他人の失敗の責任までは取れないよなぁ。
それは自分でなんとかしてくださいよ。
それでも他人の失敗であったとしても面倒を見るのは、他人ではないときなど。
どこまで身内であるかも重要な判断。
全く他人の失敗すべての責任を取ろうと思ったら、予算も時間も全てが足りない。
全く他人で責務がないからこそ助けられるということもある。
今日はなんだか変な一日だった。
正確には昨晩からおかしな感じではあった。
路上に停車している消防車。
交差点の停止線でボンネットを開けて停車。
バッテリーが上がっていたのか、運転手らしき人がブースターケーブルを取り出してきていた。
細い道であるため、当然、長い渋滞が発生。
今日は久しぶりに街宣車を見た。
普通乗用車を改造したものだけど、やはり交差点手前で不自然に停車。
渋滞を引き起こす。
用事の帰りがけ、眼の前を走る車が危険な運転をしまくる。
側道に入ろうとして直前で方向を変え、分離帯にぶつかりそうになる。
大きな道路にでたら、前の車が無理な車線変更を繰り返す。
打ち合わせの約束をしていたが、すっぽかされる。
大体が車絡みだったけれど、他人の失敗に巻き込まれたくないなぁと思った一日だった。
なぜか道が渋滞していたけれど、スケジュールは守れるように余裕を持って行動していたため問題がなかった。
こちらが十分な対策をしていたとしても、他人が起こした事故に巻き込まれることがある。
別にスマートにやりたいとか、そういうことではなく、単純に失敗による時間的経済的信用上の損失損害を防ぐための対応を行っているのだけれど、やっかみをする人も出てくる。
人類の文明による知恵とか勉強は、失敗を限りなく少なくするために進化したと考えている。
知恵や知識は生き残る確率を上げる道具。
とはいえ、万能ではないし万全でもないから失敗する。
その失敗をたくさん許容できるから人はお金を欲しがるけれど、そもそも所持金は有限だのだから、失敗そのものを少なくしたほうがお金は少なく済む。
そして、かけたコスト以上の成果を出すのが仕事の根本のはず。
仕事が学校の延長で、仕事で失敗コストばかりを増やす人間が多いのも事実なのだよな。
そして失敗をうまく片付けてくれる人を、うまく使いたいという要求もある。
疲れるし、疲れているからネガティブ思考にもなるので、早めに休んでいたけれど、思考が回ってしまうのでブログ化した。