落合順平 作品集

現代小説の部屋。

舞うが如く 第四章 (8)会津へ

2013-01-04 05:21:12 | 現代小説
舞うが如く 第四章
(8)会津へ




 山南敬介の切腹から間もなくのことでした。
この年の春に、年号が「慶応」に改まりました。
不祥事や争い事の絶えない時勢を考慮して、幕府が朝廷に打診をしてから
改元をしたという、前代未聞の出来事でした。
また同時にこれが、江戸幕府の最後の年号となりました。


 これを前後するように、
ふたたび江戸では新撰組による隊士の募集が行われ、
土方や伊籐たちの奔走もあり、
50名を越える隊士が集まり上洛をしました。
また手狭となった壬生の屯所から、かねてからの計画通り、
西本願寺に、新撰組の拠点が移されました


しかしこのころから、
沖田の病状が、ぶり返しはじめます。
公務中の総司は、勤めて快活にふるまい、
かえって周囲を困惑させるほどのあり様でした。


 「総司には、
 よほど山南の死がこたえたのであろう、
 そこまで気丈に振るまわらぬとも、
 良いものを・・・」

 土方が、ため息をもらしました。
総司に堅く口止めされている琴には、返す言葉がありません。
深夜の、乾いた咳には鮮血も混じることがありました。
それでも総司は苦笑いをしたまま、布団の上に正座しては、
症状がおさまるのをじっと待ち続けているのです。
そんな隣室の気配を聴くたびに、琴は胸がいたみ、
眠れない夜になってしまいます。

 そんな矢先、
会津藩より琴に一通の書状が届きました。
差し出しは、会津藩・御用人、山本覚馬とありました



 「至急の依頼事あり、
 急ぎ、会津藩御用館にて面談いたしたし」と記されてあります。


 どれ一人では何かと物騒であろう、
拙者が護衛に・・・と、立ち上がった沖田とともに、
琴が会津藩邸に向かいました。
近代的砲術の指導者として名声を馳せた山本覚馬ですが、
蛤ご門の変では、眼に傷を負い、いまでは失明の危険もあるというのが
近頃の京でのもっぱらの評判でした


 幕府の「西の要」とされた京都所司代は
室町幕府の侍所(さむらいどころ)からはじったものです。
徳川幕府に受け継がれた所司代屋敷は、二条城北一帯に広大な敷地を持ち、
上屋敷、堀川屋敷、千本屋敷などから構成されていました。


 さらに、徳川時代の所司代は
関ヶ原合戦直後に、あらためて設けられたものです。
皇室や公家の監視、京都諸役人の統率、京都町方の取り締まり、
さらには近畿八ヶ国の訴訟処理、西国三十三ヶ国の大名たちの
動静監視などに強い権限を持つもので、
幕府の老中に次ぐ最重要役職のひとつでした。
文久2(1862)年に、あらたに京都守護職が設けられると、
京都所司代は、その管轄下に属すことになりました。


 その年の12月24日に、
会津藩主・松平容保が京都守護職として入京しました。
当初は黒谷の金戒光明寺を本陣としましたが、翌3年には、
千本通り下立売角の所司代下屋敷北側に、
雄大な会津藩御用屋敷を設けました。


 さらに、北は下長者町通りから南は下立売通りまで、
また東は新町通り、西は西洞院通りの、南北二町・東西一町におよぶ
広大な敷地を買収して、京都守護職・御用屋敷の大普請が始まり、
慶応元年に、ようやく完成をしました。

 通されたのは、木の香も鮮烈に香る
完成したばかりの、高い天井を持つ謁見所でした。
待つほどもなく、若侍にを片手に引かれて、山本覚馬があらわれました。
思いのほかに小柄で、すでに両目は閉ざされていました。



 「長崎で診てもらいましたが、
 すでに手遅れであるとの見立てにありました。
 今はこの者が、わしの眼の代わりにござる。」

 着席するとともに、新式の西洋銃が差し出されました
見えぬはずの目で、山本覚馬が琴に向かって身を乗り出しました。


 「なるほど、噂にたがわぬ美剣士にある。
 我が妹、八重(やえ)と同じ匂いが漂よいまする。
 しかし沖田殿、
 このお方も、なかなかに気丈であろう。」

 琴が苦笑しながら、沖田を覗います。
沖田は横をむいたまま、会話に介入するそぶりすら見せません。

 「これは、失礼をした、
 頼み事と言うのは、この新式の連発銃のことである。
 これを、会津の八重に届けてほしい。
 このご時世です、どこで襲われるかもわからぬゆえ、
 偽装はいたしますが、これ見よがしに警護を付けるわけにもいかぬ。
 そこで新撰組いち腕が立つとという、
 琴殿に白羽の矢を立てたという次第である、
 引き受けてくれるかの。」


 「新式の西洋銃ですか」


 「左様、これが、これからの会津鉄砲隊の新装備になる。、
 数百丁もの護衛となるが、いかがかな?」

 断る術もなく返事に困る琴に、さらに山本が言葉を続けました。

 「実は、公武合体の盟友であったはずの薩摩藩が
 水面下にて、長州と謀議を繰り返しておるという噂が飛び交っておる。
 西国諸国は、もともとが幕府に抗する外様の諸大名ばかりである。
 第一次長州征討の指揮をとった薩摩藩も、
 長州には数名の処分者を出させただけで
 双方とも兵力を温存したまま、いわば談合で
 平和的に決着をつけておる。
 まんざら、あり得ない話でもなかろう」


 「薩摩が、寝返るということですか」



 「いやいや、これはあくまでも、
 例えばの話である。、
 戦力の増強は会津にとっても必須の課題。
 それともうひとつ、
 これも八重に届けてもらいたい。」


 山本が懐より、二通の書状を取り出しました、
さらに、腰の小刀もそれに添えました。


 「蛤ご門の時に、覚悟を決めた折、
 八重にしたためたものである。
 幸いにして、怪我をする前のことであり、
 これが最後の直筆となってしまいました。
 一通は母上に、もう一通は八重に、それぞれにしたためました。
 届けていただけるかな、山本覚馬のこの気持ちを会津まで。
 琴殿。」

 「そういうことであれば、是非にでも。
 承知いたしました、
 命に賭けても、まっとういたしまする。」



 「さすが。
 噂に高い、法神翁の愛弟子ぶり。」


 「師を、ご存じなのですか」

 「昔、江戸にて教えを請うたことが有りました。
 いやはや、赤子同然の弟子で、
 師にずいぶんとしごかれました。」


 懐かしい名前に、琴の頬が緩みました。
故郷・上州を旅立ち以来はや二年余り
思いがけない恩師の名前との再開でした。
不思議な縁(えにし)のなかで、琴はまだ見ぬ覚馬の妹、
会津の八重に、しばしの想いをはせました。




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