夫婦別姓・・・、いろいろ言われているが、
何かどうでもいいような気がしている。
結婚後、夫あるいは妻の姓を名乗る。
それは、ある意味、ペンネームと同じなのではないだろうか。
私は、個人が指定されるなら、それでいいような気がする。
無論、自分の名前には、それ相応の思い入れがあるだろうが、
所詮は呼び名にすぎない。
しかも、それは自分自身で決めたわけでもない。
親にしてみても、名前はいろいろ頭をひねって考えるが、
姓を変えることは出来ない。
もっとも、ペンネームは自由につけられはするが。
ニックネーム、あだ名
・・・これは何となく、嫌だな。
確かに個人を特定はするが、
たいてい、個人の気にしている容貌、性格を抽象している。
因みに、私のあだ名は 「こんにゃく」 と言った。
小児麻痺の後遺症で動きがクネクネしていたせいだろう。
教室、校舎内では、先生が一生懸命フォローしてくれた。
今でも感謝しきれない。
今は、どうしていらっしゃるやら・・・。
とは言うものの、あだ名は第二の氏名。
所詮は、呼び名に過ぎない。
呼ぶ方はどう考えていたかは知らない。
(多分、慣れで何も考えずに呼んでいたんだろう。)
しかし、さすがに進級するにつれ、次第にそう呼ぶ子も限られてきた。
こちらもそういうものだと慣れて、気にならなくなっていった。
かくて、小学3年、4年、・・・5年頃までかな?
「こんにゃく」 は私について回った。
話変わって、来年を、どう生きていくか?
多分、弟の考えは、
確かに、私は兄ではあるけれども、
これほどの馬鹿で役立たずの人間とは付き合うのが大変だ、
ということなんだと思う。
現状、無職・・・。
私に 「熱意」 があるだろうか?
やる気はある。
仕事が見つからないだけの話なのだ。
もっとも、熱意だけで、片づく問題ではない。
ある程度の賢さも技術もあってのことだ。
それがあってこそ、初めてものになる。
定年後に、再就職というのは、結構大変なのだ。
しかも私は、役職もないのに、66の誕生日まで使っていただいている。
人は生きたいように生きればいい。
勉強も、仕事も、結果としては、そのためのものだ。
人は生きたいように生きる。
そうあるべきなのだ。
興味があるなら、いくら歳をとろうが関係ない。
他人の眼も、その後の結果も、関わりなく、
実行していけばいいだけの話だ。
他人の眼が気にかかるのは、
結局は、自分自らが信じられずに、自己判断を、他人に頼っているだけのことだ。
何かどうでもいいような気がしている。
結婚後、夫あるいは妻の姓を名乗る。
それは、ある意味、ペンネームと同じなのではないだろうか。
私は、個人が指定されるなら、それでいいような気がする。
無論、自分の名前には、それ相応の思い入れがあるだろうが、
所詮は呼び名にすぎない。
しかも、それは自分自身で決めたわけでもない。
親にしてみても、名前はいろいろ頭をひねって考えるが、
姓を変えることは出来ない。
もっとも、ペンネームは自由につけられはするが。
ニックネーム、あだ名
・・・これは何となく、嫌だな。
確かに個人を特定はするが、
たいてい、個人の気にしている容貌、性格を抽象している。
因みに、私のあだ名は 「こんにゃく」 と言った。
小児麻痺の後遺症で動きがクネクネしていたせいだろう。
教室、校舎内では、先生が一生懸命フォローしてくれた。
今でも感謝しきれない。
今は、どうしていらっしゃるやら・・・。
とは言うものの、あだ名は第二の氏名。
所詮は、呼び名に過ぎない。
呼ぶ方はどう考えていたかは知らない。
(多分、慣れで何も考えずに呼んでいたんだろう。)
しかし、さすがに進級するにつれ、次第にそう呼ぶ子も限られてきた。
こちらもそういうものだと慣れて、気にならなくなっていった。
かくて、小学3年、4年、・・・5年頃までかな?
「こんにゃく」 は私について回った。
話変わって、来年を、どう生きていくか?
多分、弟の考えは、
確かに、私は兄ではあるけれども、
これほどの馬鹿で役立たずの人間とは付き合うのが大変だ、
ということなんだと思う。
現状、無職・・・。
私に 「熱意」 があるだろうか?
やる気はある。
仕事が見つからないだけの話なのだ。
もっとも、熱意だけで、片づく問題ではない。
ある程度の賢さも技術もあってのことだ。
それがあってこそ、初めてものになる。
定年後に、再就職というのは、結構大変なのだ。
しかも私は、役職もないのに、66の誕生日まで使っていただいている。
人は生きたいように生きればいい。
勉強も、仕事も、結果としては、そのためのものだ。
人は生きたいように生きる。
そうあるべきなのだ。
興味があるなら、いくら歳をとろうが関係ない。
他人の眼も、その後の結果も、関わりなく、
実行していけばいいだけの話だ。
他人の眼が気にかかるのは、
結局は、自分自らが信じられずに、自己判断を、他人に頼っているだけのことだ。