Sengoku1985

何故、私は鉄道を撮り続けるのか?

去りゆく者#3

2011-05-31 | 鉄道写真

 名鉄瀬戸線を語るには欠かせないのが、6750系である。6750系は、昭和62年製1次車2連2本に続き、平成2年に2次車4連5本が整備された。写真は、2次車の中で最後まで生き残った6756F6656の、昨年3月の姿である。2次車になってから低運転台に戻ったのは何故だろうか。このスタイルが、最後まで好きにはなれなかった。

 6600系が2連で製造されたのも、6750系1次車が2連で製造されたのも、全て喜多山検車区での検車の都合である。喜多山検車区はお堀電車時代からの工場で狭く、2連の整備用に出来ており、4連では一度に検車が出来ないため、6750系2次車には特殊装備が設けられていた。それが中間運転台である。6656の相方6786には、写真のような中間運転台が設けられていた。

 中間運転台とはいえ、機器は種車のものがそのまま流用され、前照灯があれば運転可能な装備であった。写真は6786の運転室の内部の様子である。

 その反対側、6686には運転室はなかったが、運転機器は装備され、写真のとおりケースの中に収められていた。通常は使用せず、検車時にここで分割し、入換を行ったのであろう。

 主要都市圏最後の吊掛電車、6750系、その2次車ならではの特殊装備をお届けした。 この後、4000系の充足により、6750系は平日朝ラッシュ時以外には見られない、とまでいわれる状況になり、その後何度瀬戸線に足を運んでも空振りが続いた。このままお別れ会も無しに引退かと、少し残念に思ったものである。

 しかし、それは事実と違った。それを、次回お送りしたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

去りゆく者#2

2011-05-30 | 鉄道写真

 名鉄瀬戸線の古い車輌たちが去っていくのは、全てこのため、新形式4000系が登場するからである。平成20年8月に、瀬戸線栄町乗り入れ30周年記念イベントで一般公開された4000系トップナンバー、4001である。このころは、「いよいよ吊掛も終焉か、」程度に思っていたので、あまり事を重大に思っていなかった。

 4000系の、撮影会での位置。4101が先頭になっている。

 当日朝、栄町乗り入れ30周年記念イベントとして、ポケモンの着ぐるみが登場するセレモニーが行われた。それに合わせた列車のポケモンラッピング車、6235始め4連(6035F)である。

 同イベントでの主役、「栄町乗り入れ30周年」記念ヘッドマークを掲げる、6601F+6604Fの4連である。勿論セレモニーの時も撮ったが、ノイズが多いので、何も入らない喜多山での写真を掲載する。

 これで、いよいよ吊り掛けも最後だと、瀬戸線行脚が始まった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

去りゆく者#1

2011-05-29 | 鉄道写真

 名鉄6000系に、遂に廃車が発生した。瀬戸線に配属される6032F、写真の編成である。先日は同様のデザインである7100系の悪口を言い、諸兄からのお叱りを受けたが、「やはり」と思う反面、「まだ早いのでは」という思いもある。もっと古い昭和50年代製の初期の6000系が未だ本線を走るのに、それよりも新しい6032Fを解体とは、疑問を感じた。

 直接の原因は、現在続々増備中の4000系、写真手前の4007Fが落成し入線したからである。6750系が全廃された現在、次はどれを廃車するか、興味もあり、不安も感じていた。6000系の瀬戸線バージョン6600系か、それとも6000系か、もうどちらかしかないのである。手狭な喜多山検車区に代わる尾張旭検車区も完成し、新車4000系を整備する環境も整っている。最終的には4000系で統一するとアナウンスされており、やはりとは思う反面、残念に感じる。しばらくは、瀬戸線の車輌について考えていきたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Gone With The Wind#5

2011-05-16 | 鉄道写真


 平成21年8月30日、それは忘れられない暑い日となった。この日は、7011Fの最終運用日、則ち名鉄パノラマカーの最終運用日であった。乗車を希望し抽選に申し込んだものの外れ、外からの記録となった。


 当日、午前中に仕事があった関係で、早く出ることができなかった。そのため、車に機材を積み込み出勤し、終わり次第直ちに出発。豊川市内のポイントに陣取ったが、既に同所には100人近くのファンが構えており、良い場所には構えることができなかった。


 そして、昼過ぎに、国府行きの7011Fが通過。直前まで子供が反対側で遊んでおり、駄目になるかと皆が心配していた。



 折り返し、国府から本宿まで戻る7011F。


 本宿駅ホームで、引退の式典があり、そのまま舞木検車場に入場したという。


 そして、パノラマカーは伝説となった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Gone With The Wind#4

2011-05-15 | 鉄道写真


 平成20年秋、パノラマカーは定期運用から離脱、全車解体の運命にあった。しかし、その中で、1編成だけ稼働可能な編成があった。それが、7011Fであった。


 同編成を利用して、沿線各地へ向かう臨時列車が設定され、それは行列すれば乗車可能であった。駅施設及び配線の関係から、それらは豊明、あるいは大同町を起点としていた。


 そんな中の一列車、豊川稲荷行き「特急いなり」が運転され、それに乗車した。豊明駅で行列してくじを引き、くじの順番で席を決めることができ、私は最後の先頭車窓側を占めることができた。


 豊明出発、豊川稲荷および矢作橋での停車、何れでも写真を撮ったが良い物がないので、最後の豊明での撮影会から写真を出した。特急用の方向幕に白帯が復活し、特急運用に就いていた時代を彷彿とさせた。



 パノラマカーの最大の特徴、前面展望席である。この部分に4席×4列が並んでいた。



 3列目及び4列目の屋根は低く、この部分に運転席が載っている。中央にナンバーが書かれ、この部分がドアになっているが、ここも運転席の出入口の一つになっている。しかし、通常は側面の階段から出入りをするのが、小田急との違いである。


 そして、同編成も、運用を離脱する時がやってきた。その話は、また次回にしたいと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Gone With The Wind#3

2011-05-14 | 鉄道写真

 パノラマカー初期型で最もオリジナルに近い車輌は、7005Fであった。撮らねばならない、と思っていたものの、それは延び延びになっていた。写真は、そんな最中、平成20年早春にに上小田井で撮った、7005の姿である。見ての通り、M形電連が装備されておらず、スカートに切り欠きが無く、オリジナルに近い姿を保っていた。そういえば、中京競馬場にて保存される車輌7027及び7028も、同様であった。

 名鉄ファンにとって、東名古屋港は、重要な場所である。豊川の日本車輌で製造された新車が、JR笠寺から名古屋臨海鉄道を経由して、初めて名鉄線に入線する場所であり、また一方用途を終えた車輌が解体される場所でもあり、この駅の監視は、ファンにとっては大切なことである。東名古屋港に入る前には恐らく大江に入るであろうから、名鉄築港線は花道であり、葬送ルートでもある。

 平成20年7月に、同駅に行った。当然パノラマカーの解体で忙しかったわけであるが、そこでは先日まで元気な姿を見せていた7005が、解体されていた。車内にビニールが被せてあるのは、製造当時は問題視されなかったアスベストの、飛散防止のためである。

 幾ら名車だと叫んでも、解体されれば単なるスクラップである。もう少し保存する方策はなかったのかと、正直思う。名鉄経営陣の、パノラマカーに関する考え方が分かるような気がした。残念である。

 そして、平成20年秋、パノラマカーの定期運転は終了し、4輌を除き引退した。しかし、その4輌は、臨時列車として最後まで運転された。

 次回は、その「4輌」の活躍を見ていきたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Gone With The Wind#2

2011-05-14 | 鉄道写真

 そして、パノラマカー引退の報に接し、パノラマカー行脚が始まった。

 最初は7001始め4連(7001F)、上小田井を発車する姿である。昭和36年デビュー当初からのトップナンバー、最も注目される車輌であるが、M形電連が装備された関係で、オリジナルのスカートに切り欠きが出来てしまい、そこが残念である。なお、同車の先頭部は、当初のフェニックスマークから逆富士形行先表示器に変わり、その表示器も手動式から電動式に改められ、これが3代目になる。

 続いて、恐らく犬山であろう、7011始め4連(7011F)である。同じだ、と思ってしまうが、同編成は一時特急用白帯編成であった関係で、方向幕が特急用の電動表示器になっている(上部が緑色で、形が多少違う)。また、7700系同様に車内はグレードアップ転換クロスシートであった。平成20年の撮影であるが、この時にはまだ白帯は復活していなかった。この編成の今後の運命を、当時は知る由もなかった。

 再び7001に出くわしたので、乗車した。豊明行き普通の運用で、何度か撮影の機会があったのだが、結局終点の豊明で撮影した。既に、「ブルーリボン賞」のプレートは車内に残っていなかった。

 今回最後は、神宮前に入線する、7004始め6連(7003F)である。同編成はデビュー当初からの第2編成である。同編成もM形電連が装備されスカートに切り欠きがあるが、2008年春には6連であり、通常は他の編成とは連結しない運用であった。後に同編成は4連に戻され、7001F+7003Fの編成でお別れ運転を行ったという。

 すると、次回の予定が読めるであろう。以降は次回としたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Gone With The Wind#1

2011-05-13 | 鉄道写真

  名鉄の話をすれば必ず通るのが、”パノラマカー”である。映画「風と共に去りぬ」のヒロインは”スカーレット”であるが、そのスカーレットを身に纏い、茶や青の冴えない列車たちの中を颯爽と駆け抜けたのが、パノラマカーである。そのインパクトは、後に全ての名鉄の電車を赤く塗る程であった。

 当初は豊橋~岡崎~名古屋~岐阜間の名古屋本線特急専用であったことから行先表示を設けず”Phoenix”マークのみであったが、後に増備が進み、逆富士形の行先表示器を設置した。写真は原形に近い手動式行先表示器を備えた7044、名鉄金山駅での姿である。上は行先駅名、下は列車種別を表示し、本のように板を捲る方式で、後に駅名がない場合のために上に被せる板式の行先表示板も造られることとなった。

 なお、何も知らない関東の人が、「小田急の真似だ。」と言うが、小田急NSEは昭和38年、一方パノラマカーは昭和36年であり、こちらがオリジナルである。ただどちらも製造が同じ日本車輌であったことから、大きな問題にはならなかったのである。実はミュージックホーンまで同じである。

  その原形に近い姿を、中京競馬場で見ることが出来た。中京競馬場場内の広場に、パノラマカーを使用した軽食の売店が設置されていた。写真は南側の、7028である。

  中間の7092の向こうには、7027がある。この車輌には側面に階段が設けられ、2階運転席が見学できる構造になっていた。

 なお、中京競馬場はリニューアル工事に伴い、大半が2012年まで閉鎖されている関係で、現在この車輌を見学することは出来ない。

 第1話は、この位で終わりたいと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

偉大な兄を越えられなかった者たち

2011-05-12 | 鉄道写真

  名鉄趣味とは、つまるところパノラマカーを頂点とした、車輌たちの記録である。パノラマカーの話をすると長くなるので、先ずはその弟たちを見ていきたい。

 最初は、8800系”パノラマDX”である。昭和59年に7000系余剰車の足回りを利用して新製された車輌である。運転台の上に展望席を設けるという、この頃から流行りだしたスタイルであった。形式名の8800は、気動車特急「北アルプス」のキハ8000系、キハ8200系、キハ8500系より大きく、後続が1000番台となったこともあり、名鉄では最も大きな数字となっている。後に中間車を増結し3連になったものの、車内アコモが古くなったことから佐屋~吉良吉田間のみで使われ、最終的には1600系によって置き換えられ、引退した。デビュー当初は座席指定料金が520円(通常は350円)で、少し高く設定されていた。

 

  続いて、”パノラマSuper”1000系である。昭和63年、名鉄の新たな看板としてデビューした車輌である。平成3年には2連×2に分割し、一般車1200系4輌を増結した名古屋本線特急用の編成も登場、バブル期以降の名鉄の顔であった。

 しかし名鉄の特急政策の変更で、全車指定席特急を廃止することとしたため、1200系との貫通編成を除き、全車解体の上足回りを再用し通勤用車体を新製し、(新)5000系が落成した。早い車輌は平成20年中に解体、部品取りが行われた。

 そんな1000系には微妙な平成20年冬、最後の運用となった名古屋~内海間特急に乗車した。内海駅で出発を待つ、1107始め4連である。”パノラマDX”を洗練させたような、大型曲面ガラスの正面窓が特徴である。展望席は固定リクライニングシート、客室は回転リクライニングシートである。”パノラマDX”は、中間車以外は固定の非リクライニングシートであり、見劣りがしたものである。

 

  途中駅で行き違う、1101始め4連、初号編成である。左右ライトの間の愛称表示、通常は”パノラマSuper”と入る場所には、”パノラマSuper20年”と入っていた。部品は再利用されたとはいえ、車齢20年での解体は、遅いか、早いか。

 

  同編成の反対側、1001を正面に、大江駅構内にて停泊する姿である。障害物が多いが、ご容赦を。

 

  最後は、同じく”パノラマSuper”の一族である、1600系である。8800系を置き換えるべく3連で落成し、2000系ミュースカイ開発の現車実験も行われた車輌である。同系も特急政策の変更で、1輌を廃車し2200系30番台4連を増結、方転の上6連特急編成に改められた。組成変更前の1600系、1701始め3連、知立での撮影である。

 

  同編成の反対側は、1601である。1600形は全車解体、足回りは2200系30番台に再利用された。なお、組成変更に当たり、形式名が1600系から1700系に改められた。

 何れの車輌も、車輌としては出来は良いのだが、やはり余りにも偉大な”パノラマカー”という兄がいて、それを越えることは出来なかったのである。名鉄=”パノラマカー”であり、それに取って代わる程のイメージリーダーにはなれなかったのである。今では新たな”ミュースカイ”が頂点であり、実用面ではピカイチであるが、しかしデザインという面では、やはり”パノラマカー”の方が上である。だからこそ、いつかは「お別れ」を言わねばならなかったのである。

 ”パノラマカー”の話は、時間をかけて、じっくりとしたいと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブサイクな女性

2011-05-11 | 鉄道写真


  名鉄趣味が昂じるようになってから、三河線はよく通うようになった。そして仕事場が三河線から離れても、知立には足繁く通うようになった。


 三河線で乗務員の削減のため、駅ホームにセンサーを設置し、ワンマンで運転されるようになった。それに対応する車輌として、6000系初期型4連と、7700系2連が対応改造を施されたが、その中で一際ブサイクな車輌があった。7100系、1系列1編成2輌の、珍車中の珍車である。


 元々は7000系パノラマカーの中間車として製造された車輌であったが、同系は編成の拡縮が頻繁に行われた関係で、車齢の浅い余剰中間車が4輌発生してしまった。そこでその4輌で編成を組むこととなり、車番順に7101、7102、7103、7104と並べられ、先頭となる7101と7104に運転台を設置したのが始まりであった。外観は当時増備中だった6000系に準じているが、両開き2ドアで判別は容易であった。後にこの編成も2連に縮小され、その際に7102、7103は廃車され、7101-7104の編成となったものである。


 


  同様に三河線で運用された7700系、2階運転台では入線できない支線区間のパノラマカー、こちらも一部には4連があったものの、平成に入る頃には2連に統一され、白帯を纏い名古屋本線特急指定席車両用にグレードアップされた。しかし1000系及び1030系増備で一般用に戻り、ワンマン化で白帯も消された(7702-7701の編成、ワンマン化後の写真)。


 しかし双方とも7000系ベースの抵抗制御・非省エネ車輌、パノラマカーの後を追うようにして、引退イベントの後、引退した。私はパノラマカー引退で名鉄熱も半減しており、記録もしてあったので、正直引退イベントには興味が湧かなかった。別れ際だけ大騒ぎするのは、すこし嫌な気がする(死後の姿ばかり撮る私はそれ以下である、という気もするが)。


 たとえどんなにブサイクな車輌でも、綺麗に別れるのが礼儀である。普段から猫跨ぎをせず、突如迎えるかも知れない別れを意識して、記録をしていきたいものである。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名車の礎

2011-05-11 | 鉄道写真


 名古屋で就職し、何年か経ってから、名鉄三河線沿線で勤務することとなった。通勤電車の中で、一際古く、しかし立派な内装の電車があった。それが5500系だった。名鉄の本格SR車5000系、5200系の後を受け、昭和34年に日本初の大衆冷房車としてデビューした形式である。冷房化率向上のため5000系、5200系の足回りを利用して5300系が出来てからは、名鉄最古の形式となっていた。


 それが東海豪雨が原因で水没し修理不能となり、遂に廃車が発生した。2ドア転換クロスという内装は重厚だが、車内も傷みアコモも古く感じられたらしく、活躍の場が狭まっていった。4連が全廃となった時、2連3編成がリバイバル塗装に復元され、ファンの話題となっていた。


 そんな最中、5500系を使用した一般向けツアーが募集され、催行された。豊明から蒲郡へ行き、吉良吉田で長時間停車。三河線海線廃止区間用だったホーム、吉良吉田1番ホームに据え付けられ、撮影会が行われた。その時の写真である。5500系を十分に堪能するツアーであった。言い方を変えれば、5500系とのお別れ会でもあった。


 そして、5500系は最後の運用まで、黙々とこなしていった。



 いよいよ引退、という時期に、犬山線に乗っていた。布袋を過ぎる時に、「あっ!」と思った。最後の3編成が、疎開留置されているではないか!直ちに後戻りし、布袋で下車した。デビュー当初の塗装、チョコレートにピンクの塗装である。



  枇杷島方から犬山方に向け、番号順に並んでいる。一番南の5513、5514がストローイエローに赤帯の2代目の塗装、中間の5515、5516がスカーレットに白帯の、3代目の塗色(特急塗色)になっている。



  駅から出て、一番南側に行った。つい半年前の在りし日が、思い出された。いよいよ、お別れなのだ、と改めて思った。


 名鉄史上最高の名車、パノラマカー7000系は、車体は斬新だが運用では在来車との併結を考え、5000系から5500系までで実績のある足回りをそのまま採用した。つまり、5500系は、名車7000系の礎であったのだ。


 現在では、チョコレートの塗装の前頭部が、舞木検車場に残るのみという。保存ばかり言っていても仕方ないが、私のみならず名鉄にとっても最高のお気に入りが、完全な姿で残らないのは少し残念である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お故郷自慢

2011-05-10 | 鉄道写真

 私の生誕地は熊本である。よく「どんな所だった?」と聞かれるが、転勤族の父の任地であっただけで、生誕間もなく転勤で移動し、当時のイメージなど全くない所ではある。ただ、此処で生まれたのだ、と後に親から教えられた。

 そんな熊本にも、「恋人」がいた。熊本電鉄、6000系がそうである。熊本市内の藤崎宮から御代志までの間を走る電車である。地方ローカル私鉄であり、こちらも中間車のない2連である。しかも塗装も、オリジナルからかなり手が加えられている。

 現在熊電も経営的には苦しいらしく、熊本市電との相互乗り入れさえ検討しているのだという。実現すれば鉄道車輌は全廃となり、軌道車輌に置き換わる。赤や黄色に装飾された6000系達も、行く末は厳しいものがある。それに対し、ファンとしては、言えることはただ一つである。「頑張れ、熊電。」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初恋の女性

2011-05-10 | 鉄道写真

 明らかに、そこは恋をする場所ではなかった。

 都営地下鉄、営団地下鉄と比べると、車輌性能もデザインも見劣りし、その中でも実用一点張りで都会的洗練を欠いた、都営三田線、6000系。私は、そんな三田線に恋をした。

 時は過ぎ、私は仕事で地方に移動した。三田線も、いつの間にかVVVF車に置き換わり、6000系は地方へ散っていった。私も、いつの間にか、恋心を忘れていた。

 ”パレオエクスプレス”を撮りに、秩父鉄道に乗車した。熊谷で、期せずして「恋人」と再会した。秩父鉄道5000系と名前を変え、ナンバーと編成長以外はそのままの姿だった。私は、涙さえ出なかった。

 人は歳を重ね、少しずつ変わっていく。しかし、初恋の女性は、いつまでも初恋のままである。恋人よ、いつまでも、そのままでいて!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする