「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。
おちょぼ 第119話 農家の跡を継ぐ
風呂からあがり、受付時にフロントで渡された浴衣に着替えると、
ようやく旅人らしい気分が湧き上がって来る。
並んで歩く素肌の佳つ乃(かつの)から、甘い香りが漂ってくる。
着物を着るときの習慣で、佳つ乃(かつの)は大きく大胆に襟を抜く。
湯上りの火照ったうなじが丸見えになる。
濡れたほつれ毛が、ふわりと揺れて桃色の肌に舞い降りる
つられて手が出てしまいそうな衝動を、似顔絵師があわてて抑え込んだ。
途中の窓から、白一色に変った通りの様子が目に飛び込んできた。
雪は、さらさらとした小さな粒に変っている
だが細かくなったものの、降り止む気配は一向にない。
部屋へ戻った2人はつられたように、暖房の効いたテラス席に並んで腰を下ろす。
「静かやねぇ・・・」と雪に見とれている佳つ乃(かつの)に、似顔絵師が
「そうだねぇ」とだけ、小さく答える。
「あんたのお姉さん、陽子さんになぁ。
一緒に仕事せえへんかと、熱心に誘われました」
「姉に誘われた?。君が、美容師として働くという意味かい?」
「農家に嫁ぐのは、大変なことやと聞かされました。
指が荒れる前に、美容師の資格を取り、着付けの仕事を手伝ってほしいと、
そんな風に、お姉さんに言われました」
「実家に住んだとしても、君が農業をする必要はないさ。
それに俺はいまのところ、おやじの仕事を継ぐつもりは一切ない」
「ふふふ。そないな風に反発をする子供こそ、親の仕事を継いでいくそうどす。
あなたは必ず農業を継ぐ。きっとそうなると陽子さんが断言しておりました。
姉弟やから、見ているだけであなたの本心が分かるそうどす。
ええやないどすか、土に生きる仕事というのも。
ウチも嫌いやおへん、あんたのそばに居られんなら、農家の仕事でも」
「生まれたときから祇園で育ってきた君に、農業は無理だろう・・・
農家に育った俺だって、2の足を踏んでいる。
君には、できることなら綺麗なままで、いてほしいなぁ・・・」
「綺麗にいてほしいのは、ウチの外観どすか?、それとも内面どすか?
ええ加減で覚悟を決めなはれ。
農家の長男に生まれたというあんたの素性を知ったとき、
ウチは土に汚れてもええと、覚悟を決めました。
白い顔は好きやけど、陽に焼けた小麦色のウチの顔は、嫌いどすか?」
返す言葉を失った似顔絵師が、佳つ乃(かつの)の顔から目をそらす。
たぶん。父の仕事を継ぐことを決意する日が、そう遠くない未来にやって来るだろう・・・
そうなることを似顔絵師自身が、幼いころから熟知している。
それは単に、農家の長男に生まれたという宿命からではない。
野良で働く父の背中が、昔から大好きだったからだ。
「農業は、日本の自然を守る仕事だ。だがな、実際の仕事はそんなに楽じゃねぇ。
朝早くから起きて、陽が暮れるまで家と畑を往復する。
好きでなければできない仕事だ。
たぶん。農耕民族の血が濃すぎるんだろうな、俺は。あっはっは」
農家を継ぐ道に進まなかったのは、似顔絵師に宿った画才のせいだ。
農家の苦労を知り尽くした父は、「好きなことが有るのなら、そっちへ進め」と
常に似顔絵師の背中を押した。
親に甘えて生きてきたつもりはない。
事実。ヨーロッパ放浪の旅に出るまでは、画家として成功する自信が似顔絵師には有った。
だがヨーロッパ各地の美術館で出会った巨匠たちの作品が、似顔絵師の
自信をいとも簡単に、根底から打ち砕いた。
何もかもが違いすぎる・・・
生まれつき才能に恵まれた者と、そうでない者との運命的な違いに、
似顔絵師が生まれて初めて気が付いた。
芸術家とは、生まれた時から天分に恵まれた、ひとにぎりの人たちを指す。
それ以外の人間は、ただ頂点に至ることを夢に見ているだけだ。
努力の末に、夢の途中から転落していくその他大勢の人間のほうが、圧倒的に多くなる。
スポーツの世界で、プロを目指す者にも同じことが言える。
甲子園を目指し、小さな頃から修練を積み重ねてきた数万の高校球児たちのうち、
甲子園のグランドに立てるのは、都道府県の頂点に立った1チームだけだ。
わずか20名だけが、都道府県の代表として甲子園にたどり着く。
プロへの狭い門を通過できるのは、さらに限定される。
高校野球からプロの舞台に辿り着けるのは、5人から6人くらいと言われている。
ヨーロッパで本物の芸術と、はるかな高みに到達した作品を目の当たりに
見てきた似顔絵師は、(そろそろ俺も、本気で家業を継ぐ、決意を固める時期かな、)
と傷心の気持ちを抱えて、佳つ乃(かつの)の居る京都へたどり着いた。
「寒くなってきましたなぁ」と佳つ乃(かつの)が、浴衣の襟を合わせる。
「路上の似顔絵師もええと思いますが、野良で描く似顔絵もまた、
素敵やと思います。
日本にただひとり。畑で絵を描く似顔絵師が居てもいいと、ウチは思います。
なんならウチが、京舞を野良着で舞ってモデルになって見せますぇ~」
ウフフと笑った佳つ乃(かつの)が、
「お部屋のほうへ戻りましょう、窓際では、そのうち風邪をひきますなぁ」
と似顔絵師を急き立てる。
第120話につづく
落合順平の、過去の作品集は、こちら
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。
おちょぼ 第119話 農家の跡を継ぐ
風呂からあがり、受付時にフロントで渡された浴衣に着替えると、
ようやく旅人らしい気分が湧き上がって来る。
並んで歩く素肌の佳つ乃(かつの)から、甘い香りが漂ってくる。
着物を着るときの習慣で、佳つ乃(かつの)は大きく大胆に襟を抜く。
湯上りの火照ったうなじが丸見えになる。
濡れたほつれ毛が、ふわりと揺れて桃色の肌に舞い降りる
つられて手が出てしまいそうな衝動を、似顔絵師があわてて抑え込んだ。
途中の窓から、白一色に変った通りの様子が目に飛び込んできた。
雪は、さらさらとした小さな粒に変っている
だが細かくなったものの、降り止む気配は一向にない。
部屋へ戻った2人はつられたように、暖房の効いたテラス席に並んで腰を下ろす。
「静かやねぇ・・・」と雪に見とれている佳つ乃(かつの)に、似顔絵師が
「そうだねぇ」とだけ、小さく答える。
「あんたのお姉さん、陽子さんになぁ。
一緒に仕事せえへんかと、熱心に誘われました」
「姉に誘われた?。君が、美容師として働くという意味かい?」
「農家に嫁ぐのは、大変なことやと聞かされました。
指が荒れる前に、美容師の資格を取り、着付けの仕事を手伝ってほしいと、
そんな風に、お姉さんに言われました」
「実家に住んだとしても、君が農業をする必要はないさ。
それに俺はいまのところ、おやじの仕事を継ぐつもりは一切ない」
「ふふふ。そないな風に反発をする子供こそ、親の仕事を継いでいくそうどす。
あなたは必ず農業を継ぐ。きっとそうなると陽子さんが断言しておりました。
姉弟やから、見ているだけであなたの本心が分かるそうどす。
ええやないどすか、土に生きる仕事というのも。
ウチも嫌いやおへん、あんたのそばに居られんなら、農家の仕事でも」
「生まれたときから祇園で育ってきた君に、農業は無理だろう・・・
農家に育った俺だって、2の足を踏んでいる。
君には、できることなら綺麗なままで、いてほしいなぁ・・・」
「綺麗にいてほしいのは、ウチの外観どすか?、それとも内面どすか?
ええ加減で覚悟を決めなはれ。
農家の長男に生まれたというあんたの素性を知ったとき、
ウチは土に汚れてもええと、覚悟を決めました。
白い顔は好きやけど、陽に焼けた小麦色のウチの顔は、嫌いどすか?」
返す言葉を失った似顔絵師が、佳つ乃(かつの)の顔から目をそらす。
たぶん。父の仕事を継ぐことを決意する日が、そう遠くない未来にやって来るだろう・・・
そうなることを似顔絵師自身が、幼いころから熟知している。
それは単に、農家の長男に生まれたという宿命からではない。
野良で働く父の背中が、昔から大好きだったからだ。
「農業は、日本の自然を守る仕事だ。だがな、実際の仕事はそんなに楽じゃねぇ。
朝早くから起きて、陽が暮れるまで家と畑を往復する。
好きでなければできない仕事だ。
たぶん。農耕民族の血が濃すぎるんだろうな、俺は。あっはっは」
農家を継ぐ道に進まなかったのは、似顔絵師に宿った画才のせいだ。
農家の苦労を知り尽くした父は、「好きなことが有るのなら、そっちへ進め」と
常に似顔絵師の背中を押した。
親に甘えて生きてきたつもりはない。
事実。ヨーロッパ放浪の旅に出るまでは、画家として成功する自信が似顔絵師には有った。
だがヨーロッパ各地の美術館で出会った巨匠たちの作品が、似顔絵師の
自信をいとも簡単に、根底から打ち砕いた。
何もかもが違いすぎる・・・
生まれつき才能に恵まれた者と、そうでない者との運命的な違いに、
似顔絵師が生まれて初めて気が付いた。
芸術家とは、生まれた時から天分に恵まれた、ひとにぎりの人たちを指す。
それ以外の人間は、ただ頂点に至ることを夢に見ているだけだ。
努力の末に、夢の途中から転落していくその他大勢の人間のほうが、圧倒的に多くなる。
スポーツの世界で、プロを目指す者にも同じことが言える。
甲子園を目指し、小さな頃から修練を積み重ねてきた数万の高校球児たちのうち、
甲子園のグランドに立てるのは、都道府県の頂点に立った1チームだけだ。
わずか20名だけが、都道府県の代表として甲子園にたどり着く。
プロへの狭い門を通過できるのは、さらに限定される。
高校野球からプロの舞台に辿り着けるのは、5人から6人くらいと言われている。
ヨーロッパで本物の芸術と、はるかな高みに到達した作品を目の当たりに
見てきた似顔絵師は、(そろそろ俺も、本気で家業を継ぐ、決意を固める時期かな、)
と傷心の気持ちを抱えて、佳つ乃(かつの)の居る京都へたどり着いた。
「寒くなってきましたなぁ」と佳つ乃(かつの)が、浴衣の襟を合わせる。
「路上の似顔絵師もええと思いますが、野良で描く似顔絵もまた、
素敵やと思います。
日本にただひとり。畑で絵を描く似顔絵師が居てもいいと、ウチは思います。
なんならウチが、京舞を野良着で舞ってモデルになって見せますぇ~」
ウフフと笑った佳つ乃(かつの)が、
「お部屋のほうへ戻りましょう、窓際では、そのうち風邪をひきますなぁ」
と似顔絵師を急き立てる。
第120話につづく
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