Sengoku1985

何故、私は鉄道を撮り続けるのか?

Trunk Line#11

2012-03-29 | 鉄道写真


 それでは200系に続き、東北筋の新幹線、400系に話を進めていきたいと思います。平成20年冬、米沢での一枚(写真)。編成ナンバーを失念するとは、大失敗です。



 同日、下り列車を追い越す”つばさ”、L1編成です(写真)。量産先行車ですが、9000番台は名乗っていません。高速度試験にも使われたのでしょう。



 米沢駅1番線に入線する、上り”つばさ”L6編成です(写真)。分割併合用の連結器を持つグリーン車、11号車側です。



 列車交換、左L8編成(下り)、右L12編成(上り)です(写真)。山形新幹線開業時に全12編成が出揃い営業を開始、後に7連化されました。しかし新庄延伸時には同系ではなくE3系1000番台が当初2編成、後に1編成増備されました。



 しかし後に同系は全車置き換え、とアナウンスされ、平成21年、最後の夏を迎えました(写真、L3編成、米沢にて)。既に後継のE3系2000番台は運用に入っており、急速に運用が狭まっていきました。


 一般に、車両が廃車されず残るのは、車両状態と検査期限の両方が勘案されるのですが、まさか、最後まで残る編成を撮っていたとは。偶然にしては、良く出来ています。


 今も現役であるE1系からE6系まで、及び700系・N700系を取り上げても、あまり面白くないので、やはりこのシリーズは次回で最終回か。次回にご期待ください。

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Trunk Line#10

2012-03-27 | 鉄道写真


 無期延期となっていた本シリーズ。取り敢えず、200系関連の整理が終わったので、連載を続けたいと思います。


 最初は、200系の原型である試験電車、961-1です(写真)。正式には200系ではありませんが、登場に重要な役割を果たした車両、その成果を元に200系は製作されました。震災前の、JR東日本新幹線車両センター(仙台)での1枚です。



 そして量産初号、221-1です(写真)。後にK45編成の先頭となったようで、編成番号が書かれます。これも同じ時に撮りました。



 同系の後期製作車、2000番台には、100系同様のシャークノーズ形の先頭車もありました(写真)。H4編成の先頭というのは分かりますが、車番は不明です。仙台でのイベントでの1枚です。



 後に同系はリニューアルされ、E2系同様の塗装に改められました。写真は新潟にて、左K44編成、右K49編成です(写真)。いずれも、「とき」運用で用いられます。



 高崎駅12番線に、K26編成が入線しました(写真)。200系の編成写真は、これだけか。しかし、10両でも十分に長いです。



 仙台駅で、K48編成が出発を待ちます(写真)。現存する200系のほとんどが、この塗装に改められました。



 その唯一の例外、K47編成が、東京駅で出発を待ちます(写真、222-1510始め10連)。400系用の連結器収納部分が見えます。同編成は、最後の国鉄色200系として、現在も運用に就きますが、200系という系列自体の運命として、今後の見通しはあまり明るくありません。



 さいたま市の鉄道博物館には、222-35(K31編成10号車)が展示されます(写真)。同車が営業時から方転され、ここに展示される理由は?



 それは、400系(E3系も含む)併結用連結器装備があり、その動作も展示されるからです(写真)。



 その動画があるのですが、連結器が出てくる瞬間を撮れず、収納のみという少しマヌケた動画ですが、どうぞ。


 200系は、それまで西にのみ向かっていた新幹線を、北方に向け伸ばした、という偉大な功績を残しました。間もなく最期を迎えるのでしょうが、その時まで記録を続けたいと思います。


 次は、順番からしてやはり400系か。次回にご期待ください。

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Trunk Line#9

2012-03-26 | 鉄道写真


 今回は、新幹線500系シリーズの2回目、更に深く見ていきたいと思います。


 最初はW2編成、V2編成への改造中の姿です(写真)。平成20年、博多総合車両所のイベント時に見られた姿、仮台車を履き改造工事が行われました。



 同イベントでは、翼形パンタグラフの動作の実演も行われていました。最初は、停止中の姿(写真)。横に傾いています。



 これが空気圧で回転し、垂直に立ち上がります(写真)。



 更に空気圧で伸び上がり、架線に接続します(写真)。つまり、このパンタグラフは空気圧で接続しているのでした。


 ということは、長時間停電で空気圧が下がると、パンタグラフが使用出来ず、電車が動けなくなる、ということでもあります。そのため、空気圧以外で作動する予備のパンタグラフが用意され、「もしも」の時に備えていました。



 W1編成の運転台(写真)。イベントに朝早く行くと、整理券が貰えたため、入ることが出来ました。何度も言いますが、他の新幹線の運転台は複座の旅客機であるのに対し、500系の運転台は単座の戦闘機です。まさに”The Gambler”です。


 これらの装備は、全て360キロ運転のために設計されたものでしたが、残念ながら360キロ営業は、遂に叶うことはありませんでした。



 そして、後継のN700系充足による東海道区間からの撤退を前に、各地で500系を記録しました。最初は、富士山麓での一枚(写真)。時期が秋口だったために、富士山は雪をかぶっていません。雪をかぶった富士山と500系の写真は、遂に撮ることが出来ませんでした。



 続いて、伊吹山と500系の一枚(写真)。こちらも、遂に叶うことはありませんでした。



 そして500系の現在の姿(写真、V8編成、新大阪にて撮影)。W編成16連は、W1編成を残し8連に短縮され、V編成に改められました。W1編成が改造されないのは、まだJR西日本が、夢を追っている証拠でしょうか。


 シリーズの今後の展開は、未定です。少々整理の時間を頂きたいと思います。次回にご期待ください。

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Trunk Line#8

2012-03-22 | 鉄道写真


 遂に来ました、今でも人気の高い、新幹線500系の回がやって来ました。


 先ずは、現在も改造されず残るW1編成、博多総合車両所のイベント時の写真(写真)、この状態で子供が写っていないのは、まさに奇跡です。



 続いて、駅撮りを。W9編成下り「のぞみ」が、名古屋駅17番線に入線します(写真)。戦闘的なデザイン、鋭い嘴が突っ込んできます。パンタグラフが梟の翼から造られたのと同様、この先端は翡翠から来ています。この造形は既に航空機です。



 W8編成上り「のぞみ」の、名古屋駅14番線への入線の様子(写真)。500系のボディはロウ付けアルミハニカムで造られ、航空機同様であり製作費は非常に高く、結局9編成のみの製造で終わりました。



 JR西日本の主張、”JR 500”です(写真)。現在も残るこのロゴ、700系B編成まで同様でした。


 今回は短いと思われるでしょうが、それもそのはず、次回があるからです。次回も、この500系を見ていきたいと思います。次回にご期待ください。

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Trunk Line#7

2012-03-21 | 鉄道写真


 それでは、新幹線シリーズ第7話は、300系を見ていきたいと思います。最初は、富士山麓を走る300系です(写真、編成番号不明)。



 先ずは、保存車となった車両から。最初は量産先行車J0編成(後にJ1編成に改番)の16号車、322-9001です(写真)。腰部のふくらみは、量産車にはない特徴です。「リニア・鉄道館」の保存車です。



 そして早期に引退し、「リニア・鉄道館」に保存される、J21編成1号車、323-20です(写真)。そのとおり、ふくらみはありません。



 先ずは駅撮りから。名古屋駅17番線に入線する、J16編成下り列車、手前が1号車です(写真)。



 同じく名古屋駅ながら、15番線に入線するJ21編成上り列車、手前が16号車です(写真)。1号車を撮っていれば、保存車の現役時代を撮ったことになりましたが、残念でした。



 次は、線路際からの一枚、滋賀県内で撮影した300系です(写真、編成番号不明)。背景の山は、伊吹山です。しかしながら、この時の写真としては外道です。



 そして、引退迫る先日、またしても駅撮りを。下り「こだま」運用に入る、F7編成(JR西日本所属)です(写真)。運用全てがJR東海管内であり、JR西日本の懐は広いです。



 同日走った団体臨時列車、「ありがとう300系号」の運用に就く、J57編成です(写真)。記念ペインティングが行われています。



 同日、折り返し上り「こだま」運用に就くF7編成が、豊橋駅に入線します(写真)。やっと編成写真らしくなりました。




動画挿入法について教示があったので、早速入れてみました。二番煎じですが、どうぞ。



 同日、折り返し上り団体臨時列車として走る、J57編成、豊橋通過の写真です(写真)。




 こちらも二番煎じながら、J57編成の勇姿を見ることが出来ます。


 そして先日JR東海、JR西日本共に最終運用を終え、全車引退しました。


 300系は、M-T-Mで3両ユニットを組んでおり、1号車はT車となり、ユニットを組みません。結局この3両ユニットがネックで、短編成化が不可能であり、早期の引退となりました。確かに毎日1,000キロを往復するので、老朽化は早く進むような気はしますが、少し短い一生でした。300系は、この程度か。


 やはり、次の順番は、500系か。次回にご期待ください。

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Trunk Line#6

2012-03-20 | 鉄道写真

 新幹線、100系シリーズ2回目の今回は、100系の特徴であったダブルデッカーを見ていきたいと思います。

 まず1枚目は、「グランドひかり」食堂車、168-3009です(写真)。博多総合車両所に保存されます。

 レストランは2階です(写真)。モダンなデザイン、山側にも窓が設けられ、2+2列になっています。

 レストランへのエントランス(写真)。右側が階下を通る通路、左がレストランへの入口です。調理室は1階に設けられ、食事はエレベーターで2階のレストランへ送られます。

 次は、100系試作車であるX1編成の食堂車、168-9001です(写真)。「リニア・鉄道館」に展示されます。

 中にも入れます。エントランス部分です(写真)。東海道を駆け抜けた歴代の名車たちが、レリーフに描かれています。

 レストランの様子(写真)。ほぼ同様ですが、後方にも先ほどと同様のレリーフがあります。

 最後は、ダブルデッカーとして最後まで残ったTds、179-3009です(写真)。「グランドひかり」は、4両ダブルデッカーで普通席が不足するので、2階はグリーン席、1階は2+2座席の普通席になっています。博多総合車両所にて保存されましたが、最後は「落書き電車」になり、翌年には姿を消しました。

 0系に比べると、やはり写真が少ない。記録すべき車両を記録しておらず、少し残念です。まあ、意識の現れだったのでしょう。

 今度は、やはり300系か。次回にご期待ください。

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Trunk Line#5

2012-03-19 | 鉄道写真


 5回目になった本シリーズ。今回から、100系に話が進みます。


 最初の写真は、名古屋の「リニア・鉄道館」に保存展示される、123-1です(写真)。国鉄時代末期に製造された、100系初期の車両(X編成)、その量産初号車X2編成の先頭車です。オールMであった0系に対し、両先頭と中間のダブルデッカー2両の4両がT車となり12M4Tとなりました。番号からも分かるように、Tc車です。


 X編成全9本は、分割民営化時にJR東海に移されました。後にJR西日本が購入を熱望しましたが、JR東海は古いX編成ではなく、民営化後に自社で製造したG編成(いわゆる「カフェテリア」編成)の最終9本を譲渡しました。


 なお、16両時代の100系の写真は、JR西日本の「グランドひかり」(2階建て4両の編成)も含め、ありません。100系に対する意識の現れでしょうか。



 100系で最も古い写真はこれ、平成16年春岡山で撮影した、P8編成です(写真)。小倉以東で4両編成とは、当時の山陽新幹線の状況を何よりも雄弁に物語ります。既に塗色はJR更新色に改められていました。



 既に16連の無くなった100系は、山陽区間の「こだま」運用しか無く、地域的に使用する機会は無かったのですが、平成19年7月、錦川鉄道に乗るべく品川発N700系「のぞみ99号」に乗り広島で乗り換え、新岩国まで乗ったときの、K51編成です(写真)。6連、グレーの濃淡に緑のアクセントの帯が特徴でした。JR西日本所属、在来線の「カフェオレ」編成と、同時代の塗色です。なお、新岩国と、錦川鉄道「御庄」駅は、距離数百メートル、乗り換え可能です。



 続いては博多駅、P7編成です(写真)。4両であり、オールM編成にするため、「グランドひかり」のMc車は重宝されました。



 次は0系終焉時の撮影の際に撮った、K58編成です(写真)。平成20年8月、新大阪での撮影です。



 同様の理由で撮影した、K53編成です(写真)。平成20年10月、新大阪での記録です。


 新大阪では4連のP編成は見られませんでしたが、これは新大阪駅のATCが4両に対応していないからで、一番東の運用は姫路でした。



 0系が無くなり、「こだま」は当分100系で続く、と思っていましたが、九州新幹線関連の車両増備、及び500系の短縮化改造で余剰となり、この春全車引退しました。その記録、先月博多で捉えた、K53編成です(写真)。全車引退を前に、一部編成が旧塗色に戻され、同編成もその一つでした。




 同編成の博多総合車両所からの回送、そして出発まで収めた動画です。姉妹ブログにも載せた、拙い画像ですが、どうぞ。


 100系は製造コストを下げるためアルミではなく鋼製となり、将来の270キロ走行にも対応していた、とのことでしたが、270キロ走行を実現するためには閉塞区間を大規模に変更する必要があったために、結局その性能を発揮することはありませんでした。


 やはり100系はバブル期の車両、時代的に嫌いな形式でしたが、全部無くなってしまったのは、少し惜しい気がします。しかし、もう昔に戻ることは出来ません。


 次回は、やはり100系の特徴であるダブルデッカーか。次回にご期待ください。

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Trunk Line#4

2012-03-17 | 鉄道写真


 それでは、先回も予告した、0系関連「延長戦」を始めたいと思います。


 最初の写真は、「リニア・鉄道館」で21-86に続いて展示される、36-84です(写真)。いわゆる「食堂車」です。写真は調理室側で、左側面手前方向の窓が二つ小さく、その右隣が業務用ドア準備工とも、かつてあった業務用ドアを塞いだとも判別がつかない状態になっています。



 21-86から続いて内部公開がなされており、中に入ることが出来ます。連結面には、懐かしのレストランへのエントランスが(写真)。左(海側)が食堂、右(山側)が通り抜け通路です。在来線の食堂車は通り抜け通路が無くレストラン内部を通り抜けるしかありませんが、大型車体になったことで可能になりました。



 テーブル席の様子(写真)。左はオリジナルの窓、テーブルは1+2列で、右側は「富士山が見えない」という苦情から設けられた窓です。


 0系にもこんな贅沢な装備がありましたが、「こだま」中心の運用となったことから、営業休止、編成から外され早期に引退しました。昭和50年の博多延伸に併せ製造された36形、寿命は短いものでした。



 最後に、忘れ物。0系末期まで運用された、JR西日本R編成3号車の25形は、7900番台が充当され、同番台は写真のような車販準備室が設けられていました(写真、25-7902)。必要があれば簡単な調理が可能なように、流し等が設置されているのが分かります。コーヒーをわかす程度は簡単でしょう。


 ビュッフェの中の写真が出せないのは少し残念でしたが、こんな感じで0系は終えたいと思います。


 次は、順番からして、100系か。次回にご期待ください。

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Trunk Line#3

2012-03-16 | 鉄道写真


 先回までに、現役時代の0系の姿を見てきました。そして現役引退後、保存される車両を見ていきたいと思います。


 最初は、平成22年7月、JR東海浜松工場のイベントで展示された、21-86です(写真)。工場の一番の魅せ所であるリフティングの実演のため、クレーンに吊るされています。開業当初からの車両かどうか疑問を感じますが、大窓車は初期型の特徴、後期の2000番台では、各列の座席毎の小窓に設計変更されました。



 同イベント時には、既に「リニア・鉄道館」での展示用車両は決まっていたらしく、現在同館で展示される車両が並んでいました。最初は、食堂車36-84です(写真)。残念ながら通路側(山側)らしく、調理室側の特徴ある窓割りが写っていません。



 続いて、”ビュッフェ”、37-2523です(写真)。在来線なら「モハシ」であり、半室座席、半室ビュッフェです。ロットナンバーの2000番台が示すよう後期の車両で、残念ながら開業当初のビュッフェ35形は、残っていないようです。



 続いて、グリーン車16-2034です(写真)。これも2000番台、初期型を保存しなかったことを、JR東海は後悔しているでしょう。


 なおこの展示では、いずれの車両も本来の台車DT200ではなく、狭軌用の仮台車を履いていました。



 そして、現在「リニア・鉄道館」に展示される、21-86です(写真)。姿は美しいです。なお、他の車両も展示されますが、36形以外は並んでいるだけで、中まで見るのは事実上不可能です。落ち着いたら、車内公開も是非検討してください。


 0系に関しては、概ねこの程度か。しかし、供食関連が見たい。次回は、0系延長戦になりそうです。次回にご期待ください。

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Trunk Line#2

2012-03-15 | 鉄道写真

 先回は、東海道新幹線(JR東海)での終焉まで見ましたが、今回はその後、山陽新幹線(JR西日本)での活躍を見ていきたいと思います。

 0系の東海道新幹線での引退後、暫く新幹線にカメラを向ける回数は減り、在来線や中小私鉄にその目は向けられていましたが、いよいよ0系も完全引退、とアナウンスされたため、夏休みも終わろうとする日に、0系「こだま」に乗車しました。列車は「こだま639号」博多行き、これを逃すと0系は、夜まで新大阪に顔を出しません。その電光掲示にそそられます(写真)。ホームは20番線、現在では鹿児島行きのステージとなっていますが、当時は主に「こだま」、及び一部の「ひかりレールスター」のみの発着番線となっていました。

 間もなく、0系R67編成が上り「こだま」として入線します(写真)。最期の時を迎え、残存車は全て国鉄当時の塗色に塗り戻されました。しかし編成写真としては三角です。

 乗車します。車内は全てリクライニングシートに交換され、2×2シートになっています(写真)。通路ドアが2×3で設計されている関係で、少しアンバランスになっています。

 側面方向幕(写真)。いずれも幕式で、現在は残っていません。

 姫路に到着(写真)。新神戸以外のどの駅でも、通過待ちをします。

 東広島では、上り「こだま」P7編成(100系)と並びます(写真)。こちらも貴重な写真となりました。

 そして広島へ(写真)丹念に撮ったつもりですが、全駅ではありません。そこに後悔が残ります。

 そして終着駅、博多へ(写真)。編成写真を撮ろうと期待していましたが、博多南に向け出発するより前には、それは叶いませんでした。

 反対側の位置関係(写真)。このため、この日編成写真は遂に撮ることが出来ませんでした。

 そこで日を改め、別の日に新大阪に行きました。ホーム撮りとはいえ、R68編成の全体を撮ることが出来ました(写真)。

 そのテール部分(写真)。定期運転のうちに捉えることが出来ました。

 勿論最終列車の予約を取る努力はしましたが、無為に終わり、残念でした。しかし鉄道のために仕事を休むのも限界があり、やはり乗車は無理でした。

 そして、0系は、平成20年秋、全車引退しました。

 この後は、その後も残る保存車の話題になるのか。次回にご期待ください。

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Trunk Line#1

2012-03-14 | 鉄道写真


 この春、東海道・山陽新幹線から、100系と300系が引退します。過去の写真を眺めていると、これは”Sengoku”の連載になるのではないか、と思い、整理を始めました。まだ東北筋までは完了していませんが、連載化の目処が立ったので、開始したいと思います。


 最初は、思い出の中の0系から。懐かしい、万世橋の交通博物館の壁面を飾った、21-25前頭部です(写真)。これは現在、大宮の鉄道博物館に移設されました。



 続いては、0系初号車、21-1です(写真)。大阪の交通科学博物館に保存されます。



 その相方は、22-1(写真)。こちらは窮屈に保存されるので、狭い空間を超広角で写したたため、像が歪んでいます。



 続いては、引退後大阪の鳥飼基地で保存されていたのものを、JR西日本が鉄道博物館に譲った、21-2です(写真)。復元により、デビュー当初のアクリル製の「鼻」に戻され、照光式も復元されました。なお、この部分は強度上の理由から、後にFRP製に交換されました。



 車内の様子(写真)。オリジナルの転換クロスシートが残されますが、現在はシートの操作は禁止されています。



 それが実車では、どうだったのか、見てみます。平成11年の東海道新幹線での引退時の写真です(写真)。当時のデジカメは玩具同然で、まだ本格的に使用しようと思う人は少なく、フィルムカメラが全盛でした。フィルムから拾った写真です。



 その、反対側です(写真)。FRPの「鼻」に、最終運転日を告知する印刷がなされています。



 そして、その最終日の写真です(写真)。JR東海はこの日、最終列車の整列乗車を準備していましたが、それを無視し勝手に車内に入った人が殆どの席を独占してしまい、JR東海にとっても醜悪な最期となりました。要するに、「ルールを無視するのが、一番得である」ということです。名古屋での引退記念式典も、マスコミの一部の関係者に独占されており(多くの「正常な」マスコミ関係者も排除されていた)、我々に言わせれば、「何のためにやったの?」という式典でした。この時の出来事が原因で、JR東海も定期列車での最終運転は行わない、という方針が決まったようです。


 第1回はこの程度か。次回にご期待ください。

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