ささかのブログ

雑多な思考整理のためにブログを活用中。
自分が生きやすくなればいいと思うけれど、教祖になるつもりはない。

情報の伝え方

2021-04-04 23:34:27 | Culture
人が考えている内容が100とする。

それを言葉にする時点で情報は10分の1になる。

話した相手が理解するのにさらに10分の1になる。

実際に伝わる内容は100分の1程度だと考える。


これは全く情報を共有していない状態でのことで、ある程度一緒に過ごしていると、1を伝えて100を理解することもあると思う。


そんなわけで、

「さっき言ったでしょ!なんでやってないの!」

とか怒るシーンも見かけるのだけど、100分の1しか伝わっていない情報で、行動にまで移せるなんて思わないことですよ。


意外と大人社会にもそんなことはあって。

自分が怒っている理由は相手に伝わっているはず。

なんて思っていても、大抵の場合伝わっていない。


伝えにくいことかもしれないけれど、伝えない限りやっぱり伝わらないので、伝える必要がある。


伝える方法は考えないといけなかったりするわけですが。


ただプンプンしたりイライラしたりしているだけではやっぱり伝わらない。


実際の現場にいてそう思うわけですよ。

自分を含めて。


感情に任せてそれをぶつけるのは、やはりナンセンスで。

そのあたりで、教育理論は役に立つ。


相手が気づくように仕向ける。


別に多くをイチから伝える必要はないわけで。

思考を誘導するように、伝える。

あたかも自分で考えて気付いたように情報を誘導する。

情報を整理するだけでも随分違う。

そういった意味で、傾聴やカウンセリングの技法は役に立つ。

自分のプライドとか、とりあえず置いておく。


相手がヘタに肩書があって、得意満面になるとものすごく厄介で、使役し続けようとするとする人の場合、自分はただ言うことを聞くだけのイエスマンではないことも示しておく必要はありますが。


そういった意味で、文章で物事は伝わらないと思っている。

私のこの文章も、自分の思考が完全に伝わらない前提で書いてはいる。

これは自分の思考を整理するために書いているのでね。


Twitterも本来の意味は伝わらないメディアだと思っている。

バズる内容というのは、多くの人が限られた情報を共有できる状態のときに成り立っていると考える。

140文字の制限は、SMSの文字制限が起源との事だけど、140文字でさえ、読まない人は読まない。

でも画像をつけると一気にイメージが伝わる。

そういった意味で、漫画というのは非常に優れた情報伝達ツールだと考えている。

学校での教材に、漫画を使わないのは、どちらかといえばナンセンスだ。


映像なんかはものすごく情報が伝わるメディアですね。

映画の初期の無声映画でもそれなりの情報が伝わるけれど、やっぱりトーキー映画(音声込みの映画)のほうが内容は伝わりやすい。

その映像が白黒からカラーになり、解像度も高くなり、音声もモノラルからサラウンドになったりすれば、臨場感が伝わってくる。

それでも3D映画がいいかというとそうではなく、実際に見る日常生活の3次元画像とはやっぱり微妙に違うので、酔いやすい。


あんまり情報が過多になっても伝わらないんですよ。


日本には短歌や川柳があって。

中国には漢詩もあるけれど。

限られた情報で多くを伝えることもできる。


人にモノを教えるってそういうことだと思ってはいる。


全く怒らないというのは、生き物なのでやらないほうがいいと思っている。

怒ることは防御反応のひとつなので、必要なときに怒ることは必要だと思う。

それでも感情的になっても伝えたい内容は伝わらないし、破局を招いたり、無駄な萎縮ももたらすし、何より疲れるので避けたいところ。


そのあたりを教える方法は結構あるんですよ。

教育課程や教育理論なんか代表的ですね。


そんなことをですね、改めて必要だなと感じている昨今ですよ。


こんなことをつらつら書いていると、メンヘラ状態であると思われてもしょうがないとは思っている。

逆に言えば、何にも考えずに生きている人なんてそうそういないわけで。

その思考内容が浅いのか深いのか、近いのか遠いのか、多くを知っているのか知らないのか、間違った情報が多いのか少ないのか。

それぞれ差はあっても、何らかのことは考えてはいるのですよ。


それでも何にも考えずに短絡的に行動をおこしたり、欲求に忠実になるのも生き物ですからね。

ただそのような状態を全く想定していないのも、いざという時に対応できないので、予めシミュレーションしておく必要もあるのですよ。

喋れる内容とか時間も限られているわけで。

そのためのブログですよね。
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しょうがいがくしゅう

2021-04-04 10:37:09 | Culture
子供を育てたことはないわけですが。

教員免許や介護職員初任者研修やらの勉強はしているわけです。

扱う年齢は違うけれど、基本は変わらないわけです。


高校の時、首席になった上、作り出すモノを教科の手本にしたり、新しいカリキュラムのテストケースとしてトライするなどの破格な成果を出した結果、教員室で一緒に談笑して、取り上げて置いてあった漫画を読んで、
「これ面白いですね」
なんてやっていた。


教師も生徒も関係ないんですよ。本来。


そんなわけで、自分はずっと生徒であり子供なんですが、教師であり大人であるという「役割」も必要なわけです。


それはあくまで役割なんですが。


肩書なんて鬱陶しいのでいらないという立場なのだけど、あったほうが楽だと思うときもある。

それもまた役割なので、一生ずっとそれではないわけですが。

例えば、「部長」だったとしても、死ぬまで部長ではない。

ただ部長としていた時だけ部下だった人にとっては、死ぬまで部長なわけですが。

同様に、「親」も、子供にとっては親の役割をしなければならないけれど、親は親でそれ以外の場所では「部下」であったり、「上司」であったり、「先輩」であったり、「後輩」であったり、「生徒」であったり、「先生」であったりする。

親も子供だし。

時と場所によって変わる役割より、絶対的な人間としての価値のほうが重要ですが。

そんなこと関係なく、肩書のほうが重要な人や、そういった組織はたくさんあるんですよ。

大嫌いなんですけれどね。
それでイキっている人。


いやそれでもめんどくさいことに、親や先生の役割をしないといけないときもあるわけで。

ものすごく年上の人や、肩書の上の人に対しても。

面倒だけどやるしかないのかな。


基本は発達心理学やら教育論やらを紐解くことは、大人に対しても子供に対しても役には立つのですよ。
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