80歳に向けて・「新風来記」・・・今これから

風来居士、そのうち80歳、再出発です。

風来随想録 (7) 六然観

2015年06月03日 19時39分55秒 | 考える
2015年 (平成27年) 6月3日(水) 雨のち曇り

静かに雨が降る。

午前8時15分 ピース最後の1本に火を付ける。
静かすぎる部屋の中。

6月3日・・・雨の水曜日。
秒針が時を刻む。
時間が積もり重なっていく。

静かな朝だ。
タバコが短くなっていく。
空き缶に、最後の灰を落とす。
吸い殻を放り込む。


私は、自分の死について考えたことがない。
・・・いや、これは・・・? ・・・嘘だな!!

やがて来る死の前に、誰かのために何かしたい。
格好良く生きて、格好良く死んでいきたい。

これまで格好良く生き損ねた。 
せめて、格好良く死んでいきたいと思う。


他人のためにすることを億劫がるな。
相手のために自分の時間を提供する。
情報発信のみ・・・?
人との関係を構築する。


人には人の道がある。
そもそも私が人の役に立ちたいなどと
大それた事を考えるのが悪い。
私は自分自身の役にすら立ってはいない。


ふと弟を思う。
彼は自立したいと願っているのではないか。
そう考えたら、気がついた。
本当に自立したがっているのは、私自身だ。
私は彼に自分を投影させていただけなんじゃあないか?
だから彼を見て、何か歯がゆさを感じていたのだろう。


退職後、私は自由に生きる時間を与えられた。
言い換えれば、「放置」だ。

自由に行動する。
自由に考える。

自由とは、無数の、多過ぎる選択肢だ。
人は無数の選択肢から、たった一つだけしか選び得ない。


老人として、人間の中に埋没していく自由。
他人が道を示してくれるのを、じぃ~っと待っている自由。
あるいは、新宿の人混みに紛れて、自由を探し回る自由。

ひょっとしたら、どこかで 「自由」 に出会えるかも知れない。
すれ違う「自由」に気がつくことが出来たらいいのだが・・・。

自分を売り込む。
そんなこともあって良いのではないか。
もう先のないことだし、(いくら生き延びても、たかだか100年か)
思いつきで生きてみるのも悪くない。
見栄の恥のという年でもあるまい。

大体、私は何がやりたかったのか?
それは、どうしてだったのだろう?
改めて、考えてみる必要がありそうだ。

大量の情報を頭に流し込み、
濾過して、いらないモノはどんどん捨てていく。
 → 実際は、なかなか捨てられないのだが、
       そのくせ、すぐに忘れてしまう。

この所、老人老人と、連呼しているが、
まぁ、それはそれで、釣り合いが取れていると言えなくもない。

窓を開けると、いつの間にか、雨は上がっている。


六然観 (良寛)
超然として天に任せ
悠然として道を楽しむ
厳然として自らを慎み
靄(あい)然として人に接す
毅然として節を持し
泰然として難に処す