落合順平 作品集

現代小説の部屋。

居酒屋日記・オムニバス (76)       第六話 子育て呑龍(どんりゅう)⑦

2016-05-25 09:35:08 | 現代小説
居酒屋日記・オムニバス (76)
      第六話 子育て呑龍(どんりゅう)⑦




 サクラの標準木を見に行った夜から、一週間が経った。
定休日。夕方からふらりと呑みに出かけた幸作が、深夜の午前1時。
北工場の近くにある終夜食堂へ顔を出した。
ここで働いているシンママの、真理子の顔を見るためだ。
幸作が「よお」と声をかける。
予期していなかった幸作の登場に、「あらっ!」と真理子から満面の笑顔が返ってくる。



 自動車工場のおおくが、24時間、不眠不休で稼働している。
呑龍工場と呼ばれている富士重工の北工場も、例外ではない。
交代勤務を軸に、24時間、車を製造するラインは一瞬たりとも止まらない。
終夜食堂は、北工場の守衛門から東へおよそ300m。
本工や期間工、派遣社員からパートまで、あらゆる男たちが食事のためにやって来る。



 「あきれたぁ。もう、べろべろじゃないの。呑みすぎです。
 体壊しますよ。そんなに呑んだら。
 だいいち、自分が考えているほど、若くないのよ、あなたの身体は」



 「うるせえ。40を過ぎたおばさんに、歳のことを言われたくねぇ。
 とりあえずビール。飯は、あとから頼む」



 「まだ呑むの?。もう充分でしょ、完璧に酔っぱらっているもの」



 「客の注文は素直に聞け。
 最近のお前さんは、なにかと反抗的過ぎるぞ。」


 
 「御免なさい、悪かったわ。
 40を過ぎると、意味もなくなにかと反抗的になるのよ。忙しい女は
 あら・・・」



 真理子の眼が、あたらしく食堂へ入って来た男に向けられる。
(あらぁ・・・性懲りもなくまたやって来たわね。あいつときたら・・・)
ポツリと真理子の口から、不満が漏れる。
すこしだけ身がまえた雰囲気が、真理子の顔を横切っていく。



(んん、・・・性懲りもなくやって来たって?、ただ事じゃねな。
いま入って来た、あの男のことか・・・)
真理子の目線につられた幸作が、入って来たばかりの男の姿を振り返る。
どこにでもいそうな、ごく普通の男だ。



 氷のような微笑みを浮かべた真理子が、ツカツカと男のテーブルへ歩いて行く。
水の入ったコップを、ドンと男の前に乱暴に置く。



 「いらっしゃい。ご注文は?」


 「あ、あの・・・い、いつものしょうが焼き定食を・・・」



 「ライスは大盛り?、普通盛り?」


 「あ、いつもの、普通盛りでお願いします・・・」


 「少々、お待ちください」



 ツンときびすを返した真理子が、ツカツカと男のテーブルから離れていく。
そんな真理子に、幸作が声をかける。
「おい、真理子。ちょっと待て」
無視してそのまま厨房へ消えていこうとする真理子を、ふたたび幸作が呼び止める。
「なんだよ、いまの態度は。冷たすぎるだろう、いまのオーダーの取り方は。
何だよ、不満そうな顔をして、何か有んのか?」
下から真理子の不機嫌そのものの顔を、幸作が見上げる。



 「嫌いなのよ、あの男が。
 わたしにつきまとうストーカーなのよ、3年も前からの」



 「3年も前からの、お前さんのストーカー?。
 へぇぇ・・・おだやかじゃないな。初めて聞くホットな話題だ。
 ストーカーのくせに、お前さんの働く場へやって来るとは、いい根性をしているな。
 面白そうなストーカーだな。
 なにか事情がありそうだ。よし、俺が、ちょっと挨拶に行ってくる」



 「ちょっと!」驚いた真理子が、あわてて幸作を制止する。
立ち上がった幸作が、真理子の止めようとする手を、するりと抜ける。
そのまま男のテーブルに向かって、スタスタと歩く。
幸作の手にはビールの瓶と、2つのグラスが握られている。


 「兄さん。相席してもいいかい?」



ビールを片手に突然あらわれた幸作の姿に、男が思わず狼狽える。



 「相席と言われても・・・
 他にも席は、たくさん、空いているようですが・・・」


 
 「兄ちゃん。念のために言っておく。
 断らないほうが、身のためだ。
 あそこにいる真理子は俺の、知り合いだ。
 悪いことは言わん。素直に相席したほうが、お前さんのためだ。
 断ってみろ。2度とこの店に、顔を出せなくなるぞ」



 「は・・・はい」


 観念した男がどうぞと手で、座ってくださいと幸作に合図をおくる。


(77)へつづく


新田さらだ館は、こちら

居酒屋日記・オムニバス (75)       第六話 子育て呑龍(どんりゅう)⑥ 

2016-05-24 10:17:52 | 現代小説
居酒屋日記・オムニバス (75)
      第六話 子育て呑龍(どんりゅう)⑥ 


 
 「ねぇ。私さぁ、ここへ帰って来た5年前から
 じつは、八瀬川をきれいにする会の会員なっていたのよ。
 知らなかったでしょう。うふふ」



 真理子が、目を細めて笑う。
大光院の西を流れている八瀬川をきれいにする会の会員は、およそ40人。
4月から11月までの第2日曜日。
朝早くから集まって来た会員たちが、川の清掃にひたすら汗を流す。
発足以来もう、30年以上続いている恒例のイベントだ。



 「昔はねぇ。なんと、川のよどみに、ウナギやナマズが居たそうです」



 5年ほど前。
八瀬川の流れに、かつての潤いを取り戻そうと、会員たちがニシキゴイを放流した。
しかし、3年前の夏。太田を襲った集中豪雨が、せっかく放流した
ニシキゴイを、押し流されてしまった。
会員たちは、突然の出来事におおいに落胆をみせた。
だが、自然はダイナミックだ。



 流失したはずのニシキゴイが翌年の春、水面によみがえった。
川岸に産みつけられたニシキゴイのたまごが、つぎつぎ孵化をしたからだ。
小さな魚体が、もともとから住んでいた野生の鯉に混じり、スイスイと
サクラの下を元気よく泳ぎ回るようになった。



 この川はかつて、大きな蛇行を繰り返して、市の中心部を流れていた。
八つの瀬が存在したことから、八瀬川の名前がついた。
蛇行が激しいため、強い雨が降るたびに川が氾濫した。
昭和の初め。いまの流れに改善された。
その結果、蛇行は無くなり、いまのような直線になったという。



 川沿いの900メートルに、サクラが植えられた。
市民たちの手で植えられた桜の数は、ぜんぶで300本。
改修のシンボルとして、いまも、大切に受け継がれている。



 「標準木を見に行こうか」



 突然。真理子が顔をあげる。
今日は3月15日。花が咲くのはまだ早すぎる。
矢瀬川の300本の桜の中に、太田市の標準木が有る。
「そうだな・・・」特に断る理由も見当たらない。
片付けを途中でやめた幸作が、真理子の背中を押して外へ出る。



 11時を過ぎた裏通りの路地に、人の気配はまったくない。
幸作の店から路地道を伝い、桜並木の有る八瀬川までは、10分あまり。
歩き始めた真理子が5、6歩歩いたところで、ブルッと、小さく肩を震わせた。
数日とどまっていたポカポカの陽気が、いつの間にか関東から立ち去っている。
冬の寒さを取り戻した夜気が、深夜の路地を支配している。



 さらに、荒れてきそうな予感が、夜気の中にひそんでいる。
南岸に発生した低気圧が太平洋の沿岸に沿って、北へすすんでいるからだ。
発達をした場合。沿岸をすすむ低気圧は、春の突然の嵐を呼ぶ。



 「咲いてるのかな・・・こんな、寒空だというのに・・・」



 「去年、さいしょに確認したのは、たしか3月18日。
 その前の年は、3月20日に咲いていました。
 桜の開花は、年々、早くなっています」



 「へぇぇ・・驚いたなぁ。
 毎年確認しているのか、お前は。桜の開花を」



 「つぼみが膨らんできて、ぷっくと、サクラの花びらが開くとき。
 ああ・・・今年もまた、春が来たと実感するの。
 わたしはねぇ。一日に何度も八瀬川の桜並木を通って、仕事へ行くのよ。
 いやでも、サクラの木と顔なじみになります」



 「そうだな。
 朝早くから深夜まで、日に何度も桜の下を往復するのは、お前さんくらいだ。
 それで、八瀬川をきれいにする会に入ったのか、お前は?」


 
 「わたしの母と父が愛し、毎年ながめてきた、この桜の並木路。
 父も母も、八瀬川をきれいにする会の会員でした。
 この美しい風景をわたしも、わたしの娘たちに残してあげたいの。
 そう考えれば月に一度の清掃活動くらい、ちっとも苦じゃありません」



 そうだよな。この川はそんな風にして、市民たちの力で守られてきたんだ・・・
幸作が、黒々と流れていく八瀬川の水面を覗き込む。
50センチほどの水深を保ち、10mほどの川幅いっぱいに流れていくこの水は
5月になると、田植えにも使われる。
そんな清流が、音も立てずとうとうと、2人の目の前を流れていく。



(76)へつづく


新田さらだ館は、こちら

居酒屋日記・オムニバス (74)       第六話 子育て呑龍(どんりゅう)⑤

2016-05-23 09:58:05 | 現代小説
居酒屋日記・オムニバス (74)
      第六話 子育て呑龍(どんりゅう)⑤



 土地はざっと100万平方メートル。建物だけでも20万平方メートル。
大きさは東京ドームに換算して、およそ20個分。
3,000人を収容する劇場まで付いている。
それが、昭和15年に完成した大泉町にある中島飛行機、小泉製作所だ。


 太田製作所に、45000人。小泉製作所には、55000人。
大戦中。1300mの滑走路を持つ太田飛行場を真ん中に挟み、北と南に
2つの軍需工場が、群馬の東部に出現した。
そのために急きょ。工場で働くひとたちのための住宅が必要になった。
太田市と大泉町の内外に、27棟の寮が建設された。
敗戦の日まで、この2つの巨大工場は昼夜を通して、戦闘機の機体を製作した。



 敗戦後。中島飛行機はJHQにより、12の会社に解体された。
小泉製作所には米軍が駐留して、キャンプドールと呼ばれる基地になる。
米軍の駐留は、敗戦直後の9月からはじまり、昭和32年に終わる。



 返還された巨大な工場の跡地と飛行場を、国は、自衛隊施設へ転用しよう目論む。
しかし大泉町は、工場誘致を最優先する。
政府に対して一歩もひかず、町民ぐるみで反対運動を立ち上げる。
返還が完了した昭和34年。大泉町は、民間企業の三洋電機の誘致に成功する。
創業者の井植敏氏は、初めて工場の跡地を見たときのことを、のちに
「とにかく広い。どこまでが敷地か見当もつかない」と語っている。



 三洋電機が大泉町へやってきた。当初の従業員数は、400人。
生産の増加とともに、やがて1万5000人規模まで増えていく。
その大半が、白物家電の組み立てラインで働らいている女子工員たちだ。
完備された寮が、全国から、中学を卒業したばかりの女の子たちを受け入れた。
会社には、夜間、高校へ通えるコースがいくつも有った。
働きながら、ちかい将来、看護婦や保母さんになるための勉強が出来た。



 真理子の母、美千代は、農家の3女として生まれた。
働きながら、保母になるための勉強が出来ることを知り、三洋電機へ就職した。
大泉町へやって来た美千代は、昼間は洗濯機のラインで働いた。
夜になると、保母になるための学校へ通った。
夜間高校は4年。しかし夜学を出ただけでは、保母になれない。



 さらに短大の夜学部に通っていたころ。
美千代が菊祭りがおこなわれていた大光院で、父になる人物と運命的に出会う。
出会ったのは、青森から富士重工へ働きに来ていた農家の次男坊。
期間工として太田へ来ていた、父の徳安だ。



 1980年代。農閑期の出稼ぎ者たちのことを、期間工や季節工と呼んでいた。
期間工は、主に部品の組み立てなどの流れ作業を担う。
作業は、苦痛なほど単調だ。
職人的な技術を要求されることは、決してない。
しかし。素人の割に手取り賃金や、居住用の部屋が提供されるなど、待遇はかなり良い。
契約期間を満了すれば、満了金のほか帰りの旅費まで支給された。
秋田や青森、岩手などの雪深い地方からの出稼ぎ者が多かった。



 20歳になったばかりの母・美千代と、22歳になった父の徳安の出会いは
かなり鮮烈なものだったらしい。その日のうちに2人は、恋に落ちたようだ。
関東菊花展は、毎年行われる大光院のイベントだ。
境内の参道を取り囲むようにたくさんの菊が、ところ狭しと展示されている。



 「そのときのことを父は日記に、こんな風に書き残しています。
 大輪の菊よりも、はるかに美しい女性を、わたしは生まれて初めて見つけた!
 晴天の霹靂。私には、この女性しかいない・・・
 と、踊るような文字が日記に、つづられていたそうです」



 「すごいねぇ。ホントに鮮烈だ・・・
 なるほど。たしかに君は、呑龍様の申し子ということになるね」


 「うふふ。それだけじゃありません。
 私の名前の真理子も、大光院がつけてくれたの」



 「それなら俺も同じだ。
 名前の候補を3つ出して、そのうちのひとつを選ばせる、というやつだろう。
 俺の名前も、君と同じように大光院でつけられた。
 幸せを作る。これがいいだろうということで、オヤジが幸作を選んだ」



(75)へつづく


新田さらだ館は、こちら

居酒屋日記・オムニバス (73)       第六話 子育て呑龍(どんりゅう)④ 

2016-05-22 10:16:45 | 現代小説
居酒屋日記・オムニバス (73)
      第六話 子育て呑龍(どんりゅう)④ 




 「とりあえず、ビール」


 ウフフとカウンターに肘をつき、真理子が笑う。
弁当を買った数日後。ふらりと真理子が幸作の居酒屋へやってきた。
時刻は午後の10時。いつもの真理子ならあわただしく自宅へ戻り、いまごろは
家事に追われているはずだ。
だが今夜にかぎり、呑気そうな顔で頬杖を突いている。


 「実はね、子供たちから、外出許可をもらってきたの。
 だってさ。大きな声では言いたくないけど、41回目の誕生日なのよ。
 たまにはゆっくりしてきてねって、娘たちに背中を押されて出てきました」



 「ほう、誕生日か。じゃ、おれがお祝いに、いっぱいおごってやろう」


 「一杯だけ?。なんだか盛り上りにかけるわね・・・まぁ、いいか。
 でもさ、あとで身体で返せなんて言わないでしょうね?」



 「馬鹿やろう」 思わず幸作が、苦笑する。
真理子が居酒屋へ顔を見せるのは、久しぶりのことだ。
シンママの真理子は、昼間はフランチャイズの弁当店で働き、夜は
終夜営業の食堂で忙しく働いている。
昼間の仕事と深夜の仕事の合間に、溜まった家事を片付ける。
シングルママの真理子に、自由になる時間などほとんどない。


 幸作が冷蔵庫から、冷えたビールを取り出す。
真理子の好みはホップの効いた、昔ながらの苦い瓶ビールだ。



 「ひとつ聞いてもいいか。
 身寄りの少ない太田へ、わざわざ戻ってきたのは何故だ。
 富山にそのまま残り、子育てをするという選択肢もあったはずだ。
 本音を聞きたいと思っていたが、いままで、聞くチャンスがなかった。
 教えてくれ。なんで太田へ戻って来た?」



 「何でかな・・・」なみなみと注がれたグラスを持ち上げて、
真理子が美味そうにビール―を飲み干していく。
あっという間にビールのグラスが空になる。いつもながらの見事な呑みっぷりだ。


 「昔の話をしてもいい?」



 呑んだ直後から真理子は少しずつ、可愛い表情を見せるようになる。
すぐに頬が赤くなる。少しずつ、上機嫌の顔に変っていく。
いつもとすこしだけ、話し方も違ってくる。
早口の真理子が、だんだんゆっくりした話し方に変っていく。


 「呑龍さまが帰っておいでって、わたしのことを呼んだの」



 「子育て呑龍が帰っておいでと、お前さんを呼んだ?。
 馬鹿言うんじゃないよ。お寺が、お前さんなんかを呼ぶわけがないだろう。
 富山と群馬じゃ300キロ以上も離れているんだぜ。
 変なことを言うなよ。
 なんだよ。柄にもなく、もう酔っぱらっちまったのか?」



 「そうじゃないの。
 母も、父も、呑龍さまに呼ばれて、この太田へ戻って来た。
 父は期間工として、青森から富士重工へやって来た。
 母は保母さんになりたくて、秋田から東京三洋電気へ15歳で就職した。
 そんな2人が初めて出会ったのが、毎年、呑龍様の境内で開かれている、
 関東の菊祭り」



 「へぇぇ・・・君の両親は2人とも東北地方の出身か。
 なるほど。どうりで身寄りが少ないはずだ。
 毎年開かれている関東菊花大会のことだろう。
 ふぅ~ん。そこで君の両親が、ばったり、運命の出会いをしたのか?」



 「いつものデートも、呑龍様の裏手の金山あたり。
 大光院の境内と門前通りには、母と父の、若い日の足跡がたくさん残っているの。
 2人が住んだのは、呑龍様のすぐ横。
 桜で有名な八瀬川の通り。
 川の両岸にソメイヨシノが、300本も植えられているの。
 川岸にある小さなアパートの一室で、41年前、わたしが生まれたの」



 「なるほど・・・
 そこまで聞くとたしかに、呑龍が、君を呼び戻したかもしれないな・・・」


(74)へつづく


新田さらだ館は、こちら

居酒屋日記・オムニバス (72)       第六話 子育て呑龍(どんりゅう)③

2016-05-21 09:21:38 | 現代小説
居酒屋日記・オムニバス (72)
      第六話 子育て呑龍(どんりゅう)③




 真理子は金山から見下ろす、太田の町の景色が大好きだ。


 太田は江戸時代の初期、新田集落型のひとつとして誕生した。
荒地や水面などを開拓し、計画的につくられた農業集落のことを新田集落と呼ぶ。
大光院(通称 呑竜様)の門前町としても知られたが、明治の頃までは
商農兼業の、どこにでもあるような田舎町だった。



 名所といえば、子育て呑竜くらい。
強いてあげれば金山の頂上につくられた、新田氏の金山城。
明治42年(1902年)。東武鉄道の足利・太田間の延長工事が完成する。
東京と直結したことで、太田は東京人の格好のピクニック地となる。



 これに目をつけたのが、東武鉄道創始者の根津嘉一郎。
呑龍様の隣りに、農産物の博物館を立てた。
博物館形式に地元の農産物を揃えて、新名所にしようという目論みだ。
いまでいう道の駅のようなものだ。
建てられたのは、二階建て一部三階(約百坪)のしゃれた博物館。
田舎ではちょっと見られない、雰囲気の洋館だ。


 
 洋館の前には、大きな瓢箪型の蓮池があった。
太鼓橋が架かっていたという。
夜になると洋館の明かりが池に映り、なかなかの風情をかもし出した。
だが根津氏の目論見は、見事にはずれる。
呑竜様へやって来た人たちは、博物館へ寄らず、そのまま帰ってしまう。
根津はせっかく建てた洋館を、あっさり町へ寄付してしまう。



 遺構のような洋館に目をつけたのが、中島飛行機の創業者、知久平氏だ。
町から洋館を借り受けた知久平氏は、一階を事務所として使い、
2階を設計室として活用した。
小さな研究所を拠点に、やがて中島飛行機の大飛躍がはじまっていく。
1917年(大正6年)のはじめのことだ。



 大戦中。中島飛行機の工場が、市街地のあちこちに作られた
中でも最大の規模をほこった太田製作所には、鉄道の引込線まで存在した。
南門から1,000mほど南の飛行場まで、完成した機体がその翼を広げたまま
搬送できる、専用の道路もつくられた。
ピーク時、従業員数は、45,000人をこえた。
戦争の激化とともにおおくの熟練工が軍事召集され、素人の徴用工が
不慣れな中で、数多くの機体を作り上げていった。



 太田製作所を狙った米軍の空襲は、3度。
最初の空襲は、昭和20年2月10日の夕刻。
B29爆撃機84機から170トンの爆弾と焼夷弾が工場めがけて投下された。
通常爆弾97発が工場に命中し、生産途中にあったキ84(疾風)74機が破壊された。
しかし、従業員たちは避難していて、人的被害は出なかったという。


 2月16日。朝から終日にわたる波状攻撃がおこなわれる。
このときは、多数の死傷者が出る。
さらに2月25日、3回目の空襲がやって来た。
爆弾182トン、焼夷弾45トンが投下されて、工場があとかたもなく
徹底的に破壊されてしまう。




・・・・



 工場の消失から、あれから70年。
知久平氏が使っていた建物は、いまも残っている。
SUBARUの富士テクノサービス株式会社の敷地内に、物置として残っている。
空襲を受け、燃え尽きた工場から数百メートルの距離に、子育て呑龍は建っている。
寺が残り、知久平氏の執務室が残ったのは、米軍の戦略だという。
工場は徹底的に破壊するが、企業の本部や心臓部は残す。
占領支配のため、企業の本部や心臓部は残しておいたほうが利用しやすいからだ。



 それを裏付けるように、東洋一の大工場と呼ばれた隣接の小泉製作所も
工場は消失したが、本部棟は被災をまぬがれている。
そんな歴史をもつ太田市だが、真理子は、高台から見下ろす町の景色が
無条件に大好きだ。



 子育て呑龍の青い屋根は、松に囲まれている。
アカマツの梢越しに、知久平氏が働いた執務室の屋根が見える。
工場のジュラルミンの屋根が、夏の日差しを受けて、にぶく銀色に輝いている。
その先に、大光院(呑龍さま)の、屋並みの低い門前町がひろがっていく。
高架が完成したばかりの東武線の向こうにも、太田市の市街地が、
どこまでも低くひろがっていく。



 10キロ先を流れている利根川を越えれば、そこから先は埼玉県。
真冬の強い風が吹いた翌日。金山の山頂からは、キラリと光るスカイツリーと
秩父連山のかなたに、雪をいだいた富士山を見ることができる。
そんな景色を見るたびに、真理子はこれまで味わってきたすべてのモヤモヤを、
きれいさっぱり忘れてしまう・・・



(73)へつづく


新田さらだ館は、こちら