろ。

店主の好きな風景

2008-08-25 20:27:16 | Weblog
 今回はぶち君にねだって、三角西公園に行ってきた。
 目の前に広がる海と緑の島々を眺めていると、心が安らぐ。
 おいらが今住んでいる町のいいところは、車でちょっと行けばいい風景がまだまだ残っているところだ。
 首都圏だと、車で一時間程度じゃまだ渋滞だのその場の混雑だのの中で、かえって疲れに行くようなものだ。
 こんなとき、今住んでいる町やその周辺に感謝する。

 例によって三角の物産館で弁当を買い、公園に行く。
 その日は近くで子供のスポーツイベントか何かあって、イマイチ弁当の種類はなかったが、ぶち君には巻き寿司のセットを、おいらにはまぜご飯のセットを買い、サラダ巻きはふたりで食べることにした。
 そんなに盛り付けとかトッピングとかにこだわった弁当じゃないけれど、シンプルななかに手作りのよさがあって、おいしい。
 しかも安いし、海を行きかういろいろな船をみながら、木陰で食べる弁当。
 いいよ~ホントに、生きててよかった(おおげさな)

・・・と、ここまではよかったのだ。
 その後轟水源というところに、水を汲みにいったときに・・・
 やられちまったのだ、虫に。
 二日後、おいらの腕は腫れあがった。
 腕が熱い。箱の角が当たっただけで痛い。
 全治一週間。これも何かのたたりかもしれない。

ざまあみろと思う

2008-08-25 20:07:24 | Weblog
 たまには珍しく(雨が降るからよせって)社会的な問題について書いてみる。 
 今日、自衛隊のイジメ事件裁判の判決でイジメの加害者側が敗訴したことに関しては、おいらはざまあみろと言う他にない。
 これを先例にばんばんイジメ裁判が起こってくれれば、少しはイジメというものが「したかないこと」「運の悪いこと」ではなく、社会正義に反したものであるという認識が強まってくれるかも、と思う。
 だいたい「イジメ」だの「飲酒運転」だのという悪い習慣はちゃっちゃと消えて欲しいんだけど、人間は「習慣」に対してとかくあきらめてしまいがちである。
「そういうことをやってる(やられてる)人は他にもいるからあきらめろ」「穏便に」「まずいことだけど、不祥事だから隠さなきゃ」「なんでウチだけが」
 こんなことを言ってオメデタイお偉方は責任から逃げ回るうちに、どんどん事態が悪化しているのに。
 しかも、イジメを「愛のムチ」だの「被害者を鍛えるため」だの正当化している輩は、もうすでにその時点で精神が狂っているので、まっとうな社会人から隔離して欲しいものである。
 そういうヤツは処分されて当たり前じゃん、悪いことしてるんだから。
 それでありがちな「労組がうるさい」だのと言うのは労組の迷惑だし、言い訳に過ぎない。
 そして、習慣に慣れてそれを改善しないヤツの責任はどこへ行く?ってことだ。
 何をされても逆らわないおとなしい羊・・・のわけないのに。
 まあ、どこまでがイジメで、どこまでが正しいご意見なのか、そのへんの明確な線引きとか判断がないと、たぶんこの事件を悪用するヤツとかも出てきそうなんだけどね。
 
 この事件を肝に銘じて欲しい輩が、おいらのまわりにも何人かいる。
 たぷんそいつらは、「訴えられる」(復讐される?)なんて思いもよらないオメデタイ輩なのだ。
 その異様な楽観と自信がどこから来るのか、ときどき頭の中を割って見てやりたくなるような輩だ。
 慣習ってそんなスゴイことなのか?神の言葉みたいに人の拠り所として君臨するものなのか?
 そんなふうに考えいたら進歩なんてないのに。
 経験の蓄積かもしれないけれど、それがいつ覆されるかもしれないことを予想できないような経験ならたいしたことしないと思うけど。
 予想しても「さらなるイジメで相手を叩きのめす」程度のつまんない戦略しか練れないんなら、ばんばん暗殺された歴史上の暴君と同じ程度のバカじゃん。
 「今までが何でもなかったから」
 この楽観がいろんな局面で仇になっていたことは、「食品偽装」などでも言えることだ。

カメ虫つきベンツ

2008-08-25 19:12:06 | 珍事件
 昨日はぶち君と三角港に行ってきた。
 ここの「西公園」はお気に入りの場所なので、あとでまたそのことは書くとして、その日はそのあとカラオケに行き、風呂に行った。
 いつもの、回数券を買ってある風呂に行こうかと思ったら、急にぶち君が、
「今日はオリンピックも下火になったし、ガキが多いかも」
 と言い出したので、別の、ちょっと値段が高いのでガキのあまりいない風呂に行くことにした。
 車を駐車場に入れて、ふと見ると隣はなんと「メルセデス」である。
 メルセデスで公衆温泉かよ、というツッコミが一瞬心をよぎったが、それもすぐ消し飛んでしまった。
 その車を見たら、ぶち君もおいらも凍りついたのだ。
 なんとメルセデス様のウインドーには、10匹以上のカメムシがもぞもぞと動いている。
 シルバーの車体に浮かび上がる緑のカメムシ・・・外灯の光を反射して燦然と萌黄色に光るそれが、いるぞいるぞフロントグラスにも何匹がはりついている。
 なんでこんなことになるのか、といえばちょうどおいらやその車のあたりは駐車場の外灯の真下になって、虫たちがぶんぶん飛び回っているのだ。
 でもしょせんは他人事なので、おいらたちはすぐその場をあとにした。
 しばらくしておいらたちが風呂から上がってきたら、もちろん先にいたメルセデスは消え去っていた。
「あの車の人たち、どうしたかな」
 そんなことがふと胸をよぎったが、こんなありがたくないカーアクセサリーをてんこ盛りにつけたまま帰ったのか、おいらはちょっと気になった。

このドロドロ感。

2008-08-23 09:42:30 | 小説・読んだ本
 最近何冊か、社会の「いま」を描いた小説読んだ。
 別に厳しい現実を社会派ドキュメントタッチに書いてあるものじゃなく、ありふれた日常がはらむ問題や、ありがちな世界の中からじわじわとはみだしてくる「崩壊」について書かれたものばかりだ。
 どれもこれも女性作家だったので、描写は繊細なほどにていねいで、ありがちなものの中にも、それぞれの作家の視線が生かされ、ハッとすることも、そうだよな・・・と思うこともあった。
 でもなんかもの足りない。
 それは何か・・・なんかドロドロした問題を扱っていても、なんか小説の密度が薄いのだ。氷で薄まったカルピスみたいに、なんか足りないのだ。
 足りないと言うのは贅沢かもしれないけど、なんか小説全体から
「汚いものやイヤなものは薄めてしまえ」
 みたいな何かが感じられた。
 読後感、あと味が悪いとまずい・・・嫌がられるってのもあるだろうな。
 そういうの嫌う人、いるらしいし。

 そんな中でやっぱドロドロを書くと面白い、桐野夏生である。
 今回は「メタボラ」
 「グロテスク」「ママ、アイムソーリー」とかに比べると、南国沖縄が舞台なぶん、一見(あの華やかなカバー装丁に騙されるかも)そんなにドロドロでもなそうなんだけど、出るわ出るわ・・・いろんな問題が。
 記憶を失った主人公のドロドロの過去、主人公の「魂の相棒」ジェイクのどうしようもなさ、沖縄と内地の問題、内地から沖縄に来る人たちのハラの中、悪いコじゃないけどうざい女、沖縄を出ようとする食い詰めた連中。
 まあ、そういうのがバームクーヘンみたいに層になって、一見地上の楽園みたいな沖縄世界を作っているのだ。
 でもこの作品は他の桐野作品よりかは少しは明るい。
 その明るさはジェイクの、育ちのよさからくるあの野放図なまでの楽天性からきているのかもしれない。
 これでくたばらずに生き延びろよジェイク、それがギンちゃんの救いなんだから・・・とおもわずおいらも思ってしまうのだった。