プロフェッショナル。プロ。
「プロだからできる」
「プロ監修」
「プロによる指導」
という広告の煽り文句を見ると、「どういうプロ?」と疑念を抱くぐらいには社会に擦れてしまっています。
「収入を得るために特定の分野に従事している人」
という定義がありますね。
コンビニ店員で、レジでずっと自分のスマホをいじってゲームをしている人も、「プロ」なんです。
接客のプロ。収入を得るために接客しているわけですから。
専門教育を受けなくても、ある職業を数年続ければ、誰でも熟練していきます。
長期間毎日同じ仕事を続ければ、その分野に精通していきます。
人それぞれに成長の度合いや、その分野の中での得意分野は変わってきますが、そういう意味では、熟練者になっていきます。
もちろん、特定の分野とはいえ、基礎知識があれば現象をモデル化して考えられるので、理解や解決や習熟が早くなります。
そこから先、業務能力をさらに突き詰めるか、人を管理するかなどで、マネジメントに向かうかなどの変化があります。
業務能力がないのに、マネジメントをやる人というのがいて、これが個人的には使えない。
確かに別の観点がある。
経営視点であれば、経理業務がわからなければ収益を出せない。
局所の問題に集中注力するのではなく、組織全体の目的や目標や見通しをもとに、それをするかしないかの判断を行う必要があり。巨視的な戦略や作戦が必要になる。
ただし、局所の問題を全く理解できないのでは、まともな判断もできないのです。
「全く理解できない」のレベルが落ちています。特に日本が得意だったものづくり分野で。
現場が海外に行ってしまい、当たり前に知らなければならない現場の常識を知らずに開発をする。それが当たり前になっている。
高圧電気配線を切り替えるためには、主電源ブレーカーを落とさなくてはならない。
そうすると他の機器も停止する。
高圧電線で作業している人は、通電しながら作業しているんだからできるだろう?
現場を知らない人はこう判断するのだけれど、では自分でやってみろと言いたくなる。
電気安全の基礎は、まず無通電状態で正しい配線を行って、それを確認してから通電する。
そうしないと、確実な配線を保証できないし、感電や漏電などの危険事象を防げない。
高圧電線工事は、それらの安全対策や技能をしっかりと作り込んで行っている。
電気工事士ぐらい勉強しなさいとなる。
結局のところ資格というのは、これらの基本知識を身につけるためにある。
高度専門教育を受けた際に、これら資格の一部試験が免除されるのは、すでに基本知識を得ているから。
実務経験年数が資格条件に入っている資格は、熟練のさらに熟練を認定するためにある。
西欧のギルドは、熟練工が未熟錬工に教育したり、職業斡旋したり、賃金引き上げ、賃金体系の決定などを行っていた。
日本が厚生労働省で担っている業務を、ギルドで行っていた。
それが現在の労働組合となっている。
つまり、「プロ」や資格などの肩書だけでなく、その人の能力はしっかりと見極める必要がある。
それは知名度だけではわからない。
話がうまいのは能力の一つではあるが、技能が伴っているかはまた別の話ではある。
話がうまく、要点を得た説明は、たしかに価値があるのだけど。
大きなくくりで言えば、文系の考え方か、理系の考え方かということにもなるのだろうな。
両方できないと、なかなか認められない。