あの日から1ヶ月となった。
地震発生の2時46分、サイレンと同時に尊い命を失った人たちに黙祷を捧げた。
幼い頃からの大親友、叔母、仕事仲間、知人。。。それぞれの顔が浮かび上がってきた。
目を閉じると涙がこぼれ落ちる。しっかりと目を開き、上を向いてその冥福を祈った。
写真の時計の針は、津波が来た時の時間だ。あれ以来止まったままにある市役所の会議室の時計だ。
地震の時間、そして津波の時間、我々は決して忘れることはないだろう。
ーーーー
海が大好きだった友は、船も大好きだった。
震災がなければ私の家族と友の家族でこの5月、客船に乗ってクルーズする予定だった。
しかし、楽しみにしていたクルーズは実現することが出来なくなった。
友の棺には、乗る予定だった客船の写真を入れてあげた。
きっとこの船で、今どこかの海を航海していることだろう。
ーーーーー
宮古湾に白い帆が浮かぶのはいつの日か。
復興のシンボルはやはりこの宮古湾に浮かぶ白いヨットの姿だ。
ジュニアや高校生たちの夢や希望をなくしてはいけない。
この子たちのためにも未来に向かって、時間がかかろうともいつか失ったものを取り戻していきたい。
あの日の宮古湾で練習していたのは宮古商業ヨット部だった。
毎日新聞でその奇跡の生還劇が報道されたが、神風のお陰でもあったと同時に、
ハーバー職員との見事な連携による避難劇だったことは知られていない。
最悪の状況下で最善の策を見事に発揮し、難局を乗り切ったものだ。
いかにリスクマネージメントが大事だったか、
あの勇気ある行動でリスクを回避できたことに改めて感謝したい。
ーーーー
悲しみの中にも嬉しい話もある。
震災のお陰で思いがけない人との出会いもあった。
それは20年ぶりの事であり、遠く海外のアメリカ在住の人とだった。
震災後、私たちは地域住民の支援のためにさいがいFM局を立ち上げ、身近な情報を伝える活動を行っている。
その活動をニューヨークタイムスが取材に来た。海外からもメディアが来るほどこの震災の被害は甚大なものだった。
その取材された新聞が昨日、私の手元に届いた。それは新聞社からではなく、アメリカ在住の女性からだった。
彼女は20年前、宮古で英語を教師をしていた。日本文化の俳句にも興味を持ち、私の主宰する雑誌に俳句とコラムを寄せていた。
1年ほどの付き合いだったが、帰国後はその消息は不明で交流することもなかった。
そんな折り、その記事の中に私の名前があったことから驚き、いろんな人を経ながらこの新聞を送ってくれたようだ。
新聞は発行日から約2週間で私のところにたどり着いた。
手紙も入っていて、どうやら私の安否を気遣ってグーグルで検索していたようだ。
彼女の存在は記憶から遠ざかっていたが、こうした再会に何か明るい気持ちにもなった。
これもグローバル化時代ならではのものか。新たな再会にも感謝したい。
私たちは決して一人ではない。多くの人とつながっていることをこの震災を通して実感している。
地震発生の2時46分、サイレンと同時に尊い命を失った人たちに黙祷を捧げた。
幼い頃からの大親友、叔母、仕事仲間、知人。。。それぞれの顔が浮かび上がってきた。
目を閉じると涙がこぼれ落ちる。しっかりと目を開き、上を向いてその冥福を祈った。
写真の時計の針は、津波が来た時の時間だ。あれ以来止まったままにある市役所の会議室の時計だ。
地震の時間、そして津波の時間、我々は決して忘れることはないだろう。
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海が大好きだった友は、船も大好きだった。
震災がなければ私の家族と友の家族でこの5月、客船に乗ってクルーズする予定だった。
しかし、楽しみにしていたクルーズは実現することが出来なくなった。
友の棺には、乗る予定だった客船の写真を入れてあげた。
きっとこの船で、今どこかの海を航海していることだろう。
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宮古湾に白い帆が浮かぶのはいつの日か。
復興のシンボルはやはりこの宮古湾に浮かぶ白いヨットの姿だ。
ジュニアや高校生たちの夢や希望をなくしてはいけない。
この子たちのためにも未来に向かって、時間がかかろうともいつか失ったものを取り戻していきたい。
あの日の宮古湾で練習していたのは宮古商業ヨット部だった。
毎日新聞でその奇跡の生還劇が報道されたが、神風のお陰でもあったと同時に、
ハーバー職員との見事な連携による避難劇だったことは知られていない。
最悪の状況下で最善の策を見事に発揮し、難局を乗り切ったものだ。
いかにリスクマネージメントが大事だったか、
あの勇気ある行動でリスクを回避できたことに改めて感謝したい。
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悲しみの中にも嬉しい話もある。
震災のお陰で思いがけない人との出会いもあった。
それは20年ぶりの事であり、遠く海外のアメリカ在住の人とだった。
震災後、私たちは地域住民の支援のためにさいがいFM局を立ち上げ、身近な情報を伝える活動を行っている。
その活動をニューヨークタイムスが取材に来た。海外からもメディアが来るほどこの震災の被害は甚大なものだった。
その取材された新聞が昨日、私の手元に届いた。それは新聞社からではなく、アメリカ在住の女性からだった。
彼女は20年前、宮古で英語を教師をしていた。日本文化の俳句にも興味を持ち、私の主宰する雑誌に俳句とコラムを寄せていた。
1年ほどの付き合いだったが、帰国後はその消息は不明で交流することもなかった。
そんな折り、その記事の中に私の名前があったことから驚き、いろんな人を経ながらこの新聞を送ってくれたようだ。
新聞は発行日から約2週間で私のところにたどり着いた。
手紙も入っていて、どうやら私の安否を気遣ってグーグルで検索していたようだ。
彼女の存在は記憶から遠ざかっていたが、こうした再会に何か明るい気持ちにもなった。
これもグローバル化時代ならではのものか。新たな再会にも感謝したい。
私たちは決して一人ではない。多くの人とつながっていることをこの震災を通して実感している。