「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。
おちょぼ 第118話 混浴の岩風呂
積善館の本館は元禄4年に建てられた。
日本最古の木造湯宿建築として、そのままの形でいまに伝えられている。
表向きはとても小さな宿のように見える。
正面に、300年の歴史を持つ木造の本館だけが見えているからだ。
本館の後ろに、山荘、佳松亭と山の斜面に、趣の異なる館が連なっている。
本館と山荘の間を『浪漫のトンネル』が繋ぎ、『鏡の廊下』が山荘と
最上層の佳松亭をつないでいる。
開業した当初から、典型的な湯治宿のひとつだった。
徐々に増える湯治客のため、数度にわたる増築が繰り返された。
寛政12(1800)年に書かれた古文書によれば、屋敷の大きさと、建物の大きさは
共に現在と完全に一致しているという。
「湯治』の「湯」は薬湯を意味し、「治」は治療を意味している。
病気と傷の治療を目的に、四万の温泉と薬湯が利用されてきた。
食料を持参し、自炊しながら、長期滞在する場所として積善館の本館が利用されてきた。
山荘と本館をつなぐ浪漫のトンネルで、また、サラが歓声を上げた。
「千と千尋の神隠し」の冒頭に、千尋の一家がトンネルを抜けていくシーンが有る。
ここから千尋が異界に迷い込んでいくことになるのだが、これとまったく
瓜二つのトンネルが積善館の本館に有る。
トンネルを抜けると、暗い電灯に照らされた古い廊下が目の前に現れる。
「まるで迷路のようどす、厄介な旅館どすなぁ・・・」
館内案内図を頼りに、サラが3階の客間に向かって先頭を歩いて行く。
「お前はワシと同じ、佳松亭に泊まれ」と理事長に命令されたのにもかかわらず、
サラは佳つ乃(かつの)の傍から、ひと時も離れようとしない。
ちょこんと座ったサラが、甲斐がしくお茶の支度を始める。
手慣れた様子のサラを見て、「何時の間に、お茶の支度なんか覚えたの?」と
似顔絵師が首をかしげる。
作法のため、茶道教室に通っていることは以前から知っているが、サラが
日常のお茶を入れる姿を見るのは、初めてのことだ。
「お茶を入れるのは、最長老の小染め姉さんから教わりました。
けど、小染め姉さんが呑むのは、煙臭い京番茶どす。
ウチは紅茶のほうがええんどすが、それでは小染め姉さんが機嫌を損ねます。
我慢して京番茶を呑んどるうち、なにやら親しみなどを感じるように
なりましたから、不思議なもんどすなぁ」
お茶を呑んだら、混浴の内湯へ行きましょうとサラが似顔絵師の顔を覗き込む。
誘われた似顔絵師が、「混浴の内湯?」ごくりと思わず生唾を呑み込む。
「佳つ乃(かつの)姉さんも一緒どす」とサラが、さらに追い打ちをかけてくる。
佳つ乃(かつの)は聞こえない振りをして、窓際の椅子から外を見ている。
積善館には、源泉の異なる4つの浴室が有る。
「佳松亭」の浴室は一般旅館と同じように、露天風呂と内湯がセットになっている。
山荘に有る2つの浴室には、何故か鍵が架かるようになっている。
希望すれば、家族風呂として利用することもできる。
本館には、大正時代の雰囲気が漂う「元禄の湯」と、混浴の「岩風呂」が有る。
いずれの風呂も、掛け流しの源泉を満喫することができる。
(入りたいのあなたは。混浴風呂に?)
佳つ乃(かつの)の目が、遠くから訴えてきた。
(君が断るのなら、俺も辞退をする)
上目使いの返事を佳つ乃(かつの)へ送ると、意外な反応が返って来た。
(いいわよ、入ってあげても)
佳つ乃(かつの)の目元が、いつになく柔らかく笑っている。
(旅の恥はかき捨てです。せっかくの機会どす。背中で良ければ流してあげます)
うふふと笑う佳つ乃(かつの)の口元が、重ねて似顔絵師を誘う。
「よかったぁ。決まりですねぇ、では早速、善は急げです!」
サラが先頭をきって立ち上がる。
3階の客間から2階にある岩風呂まで、迷路のような通路が続く。
建て増しを何度も繰り返した結果、館内に複雑きわまる迷路が出来上がったためだ。
赤い絨毯を敷き詰めた廊下が、突然、とんでもない方向へ曲がる。
まっすぐ行けると思った廊下が、不自然な壁に突き当たる。
(無事に戻ってこられるのかしら・・・)角を曲がるたびに、佳つ乃(かつの)が
不安そうな目つきで廊下を振り返る。
岩風呂の引き戸を開けると、男女別々の暖簾が揺れる脱衣所が目の前に現れる。
じゃあねと手を振り、サラと佳つ乃(かつの)が女湯と書かれた
赤い暖簾の先へ消えていく。
脱衣所は、きわめてシンプルに出来ている。
間仕切りの有る脱衣用の棚が有るだけで、銭湯か、誰でも入れるどこかの
共同浴場のような雰囲気が漂っている。
浴室の扉を開けると、青い石を敷き詰めた浴槽に透明の源泉が湯気を上げている。
100%の源泉を指先で確認していると、女湯の扉が静かに開いた。
前を隠した佳つ乃(かつの)が、湯気の向こう側に、少し恥ずかしそうに現れる。
「・・・サラは、どうしたの?」と声をかけると、
「用事を思い出したそうどす。うまく逃げられてしまいました。
ふふふ。かないませんなぁ、ずる賢い、いまどきの若い子には・・・」
湯気の中。ポチャリと音を立てて、天井から水滴がひとつ落ちてきた。
第119話につづく
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