舞うが如く 第七章
(10)民子と、咲
暑気が強くなるにつれて、
製糸場内では、病人が沢山出てくるようになりました。
蒸気と熱湯だけでも高温になってしまう工場内が、気温の上昇と共に、
さらにうだるような環境に変わりはじめたためです。
西洋医が診察にやってきました。
「大勢を、狭い部屋にとじ込めて置くから病気になる。
健康のためにも夕方から、夜八時半頃までは広庭に出してたくさん運動をさせるように。」
と診断をして、その改善策もくだします。
早速、その広庭が工女たちに解放されることになりました。
役人による取締役が付添いを務める中で、 思い思いに、九時頃まで遊ぶようになります。
しかしその甲斐も無く、それからほぼ二週間後になった頃に、
最年長の民子が、ついに体調を崩してしまいました。
その日は、一人で部屋で休んでいましたが、
夜になると、もう足がひょろひょろとしたまま、ついには歩くことすら
ままにならない状態に陥ってしまいます。
翌朝、製糸場内の病院へ行くと診察の結果、即座に「脚気」といわれてしまいます。
明治3年と、その翌年からこの「脚気」が、巷で大流行をしました。
東京などの都市部や、陸軍の鎮台所在地、港町などで流行をして、
上層階級よりも中・下層階級で、より多くこの病気が発生をしました。
この当時には、死亡率がきわめて高い病気のひとつです。
脚気の原因が、まだ未解明だった時代です。
脚気の流行にはさらに拍車がかかり、政府を上げて、その原因解明と対策が急がれました。
脚気の原因がわからなかった理由としては、いろいろな症状があるうえに、
病気の形が変わりやすいことや、子供や高齢者など体力の弱い者が冒されずに
元気そうな若者が冒されることなどが挙げられます。
また、良い食物をとっている者のほうが冒されており、
粗食をとっている者が冒されないことなどの、一見矛盾した特徴もありました。
またこの当時の西洋医学には、脚気という定義はありません。
当時の日本の漢方医学にも、人の栄養に不可欠な微量栄養素があるという
知識は、まったく見当たらない状態です。
脚気は、ビタミンB1欠乏症と言う病気です。
ビタミンB1の欠乏によって、心不全と末梢神経の障害をひきおこすという疾患です。
心不全によって下肢がむくみ、神経障害によって下肢のしびれが起きることから
脚気(かっけ)という名前で呼ばれました。
心臓機能の低下や不全(衝心(しょうしん))を併発する事から、
脚気衝心などと呼ばれることもありました。
今日では、ほとんどありませんが白米を常食として、
ほとんど副食物を取らなかった時代では、こうした原因がまったく不明なまま、
死者が多くでるという病気のひとつです。
琴が病院の診察室で、寄宿舎の取締役と善後策を協議しています。
帰国させるにしても、民子がまったく身動きができない今の状態では無理と思われ、
当分は静観せざるをえないとして、その結論を下します。
お昼の休憩に入ったとたんに、同室で最年少の咲が、診察室へ飛んできました。
「これよりすぐに、
民子さんを連れて帰国をしたいと思います。
脚気なれば、郷里へと戻れば薬を飲まずとも全快すると、
国もとでも申しておりまする。
なにとぞ、お願いを申しあげます。」
部屋長も後から現れて、全員で相談しているところへ、
脚気の診断を下した西洋医がやって来ました。
懸命に食い下がる咲を、片言の日本語で西洋医がなだめ続けました。
命に別条は有らずとの西洋医の説明に、ようやく一同はあらためてほっとします。
しかし当の民子は、自力では身動き一つでき無い状態のままです。
結局、咲が常時付き添うことで落着をします。
一同はそれぞれに、その日は一旦各自の持ち場へ戻りました。
しかし様子を見たものの、その後も民子に食欲も無く、食事もまったく進みません。
足も全く立たなくなったために、「はばかり」へ行くにも咲が肩を貸して
通い、介助することになりました。
それにもかかわらず、回復への兆しは一向に見えず、
ただ時間と月日だけが流れます。
最年少の咲は、泣き言一つ言わずに、
病室と自分の部屋の間を、走ったままでの往復を連日繰り返しました。
三度三度の食事のために、咲は自分の部屋まで全速力で駆けてもどります。
急いで自分の食事を済ませると、今度は小さな体をはずませて、
七十五間とその先の十間余の長廊下を全力で走りぬけて、
民子が心待ちにしている病室へと戻ってきます。
そんな咲による看護の日々が、およそ3か月あまりも続きました。
すこしだけ回復のきざしを見せたはじめた民子に、
入湯の許可が初めて出ました。
小さな咲が、やせ細ったとはいえ、長身の民子をおんぶして、
ようやく湯殿にまでたどり着きます。
共々に裸となり、小さな咲が、細身の民子を抱きかかえて、
やっとお湯へとつかりました。
周りにいた工女たちが、それをのぞいて口ぐちに笑いましたが、
咲には、笑う余裕などはまったくもってありません。
湯気の中で、抱きかかえられた民子が小声で
咲の耳へ、なにやら短く囁きました。
顔を真っ赤にした咲が、嬉しそうにこくんとひとつ頷きます。
どんな言葉であったのか、それは誰にも聞こえません。
しかし傍目にも分かるほど、余りにも嬉しそうな咲の様子に回りの工女たちは、
ただただ首をひねるばかりです。
第7章(11)へつづく
新作はこちら
赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (21)清子とたまの、独り言
http://novelist.jp/62173_p1.html
(1)は、こちらからどうぞ
http://novelist.jp/61553_p1.html
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
(10)民子と、咲
暑気が強くなるにつれて、
製糸場内では、病人が沢山出てくるようになりました。
蒸気と熱湯だけでも高温になってしまう工場内が、気温の上昇と共に、
さらにうだるような環境に変わりはじめたためです。
西洋医が診察にやってきました。
「大勢を、狭い部屋にとじ込めて置くから病気になる。
健康のためにも夕方から、夜八時半頃までは広庭に出してたくさん運動をさせるように。」
と診断をして、その改善策もくだします。
早速、その広庭が工女たちに解放されることになりました。
役人による取締役が付添いを務める中で、 思い思いに、九時頃まで遊ぶようになります。
しかしその甲斐も無く、それからほぼ二週間後になった頃に、
最年長の民子が、ついに体調を崩してしまいました。
その日は、一人で部屋で休んでいましたが、
夜になると、もう足がひょろひょろとしたまま、ついには歩くことすら
ままにならない状態に陥ってしまいます。
翌朝、製糸場内の病院へ行くと診察の結果、即座に「脚気」といわれてしまいます。
明治3年と、その翌年からこの「脚気」が、巷で大流行をしました。
東京などの都市部や、陸軍の鎮台所在地、港町などで流行をして、
上層階級よりも中・下層階級で、より多くこの病気が発生をしました。
この当時には、死亡率がきわめて高い病気のひとつです。
脚気の原因が、まだ未解明だった時代です。
脚気の流行にはさらに拍車がかかり、政府を上げて、その原因解明と対策が急がれました。
脚気の原因がわからなかった理由としては、いろいろな症状があるうえに、
病気の形が変わりやすいことや、子供や高齢者など体力の弱い者が冒されずに
元気そうな若者が冒されることなどが挙げられます。
また、良い食物をとっている者のほうが冒されており、
粗食をとっている者が冒されないことなどの、一見矛盾した特徴もありました。
またこの当時の西洋医学には、脚気という定義はありません。
当時の日本の漢方医学にも、人の栄養に不可欠な微量栄養素があるという
知識は、まったく見当たらない状態です。
脚気は、ビタミンB1欠乏症と言う病気です。
ビタミンB1の欠乏によって、心不全と末梢神経の障害をひきおこすという疾患です。
心不全によって下肢がむくみ、神経障害によって下肢のしびれが起きることから
脚気(かっけ)という名前で呼ばれました。
心臓機能の低下や不全(衝心(しょうしん))を併発する事から、
脚気衝心などと呼ばれることもありました。
今日では、ほとんどありませんが白米を常食として、
ほとんど副食物を取らなかった時代では、こうした原因がまったく不明なまま、
死者が多くでるという病気のひとつです。
琴が病院の診察室で、寄宿舎の取締役と善後策を協議しています。
帰国させるにしても、民子がまったく身動きができない今の状態では無理と思われ、
当分は静観せざるをえないとして、その結論を下します。
お昼の休憩に入ったとたんに、同室で最年少の咲が、診察室へ飛んできました。
「これよりすぐに、
民子さんを連れて帰国をしたいと思います。
脚気なれば、郷里へと戻れば薬を飲まずとも全快すると、
国もとでも申しておりまする。
なにとぞ、お願いを申しあげます。」
部屋長も後から現れて、全員で相談しているところへ、
脚気の診断を下した西洋医がやって来ました。
懸命に食い下がる咲を、片言の日本語で西洋医がなだめ続けました。
命に別条は有らずとの西洋医の説明に、ようやく一同はあらためてほっとします。
しかし当の民子は、自力では身動き一つでき無い状態のままです。
結局、咲が常時付き添うことで落着をします。
一同はそれぞれに、その日は一旦各自の持ち場へ戻りました。
しかし様子を見たものの、その後も民子に食欲も無く、食事もまったく進みません。
足も全く立たなくなったために、「はばかり」へ行くにも咲が肩を貸して
通い、介助することになりました。
それにもかかわらず、回復への兆しは一向に見えず、
ただ時間と月日だけが流れます。
最年少の咲は、泣き言一つ言わずに、
病室と自分の部屋の間を、走ったままでの往復を連日繰り返しました。
三度三度の食事のために、咲は自分の部屋まで全速力で駆けてもどります。
急いで自分の食事を済ませると、今度は小さな体をはずませて、
七十五間とその先の十間余の長廊下を全力で走りぬけて、
民子が心待ちにしている病室へと戻ってきます。
そんな咲による看護の日々が、およそ3か月あまりも続きました。
すこしだけ回復のきざしを見せたはじめた民子に、
入湯の許可が初めて出ました。
小さな咲が、やせ細ったとはいえ、長身の民子をおんぶして、
ようやく湯殿にまでたどり着きます。
共々に裸となり、小さな咲が、細身の民子を抱きかかえて、
やっとお湯へとつかりました。
周りにいた工女たちが、それをのぞいて口ぐちに笑いましたが、
咲には、笑う余裕などはまったくもってありません。
湯気の中で、抱きかかえられた民子が小声で
咲の耳へ、なにやら短く囁きました。
顔を真っ赤にした咲が、嬉しそうにこくんとひとつ頷きます。
どんな言葉であったのか、それは誰にも聞こえません。
しかし傍目にも分かるほど、余りにも嬉しそうな咲の様子に回りの工女たちは、
ただただ首をひねるばかりです。
第7章(11)へつづく
新作はこちら
赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (21)清子とたまの、独り言
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(1)は、こちらからどうぞ
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