それでは、連載第111回目は、EF63の3回目、EF63 10をお届けします。
同機は現在、「碓氷峠鉄道文化むら」にて、静態保存されます(写真)。ちょうど軽井沢方が写っており、運転台左下部には量産型標準の、多数装備されたジャンパ栓受けがあるのですが、黒つぶれでよく分かりません。
EF63の特徴を捉えるべく写した写真が、これでは残念です。他のカマの写真で、見て欲しいと思います。
それでは、次回をお楽しみに。
それでは、連載第111回目は、EF63の3回目、EF63 10をお届けします。
同機は現在、「碓氷峠鉄道文化むら」にて、静態保存されます(写真)。ちょうど軽井沢方が写っており、運転台左下部には量産型標準の、多数装備されたジャンパ栓受けがあるのですが、黒つぶれでよく分かりません。
EF63の特徴を捉えるべく写した写真が、これでは残念です。他のカマの写真で、見て欲しいと思います。
それでは、次回をお楽しみに。
それでは、連載第110回目は、EF63 2を見ていきたいと思います。
EF63の量産機となった2号機(写真)。現在、木造の初代軽井沢駅舎を使用した、「軽井沢駅舎記念館」の施設となり、旧1番線に展示されます。「しなの鉄道」ホームからの眺めです。
他日、反対側からの眺め(写真)。前後とも、下り進行方向左手にアンテナがあります。
他日、駅舎記念館に入館しての一枚(写真)。横川方、上り、下りとも、通常機関士がいる側で、軽井沢行き下り列車はバックで列車を押しています。
同機の軽井沢方(写真)。系列毎に異なるジャンパ栓受けが小さく、また、数も少なく、初期の形であると分かります。連結器は、自動、密着どちらにも変更出来る双頭連結器になっています。
当初碓氷峠は、EF62牽引の客車、及び従来のキハ57、キハ82が非協調で走りましたが、協調制御可能な169系が開発されたことにより、485系ベースの489系、183系ベースの189系も登場、ほとんど電車化されました。系列毎に異なるジャンパ栓を間違いなく繋ぐのも、横川・軽井沢両駅の楽しみでした。
以降、暫くはEF63保存機の話ですが、「シェルパ」「強力(ごうりき)」であり、また国鉄最急勾配を電車と機関車が力を合わせ登っていくのは、既に伝説でもあります。実車から模型まで、鉄道ファンが燃え上がる話ですが、廃止は1997年秋、デジカメ画像は無く、残念です。
それでは、次回をお楽しみに。
それでは、連載第109回目は、碓氷線補機、EF63に話を進めていきたいと思います。
国鉄最急勾配、最大66.7パーミルの碓氷線は、EF62及びEF63の実現で、アプト式を廃し、通常の粘着で走ることが可能となりました。その、補機専用機の量産先行試作車、EF63 1です(写真)。
当初高崎に配置され、試験の後量産され、横川に転属し、昭和38年の切り替えとなりました。補機1両の運用も考えられていたようですが、実際にはほぼ重連で補機運用に就きました。死重の積み方も、電気的軸重補償も、他各種の停止装置、保安装置も、急勾配の碓氷線ならではの装備です。軽井沢行きは後補機として、横川行きは制動装置として働きます。特に坂を下る時は、時速45キロを超えるといかなる制動装置も使えなくなる区間であることから、そうならないよう安全に減速し停止出来る機構になっています。
それでは、次回をお楽しみに。
それでは、連載第108回目は、EF62最終回、EF62 54をお届けします。
国鉄末期、多くのEF62が非業の最期を遂げる中、旅客用(臨時客用)に指定された一部のEF62は、田端運転所でJR化を迎えました。その中に、最終号機54号機も入っていました。そして、北陸新幹線長野開業で碓氷線が廃止になるまで現役を維持しました。
現在同機は、「碓氷峠鉄道文化むら」にて、保存されます(写真)。省形電機を思い出す、と言うファンもいました。
別の時の一枚(写真)。運転台横の棒は、アンテナで、軽井沢に向けて登坂する際に、補機EF63と連絡するための無線アンテナです。これで、力行惰行、信号等を連絡します。
登坂時は、先頭のEF62も、後補機のEF63もそれぞれ運転操作し、間に引き通し線も無いので、息の合った操作が求められます。一度、客車で碓氷峠を経験したかったですね。
それでは、次回をお楽しみに。
それでは、連載第107回は、引き続きEF62をお届けしたいと思います。
JR東日本長野車両センター(国鉄長野工場)の、片隅に残る、新性能直流標準色のEF62(写真)。痕跡から、EF62 3のようです。
EF62は、高崎機関区とと篠ノ井機関区に配置され、最終的には上野~高崎~長野~直江津の、信越線を通す運用に就きましたが、碓氷線での貨物輸送が500t前後が限界とされ、結局貨物は他線経由となり、余剰となりました。その頃に、東海道~山陽筋の荷物列車の牽引機のEF58からの置き換えが求められ、電気暖房のあるEF62が抜擢され、下関に配置されました。しかし元々勾配線区用の機関車であり、東海道線区に求められる高速性には問題があり、機関士が速度維持に弱め界磁を多用したためトラブル頻発、状態はかなり悪くなりました。結局その後数年で、国鉄改革で荷物列車自体が廃止となり、多くのEF62が異郷の地で無念の最期を遂げました。
JR東日本の長野で最期を迎えられた同機は、本当に運の良い機関車です。残って欲しいですが、ナンバーも失った現状からは、少々難しいですね。
それでは、次回をお楽しみに。
それでは、連載第106回目は、EF62へと話を進めていきます。
写真は、EF62量産先行機、EF62 1です(写真)。現在、「碓氷峠鉄道文化むら」にて静態保存されます。
EF62は、碓氷線、ひいては信越本線の輸送力増強のため、碓氷線を従来のアプト式鉄道から粘着新線に切り替えるために開発された、本務機仕様の機関車です。碓氷峠では、補機専用に開発されたEF63と性能を揃え、かつ前後の一般路線でも使用出来るよう、軸重軽減のため3軸台車(C-C)としています。長野方面へは先頭で、後補機EF63と息を合わせ勾配を登り、上野、高崎方面へは、前補機EF63と重連総括制御で安全な速度に減速し、勾配を下ります。
EF62及びEF63の登場により、昭和38年に碓氷線は新線に順次切り替えられ、輸送力が改善しましたが、その後動力近代化により、新たな悲劇が起きました。それは、次回以降にて。
それでは、次回をお楽しみに。
それでは、連載第105回目は、EF60よりもっと地味な運用となった機関車をお届けします。
写真は、JR貨物広島車両所にて保存される、EF61 4のカットボディです(写真)。
EF61は、EF60に蒸気発生装置(SG)を搭載した形式で、将来的にはSGを外し、セノハチ(山陽本線「瀬野」~「八本松」間)補機に転用する計画でした。しかしEF60改造のEF61 200番代で不具合が発生し、結果その改造計画も立ち消えとなり、SGを生かした荷物列車等地味な運用のまま、国鉄改革で荷レも廃止となり、ひっそりと消えていきました。
EF61形、元々製造全18両の小所帯で、全体で残る車両は1両も無く、部分で残るのも同機のみです。本当に、地味な一両です。
それでは、次回をお楽しみに。
それでは、「主役になれなかった」EF60、60Pを引き続きお届けします。
写真はEF60 510、EF60 500番代、則ち60Pと呼ばれるべき1両でしたが、先回のような経緯により、結局貨物機となった1両です(写真)。大宮でのイベントでの一枚、寝台特急「富士」の、円形のヘッドマークを装備します。
こんな晴れ姿はつかの間、いつのまにか貨物用となり、栄光を掴むこと無く引退しました。ヘッドマークがせめてもの慰めです。
機関車の白帯は、初代「ブルートレイン」20系客車の白帯と合わせており、コーディネートされたというべきか。そのデザインが開花するのは、後継機の話です。
それでは、次回をお楽しみに。
それでは、連載第103回目は、主役になれなかった1両をお届けします。
写真は、60Pと呼ばれる筈であった、EF60 501です(写真)。ヘッドライトが大目玉1灯である以外は、国鉄直流特急色を身に纏い、九州特急等に使用される20系客車とのデザイン統一も考えられています。落成時も、それが目的でした。
しかし、同系式は高速性に問題があり、従前のEF58に戻されて運転されることもしばしば、結局65Pの登場で特急旅客運用から外れ、貨物運用に従事するようになりました。出力もアップしており、貨物列車にはうってつけの車両でした。
引退後、高崎機関区内で保管されていたところ、「碓氷峠鉄道文化むら」開設に伴い移動、現在に至ります。
車体側面が、上部窓、下部フィルターでは無く、数枚に一枚窓の形になっているのが、少し古い形です。
それでは、次回をお楽しみに。
それでは、連載第102回目は、EF60 123をお届けします。
現在、両毛線足利駅前に保存される、EF60 123(写真)。末期に両毛線貨物に使用されたことから、ここで保存されているとのことです。
正面もシールドビーム2灯、側面もフィルターと窓の形態も、EF65とほぼ同じで、今日走っていても違和感を感じないのですが、引退しています。
反対側エンドの正面(写真)。逆光でイマイチです。
EF60基本番代で、完全な姿を残すのは同機のみ、貴重となっています。
それでは、次回をお楽しみに。
それでは、連載101回目は、EF60 115をお届けします。
埼玉県、川口市内の工場の片隅にある、機関車のカットボディ(写真)。正面に回り、外れた切り抜きナンバーの痕跡は、EF60 115となっています。ヘッドライトは大目玉1灯ではなく、シールドビーム2灯に改設計され、EF65等に近いデザインとなっています。
基本的には平坦区間用に設計されており、強力な機関車ですが、高速性能の問題から、あまり派手な運用は無かったようです。
それでは、次回をお楽しみに。
それでは、連載100回となった今回は、EF60の2回目、EF60 47をお届けします。
JR東日本大宮車両センターの一角に展示される、EF60 47の前頭部(写真)。ヘッドライトが大目玉1灯で、ぶどう色の塗装となっています。
イベント時に見れる同車も、珍しくもない風景となっていますが、今後も、このまま保存されるでしょうか。
それでは、次回をお楽しみに。
それでは、連載第99回目は、F級新性能直流電機のトップバッターであるEF60、EF60 19をお届けします。
最初の一枚は、JR貨物高崎機関区でのイベント時から。65P形特急色揃い踏みの時に、庫の片隅に停泊するEF60 19(写真)。当時はJR更新色で、上野発「EL&SLみなかみ号」の、EL区間を受け持つ機関車でした。
次は、尾久車両センターでのイベント時の一枚(写真)。国鉄直流標準色に塗り戻され、寝台特急「彗星」のヘッドマークを装備します。
続いて、東京車両センターでのイベント時の一枚(写真)。「あさかぜ」を表示します。
最後は、高崎駅、高崎車両センターでのイベントから(写真)。「ゆうづる」のヘッドマークを装備します。また、ヘッドライトがシールドビーム2灯の「ブタ鼻」から、大型ヘッドライト1灯に復元されています。
そして、現在に至ります。
EF60初号機登場時は、クイル駆動で落成していますが、精密な管理が必要で整備性に難を来たし、短期間で設計は従前の吊掛式に戻されています。また、多くが貨物用に使われた形式です。その理由は、また追って。
それでは、次回をお楽しみに。
それでは、連載第98回目は、ED62 17をお届けしたいと思います。
当時「アトム」(時代ですねえ!)と呼ばれたED61の、軸重軽減化改造で生じたED62、飯田線の主となったわけですが、飯田線の機関車なら、大宮か広島か、といえば、大宮の方が近く感じられ、やはりJR貨物大宮車両所で検車されていたようです。そのためか、大宮のJR東日本とJR貨物の合同イベントで、EF65 1001と並び展示されていたことがありました(写真)。現用のデジカメに比べ画質は落ちるものの、まあ撮っていたことをもってよしとしましょう。
後に、この記録の重要さを感じることとなりました。
昨年の大宮のイベントでは、展示しようか、どうか迷うような位置に置かれ、体験乗車の車窓からしか見えない位置にありました(写真)。
他の保存機は既に亡く、現存唯一のED62と思われます。もう一度、軸重軽減用の二軸台車を含め、きちんとカタログ写真を記録したいのですが、願いは叶うでしょうか。
それでは、次回をお楽しみに。
それでは、連載第97回目は、新性能直流ED形2回目、ED62 14をお届けします。
「アトム」と呼ばれたED61を、軸重軽減改造したED62は、飯田線で使用された古豪電機に取って代わり、飯田線の主となりました。しかし飯田線貨物列車の全廃に伴い、全機運用を離脱、引退しました。
かつて中部天竜には機関区があり、その機関区跡を利用して「佐久間レールパーク」が開設されていました。その中で保存された、ED62 14(写真)。当時は「デジタル画像である」だけで喜んだものですが、今の目で見ると、jpegで撮っており、中級機とはいえ画素数も知れており、しかもサードパーティーの高倍率ズームで、ローパスフィルタレスの時代には、少々耐えられない画像です。もう少し、「きちんと撮る」という意識が欲しかったです。
なお、同機は同パークの閉園後、結局解体されたとのこと。当時の生き証人が、また一つ無くなってしまいました。残念です。
それでは、次回をお楽しみに。