Sengoku1985

何故、私は鉄道を撮り続けるのか?

The Sleepers#49

2016-02-29 | 鉄道写真


 それでは、連載第49夜は、平成18年GW、九州旅行の続きからです。


 熊本から鹿児島、宮崎と周り、たどり着いたのは大分。「富士・はやぶさ」の一方、寝台特急「富士」の、当時の起終点でした。


 この日もED76 90「分」が、戦前の東京発下関行き1・2等特急以来の、伝統の富士山形ヘッドマークを装備します(写真)。



 寝台特急「富士」の、当時の編成写真(写真)。当時の久大本線、豊肥本線ホームからの眺めで、高架化された現在は、駅裏の大分運転所共々跡形ありません。



 「富士」の、テールサイン(写真)。折妻のスハネフ14、白帯です。


 当時既に2段化改造は済んでおり、スハネフ15と混用されました。一時、14系15形がステンレス帯なのに14系はペンキの白帯で、入り乱れ編成美が失われていましたが、この頃には14系15形もステンレス帯を外し白ペンキとなり、A個室及びB個室のみステンレス帯が残る姿に統一されつつありました。


 このまま「富士」に乗って帰っても良かったのですが、もう少し行きたい。その話については、次回としたいと思います。


 それでは、次回をお楽しみに。


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The Sleepers#48

2016-02-28 | 鉄道写真


 それでは、連載第48夜は、平成18年GWの取材をお届けします。


 5月2日未明、私は地元駅で「富士・はやぶさ」を待ちますが、日を跨いでも来ません。事情で大幅に遅延しているとのことで、新幹線待合室に通され、到着を待ちます。結局到着は午前2時過ぎで、そのまま寝台で横になると、岡山で朝、広島で通勤時間帯を過ぎます。JR側は「新幹線でどうぞ、グリーン車を用意しますから。」と言ってくれましたが、結局下関まで乗ってしまいました。ここで午後となり、結局列車は下関で運転打ち切りとなり、下車します。


 牽引機はEF66 43「関」、間もなく下関運転所に帰庫します(写真)。



 予定では熊本まで「はやぶさ」で行き、特急を乗り継ぎ長崎に行くつもりでしたが、熊本に寄らず、長崎に直行。当時長崎駅西方に広がっていた長崎運転所には、寝台特急「あかつき」の座席車「レガートシート」、オハ15が見えています(写真)。



 翌朝、長崎駅へ。「あかつき」が、到着しました(写真)。ED76 90「分」、ヘッドマークは「なは・あかつき」になっています。



 スハネフ15の、「あかつき」テールサイン(写真)。なかなかお目にかかることの無い部分です。



 そして、特急を鳥栖で乗り換え、熊本へ。ED76 90、翌日は、「はやぶさ」の運用に入ります(写真)。


 この頃のED76の赤い塗装は、少し気に入っていました。しかし、今では、JR九州には現役機はありません。


 そして、九州島内を移動するのですが、以降は長くなるので、今日はここまでとします。


 それでは、次回をお楽しみに。

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The Sleepers#47

2016-02-27 | 鉄道写真


 それでは、連載第47夜は、平成18年早春の、東京駅からの写真をお届けします。


 平成18年春改正の最大の注目は、前述のとおり「出雲」廃止ですが、以外の車両も撮っておこうと思い、東京駅へと、向かいました。


 東京へは、JR東海373系3+3+3連快速「ムーンライトながら」です(写真)。週末の上京用列車として、通勤電車のように永く使っていましたが、現在は諸兄ご存じのとおりです。回送も兼ねた普通も、廃止になって久しいです。



 EF65 1107「田」牽引、寝台急行「銀河」が、東京に到着(写真)。向こうの側線には、同じく田端運転所のEF65 1110が停まります(写真)。



 「銀河」の大阪方末尾、カニ24 103(写真)。急行ながら、「銀河」にはテールサインがありました。ヘッドマークはありません。しかし、東海道新幹線開業前から運転された名門列車、最期は残念でした。



 間もなく、先ほどのEF65 1110が、連結されます(写真)。同機が客車を品川客車区に牽引し、EF65 1107は、先ほどの待機位置に入ります。



 そして、EF65 1106「田」牽引、寝台特急「出雲」入線(写真)。ファンの多さが、最期の別れを知らせます。この後にEF65 1107が連結され、客車を牽引、EF65 1106が今度は待機位置に入ります。



 「サンライズ出雲・瀬戸」です(写真)。285系、寝台特急「出雲3、2号」及び寝台特急「瀬戸」代替で製造され、現在に至りますが、交直版、及び追加増備には至っていません。



 昼近くに、「富士・はやぶさ」が到着(写真、EF66 45「関」)。直ちに、切り離しの準備を始めます。



 スハネフ15の、「はやぶさ」テールマーク(写真)。懐かしいですねえ!


 そして、EF65 1106に牽引され客車は回送、追ってEF66 45も、単機回送されます。


 東京では、上野のような推進運転は行いません。田端~上野間よりも品川~東京間は長く、しかも東海道本線の電車の合間運転であり、推進運転の許容スピードではダイヤに支障するからです。結果待機の機関車が、側線で待っていました。


 このようにして、寝台特急「出雲」は、廃止されました。残念でした。


 それでは、次回をお楽しみに。

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The Sleepers#46

2016-02-26 | 鉄道写真


 それでは、連載第46夜は、餘部鉄橋をお届けします。


 やはり寝台特急「出雲」が、いちばん山陰本線の列車らしい場所としては、やはり餘部鉄橋にトドメを刺すでしょう。山陰本線建設時の最大の難所であり、また強風で列車が転落し、それが原因で少し風が吹くと運転が停まってしまうこともあり、結果JR西日本は架け替えを決断し、現在は鉄橋では無く、コンクリート橋梁となっています。


 早朝に、一番列車が餘部鉄橋を通過(写真)。キハ47形、上り普通です。



 続いて、鳥取発大阪行き特急「はまかぜ2号」が通過(写真)。更新色とはいえ、まだキハ181系がふんだんに見られた時代です。



 そして、トンネルから、赤い機体が出てきます(写真)。DD51、牽引するのは「出雲」です。



 間もなく、列車が出てきます(写真)。もう1枚は、撮れませんでした。


 アメリカ製の鉄橋、高さは百数十メートルあり、難工事であったのが分かります。しかも鉄骨が潮風で腐食するという問題もあり、結果現在はコンクリート橋で、旧橋梁は一部が残るのみです。


 なお、鉄橋当時の「お立ち台」は、鉄橋西側橋台(写真右側)にある「餘部」駅のホームの後でしたが、その場所が現在新橋梁の橋台、及び本線が通り、永久に失われました。そんな思いを持って、通ってみて下さい。


 その後も何回か通いましたが、後にキハ181系も引退し、橋梁もコンクリート橋となり、撮影ポイントでは無くなってしまったので、その時点で止めました。日程的に空いた時に、いつか行ってみたい気はします。


 それでは、次回をお楽しみに。

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The Sleepers#45

2016-02-25 | 鉄道写真


 それでは連載第45夜は、平成18年早春の寝台特急「出雲」の、京都駅ネタ後半戦です。


 未明の京都駅で、地元通のM社製MFフィルム一眼ユーザーを筆頭に、地元中心のファンとともに改札開始時に入場。とりわけ注意されたのは、「フラッシュを焚いて、停止位置をずらすなよ。」で、運転士の目眩ましをしないよう何度も注意されました。


 そして、地元ファンと同じ、京都駅30番線の指定ポイントで、列車を待ちます。


 京都駅2番線にやって来たのは、EF65 1114「田」牽引「出雲」(写真)。昂奮が高まります。しかし、2番線でで構えたファンがフラッシュを焚いてしまい、少々停止位置がずれてしまいました。



 間もなくPFは切り離され、カニ24 100番代が見えます(写真)。テールサインになる「出雲」もクッキリ入ります。



 続いて、庫内手の誘導で、DD51 1179が入線(写真)。連結です。



 そして、連結後、DD51は出発を待ちます(写真)。定時に、「出雲」は、京都駅を出発しました。



 メインイベントを終え、地元ファンに礼を言い、撮影を終えました。


 しかし、折角京都まで来たので、もう少し楽しみたい。そこで、もう暫く撮影を楽しみました。


 最初は、恐らく天理臨でしょう、EF65 1110「田」牽引の24系客車の団臨です(写真)。ここで進行方向を変え、奈良線方面に向け発車しました。



 続いては「日本海2号」、牽引機はEF81 101「敦」でした(写真)。



 EF65 1111「田」牽引「銀河」(写真)。調子が悪かったのか、同機は早期に引退しました。



 EF65 1114は、0番線と2番線の間の側線で、暫し休憩(写真)。「なは・あかつき」到着を待ちます。



 そして、京都駅2番線に「なは・あかつき」が到着します(写真)。この後に構内で大入換をして、京都総合車両所に戻るということを、当時は知りませんでした。


 そして私は、京都を後にしました。


 夜の京都駅は、当時はいろいろなイベントがあり、楽しいものでした。もう、こういう時代は来ないでしょう。


 それでは、次回をお楽しみに。

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The Sleepers#44

2016-02-24 | 鉄道写真


 それでは、連載第44夜は、再び平成18年早春の、寝台特急「出雲」、その京都駅での記録をお届けします。


 先ずは、京都駅0番線、前座ではありませんが、夜行急行「きたぐに」、583系です(写真)。今思えば、これも貴重なショットです。


 当時京都総合車両所にはこの更新色583系が3編成、「シュプール」塗色が3編成、計6編成がありましたが、自社のリバイバル運転時には塗色変更の手間から、JR東日本から車両を借り入れた、という経緯もありました。



 京都駅東側、0番線と2番線の間の側線には、EF65 1112「田」が停まります(写真)。前日東京から京都まで「出雲」を牽き、当日朝までここで待機、「なは・あかつき」の京都総合車両所入出庫に使用され、下り「なは・あかつき」据え付け後、ここで東京に戻るまで待機します。



 定刻に、上り「出雲」は京都駅到着(写真)。牽引機は、DD51 1179「後」でした。



 間もなくDD51は切り離され、待機位置まで移動します(写真)。



 そこで見えた、緩急車オハネフ25(写真)。切妻の100番代です。



 そして、EF65 1112が誘導され、連結、出発を待ちます(写真)。間もなく発車時刻となり、出発します。


 当時は、この後間もなく京都駅は閉鎖されます。そして、未明の下り「出雲」は、京都駅の初電になるため、改札から出るよう指示を受けました。


 この後、ベンチも無い駅コンコースで時間をつぶしましたが、地元の同志も多く、彼らの指示に従い撮影することを条件に、ベストポイントを教えて貰いました。


 そして、改札が開き、下りの撮影をするのですが、今回はここで水入り、以降は次回としたいと思います。


 それでは、次回をお楽しみに。

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The Sleepers#43

2016-02-23 | 鉄道写真


 本連載も、遂に7週目に突入します。栄光の記憶ですが、現状を見るとレクイエムのようでもあり、残念は残念です。


 連載第43夜は、平成18年早春の、寝台特急「日本海」をお届けします。


 出発は、大阪から。この日の「日本海3号」は、EF81 101「敦」が牽引します(写真)。



 電源車は、カニ24 116でした(写真)。白帯の、「盛アオ」青森運転所所属車両です。



 A寝台車は、オロネ24 2です(写真)。プルマン式(開放形)2段寝台です。



 私の寝台は、オハネ24 49です。寝台は2段式ですが、3段式で落成、後に2段式に改造された車両です。その、折り畳み可能な可動式ベッドの名残が、残っていました(写真)。


 反対側の寝台は、若い男性でした。秋田に住む彼女の父親に、結婚承諾を貰いに行くとのことで、緊張していました。



 A寝台の、喫煙席(写真)。1ボックスが充てられ、上段が撤去されていました。A寝台の仕組みは581系と同じですが、2段式です。



 牽引機は、敦賀でEF81 48「敦」に交代していました(写真、弘前にて)。ヘッドマークが、輝かしい。



 「日本海」のテールサイン(写真)。客車はオハネフ25 100番代、金帯は尾久からの転属車でしょうか。


 そして、青森県で撮影をしたとの記録が残っています。


 JR西日本宮原運転所受け持ちの「日本海1,4号」は、オロネ25「シングルDX」を連結していて贅沢でしたが、JR東日本青森運転所受け持ちの「日本海3,2号」は最上級がプルマン式A寝台オロネ24で、少々地味でした。しかし、後に1往復廃止された時には、青森運転所の方が残り、不思議といえば不思議でした。まあ、シングルDXも、シーズンを外すと寂しい時もあり、まあ運命であったのでしょうか。


 それでは、次回をお楽しみに。


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The Sleepers#42

2016-02-22 | 鉄道写真


 それでは、連載第42夜は、平成18年早春、寝台特急「出雲」乗車記、後半戦です。


 午前2時のの京都の儀式は飛ばし、目覚めると既に鳥取。牽引機はPFから、DD51 1186「後」に変わっています(写真)。当時は、こんな位置でも撮れました。



 側面の、方向幕(写真)。終点が浜田の頃に、きちんと記録をしておくべきでした。



 米子で、バカ停。その間に、緩急車オハネフ25まで行き、撮影した、テールサイン(写真)。確かに、薄くなっています。



 牽引機DD51 1186の、松江での一枚(写真)。スルーします。



 そして、終着駅出雲市にて(写真)。足回りまで写っています。



 そして列車は乗客を降ろし、出雲電車区(現在の後藤総合車両所出雲支所)に回送されます(写真)。やはり最後は切妻のオハネフ25 100番代、帯色が金色なのは「北斗星」と共通運用だったからです。



 同日夕方、東京行きとして据え付けられた、DD51 1186以下寝台特急「出雲」(写真)。発車時刻を待っています。



 末尾は、カニ24 112(写真)。こちらのテールサインは、クッキリしています。


 そして出発時刻に、寝台特急「出雲」は、東京に向け発車しました。



 おまけ。285系「サンライズ出雲」です(写真)。電車寝台特急、JR西日本3編成、JR東海(3000番代)2編成の計5編成が、「サンライズ出雲」「サンライズ瀬戸」の運用をこなし、多客期には広島、松山等にも顔を出します。


 「出雲」ネタは、この後の撮影行動に大きな影響を与えるものでした。それが、どうなっていったかは、今後の展開にご期待下さい。


 それでは、次回をお楽しみに。


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The Sleepers#41

2016-02-21 | 鉄道写真


 それでは、連載第42夜は、平成18年春改正で廃止となった寝台特急「出雲」関連の写真をお届けしたいと思います。


 出発は、東京駅。出雲の前の「富士・はやぶさ」牽引機、EF66 53「関」が、出発を待っています(写真)。


 この前には柵があり、正面から撮影は出来ません。横浜が良いというのは、聞いたことがあります。



 それを、品川客車区から牽いてきたのは、EF65 1107「田」(写真)。これが、「出雲」牽引機となるため、京都方には既にヘッドマークが装備されています。


 同機は、「富士・はやぶさ」発車後に側線に入り、列車の到着を待ちます。



 その前には、スハネフ14が、「富士」のテールサインを掲出しています(写真)。間もなく、出発します。



 続いて、EF65 1113「田」が、客車を牽引してきました(写真)。同機は、「出雲」発車後側線に入り、寝台急行「銀河」牽引機となります。



 牽引機から切り離され、現れた「出雲」のテールサイン(写真)。オハネフ25、100番代です。


 そして、同車のA寝台、オロネ25「シングルデラックス」に入り、旅行しました。廃止2か月前とはいえ、乗車出来たのはラッキーでした。


 そして、乗車記が続きます。


 それであh、次回をお楽しみに。

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The Sleepers#40

2016-02-20 | 鉄道写真


 それでは、連載第40夜は、寝台特急「彗星」廃止直前の写真をお届けします。


 平成27年10月改正で廃止になると決まった寝台特急「彗星」。南宮崎まで行く夜行で重宝していましたが、末期には「あかつき」と併結、14系15形4、5両の小編成で、利用率も低迷していたのでしょう、結果廃止となりました。


 京都からの牽引機は、EF66 46「関」(写真)。「彗星・あかつき」の合同ヘッドマークになっています。



 そして、関門も夢の中、終点の南宮崎に到着。スハネフ15の、テールサインが見えています。



 牽引機は、ED76 87「分」(写真)。「彗星」のヘッドマークも、見納めとなりました。



 南宮崎到着後、昼間同駅2番線と3番線の中線に、長時間留置されます(写真)。最後はこんな小編成で、ED76も、力を持て余しています。


 夜間運転でコストもかかり、その割には利用率が低くては、このような運命になってしまいます。ちょっと高くても、普段から利用する、その心がけが必要だったのでしょう。特に、あんな長大編成が行き交った九州行きだけであっただけに、残念でした。


 この頃宮崎~鹿児島間は災害で運転中止されていましたが、私が行く日には仮復旧し、大土木工事で応急措置し運転を再開していました。間もなく株式上場するJR九州は、そういう会社です。


 それでは、次回をお楽しみに。

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The Sleepers#39

2016-02-19 | 鉄道写真


 連載第39夜は、国鉄・JR東日本大船工場、後の鎌倉総合車両所の、車両工場廃止前の最後のイベントからお届けします。


 先ずは関東に向け移動が必要、そこで乗った列車は、寝台急行「銀河」(写真、EF65 1114)。ヘッドマークも無いですが、最後の寝台急行、1両は開放型A寝台オロネ24もあり、東海道の、最後の夜の女王でした。


 そして、大船で下車、時間まで駅前のマックで時間調整。現在はどうか知りませんが、大船は24時間営業で、それは自慢して良いです。



 旧帝国海軍兵器廠の跡地を利用して設置された大船工場、そのため連絡線が大船方向を向かず、横須賀側から折り返し入線する向きになっており、それが確かに不便で、入場には大船から湘南モノレールに乗る必要があり、それも不便でした。結果、車庫機能は大船に残し、工場は廃止、現在の姿に至ります。


 閉鎖前最後のイベントで、いろいろな見世物があり、注目に値しましたが、やはり寝台列車として注目すべきは、流麗な緩急車、ナハネフ22 1でしょう(写真)。


 「走るホテル」と評された、日本初のブルートレイン「あさかぜ」登場時、緩急車は座席車ナハフ20で、これが寝台車に改造されナハネフ20、しかし窓割りと寝台が合わないという不都合が生じ、結果製造された、寝台列車用の緩急車です。現在この車両は、さいたま市の「鉄道博物館」収蔵車両となっています。


 当初は座席車もあった「ブルートレイン」、現在もそのままであれば生き残ったのか、との疑問が投げかけられそうです。昭和30年代から50年代にかけては日本全体が豊かになっていく時代で、全体に贅沢になっていく時代でした。結果全寝台も納得ですが、今では一部の人々を除き、その時代とは逆の方向に向かっているというのは感じます。ならば、とも思いますが、もう車両さえ残っていません。戻るにも、戻れないのです。残念です。


 それでは、次回をお楽しみに。


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The Sleepers#38

2016-02-18 | 鉄道写真


 それでは、連載第38夜は、寝台特急「なは」を取り上げたいと思います。


 JR九州の「SLあそBOY」が最後だと聞き、その撮影を目指し急遽熊本入りします。出発には「富士・はやぶさ」では間に合わないことから、大阪発の「なは」を選択。入線時刻を待ちます。


 大阪発下関までの牽引機は、EF65 1132「関」です(写真)。「なは」単独ヘッドマークも、当時は健在でした。



 関門間の記録もせず、終点、熊本へ。門司からの牽引機、ED76 92「分」に変わっています(写真)。この頃から、交流機は赤みがJR東日本並みに強くなり、塗色としては良い感じになってきました。やはり、サーモンピンクでは、感じが出ませんよ!



 車両を撮るのか、テールサインを撮るのかいい加減ですが、緩急車のオハネフ25、100番代です(写真)。切妻が特徴となっています。テールサインも健在で、宮原運転所だとすぐに分かります。


 乗りたい、その時すぐ乗れる、は理想的で良いのですが、そのため深夜勤務の困難さの割には利用率が低く、普段は赤字を垂れ流す、というのが夜行列車でした。高速道路網の発達に伴い、安価に夜間移動出来る高速バスが増え、いわゆる「失われた20年」の最中、安全軽視でも安きに流れる金銭的経済性に負け、衰退していった、というのが事実です。残念ながら、時計の針は戻りません。


 それでは、次回をお楽しみに。

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The Sleepers#37

2016-02-17 | 鉄道写真


 それでは、連載第37夜では、東北に向かう寝台特急をお届けします。


 現在のような状況になるとは思ってもいなかった平成17年8月、私は大阪を目指します。寝台特急「日本海」乗車のためです(写真)。牽引機はEF81 107(「敦」)、1号か3号かは記録も、記憶もありませんが、撮影時刻から推定すると、1号でしょう。


 中では良い感じのお姉さんが乗っていることもあり、そういうことも交渉次第であったようですが、今は、そんな列車もありません。



 快眠し、翌朝青森県内で降りますが、下車時には撮らず、残念でした。


 そして、大鰐温泉で、弘南電鉄で待つ間に行き過ぎるのは、「あけぼの」(写真)。牽引機は、EF81 139(「青」)、塗色の赤みが強くなっています。オリジナルは敦賀の方が近いのでしょうが、やはりJR東日本の方が好きな色です。


 そして青森県内で撮影を続け、新幹線で帰った記録が残っています。


 乗りたいと思えばいつでも乗れる、そういう列車であると良いのですが、それでは普段は赤字垂れ流しでもあり、それも鉄道会社に酷です。結局車両の老朽化もあり、今のような状態になり、本当に残念です。


 それでは、次回をお楽しみに。

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The Sleepers#36

2016-02-16 | 鉄道写真


 遂に、6週目に突入する本連載です。もう暫く、お付き合い下さい。


 連載第36夜は、平成17年春の北海道第3回、寝台特急「日本海1・4号」の、函館編成です。


 今は廃止となった江差線、江差から函館への戻り道、乗り換えの木古内でちょうど夕方となり、函館発「日本海4号」に遭遇します(写真)。ED79 12牽引、これは幸運です。しかし、ヘッドマークが傾いています。



 編成は、オハネフ25、オハネ25が2両、オロネ25、及びカニ24で、カニ24が末尾でした(写真)。100番代か、500番代かは、記録がありません。しかし、テールサインもしっかり入っています。


 青函トンネル開通で運転が開始された「函館日本海」、ピーク時にはフル編成で函館行きとなっていたようですが、最末期には電源車を除き客車4両と非常に寂しく、翌改正で青森以遠が区間廃止されました。乗っておかず、非常に残念です。


 それでは、次回をお楽しみに。


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The Sleepers#35

2016-02-15 | 鉄道写真


 それでは、連載第35夜は、平成17年春の北海道、2回目です。


 当時はまだ、札幌から道内各方面へ、夜行列車が運転されていました。そのコレクションです。


 最初は、「オホーツク9号」、キハ183 211です(写真)。非貫通の初期形キハ183を、機関換装し出力アップした形式です。列車の最後尾のようです。



 相方は、キハ183 219です(写真)。寝台車スハネフ14を除き、昼行「オホーツク」と共通運用であったようです。



 乗車したのは、「利尻」です(写真、キハ183 1504)。キハ183モデルチェンジ車、120キロ走行が可能で、しかしそれがJR北海道のトラブル時に、運行不能となりました。



 中間には、スハネフ14 506が挿入されます(写真)。当時は、「利尻」運用後南稚内まで回送され、同車を切り離し、その他の車両は稚内まで回送、上り特急「サロベツ」として札幌に戻ります。下り「サロベツ」も到着後南稚内に回送、スハネフ14を中間に挿入し、折り返し上り特急「利尻」として札幌に戻ります。



 反対側の先頭は、キハ183 1501でした(写真)。


 これらの列車は、乗務員の勤務条件が悪い割には利用が思わしくなかったらしく、順々に臨時化され、後に設定が無くなり、事実上廃止されていきました。極めて廉価に宿泊出来る北海道では、「移動しながら寝る」というのはメリットがあまり大きくなかったのでしょうか。確かに、夜行バスに対するメリットは小さかったようです。現在は何れも無く、残念です。


 それでは、次回をお楽しみに。

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