80歳に向けて・「新風来記」・・・今これから

風来居士、そのうち80歳、再出発です。

駅前広場で

2016年02月03日 18時30分30秒 | 考える
いつも、ここで出会う人と、また、ベンチを共にしている。
黙って相棒の話を聞いている。

「ただ飯を食わせてくれるところがある。」 と言う。
私に仕事を紹介したいらしい。

カップ酒を片手に、とりとめのない話を続ける。 
いつもと違うと、何故か気が大きくなる。
口も軽くなるらしい。

見知らぬ人を前にしていると、こちらも気持ちが軽くなる。
相手は真剣なのかもしれぬが、こちらは気軽に聞いていられる。
いずれ、酒の上の話・・・。
人には、それぞれの生き方、ものの考え方がある。

しばらくして、こちらに脈がないと見たのだろう、
コップ酒を掴んでベンチを変えた。



70歳、今の私は、目的、目標が失われてしまった状態だ。 

日々が空しく感じられてならない。
生きている、ただそれだけで疲れてしまうような・・・。
そんな気がしている。

何でも良い。
仕事が、やることが欲しい。
共感して、心から打ち込めるものが欲しい。
 

俺たちは何を共有しているのか?
それ以前に、何かを共有しているのか?


いつもの珈琲店。 
私の向かいは、いつも空席だ。  
いつまでたっても、席が埋まらない。


しかし、まぁ、この容姿では無理のない話だろうが。 

何とも寂しい話だ。
いずれ、形あるもの、生あるものは、
総てが、時を経て、失われていくのが宿命だ。

私は、何故 「連れ合い」 を見つけられなかったのだろうか? 

私は、他人にとって、すでに過去の人間になってしまったのだろうか?
「否!!」 と言いたいところだが・・・正直、全く自信がない。
何も分からない。


ことさら孤独を気取ったわけではない。
たまたま私に出会いがなかったという、
誰ひとり近づいてこなかったというだけの話だ。

とは、正確ではないかもしれない。
私のほうで相手を求めようとしてこなかっただけのことかも。


出会いとは、一方通行では起こりえない。
同時にではないにしろ、相方が求め、また、求められねばならない。

私自身が探し求める努力を怠っていたからだ。
私は、誰が、そして何が欲しかったのだろうか?


総てが忘れ去られ、そこから新しく蘇る。
フェニックス・・・不死鳥か。
一度、忘れ去られ、炎の中から再生、いや新生する。
 

一度くらいは、激しく燃え尽きてみたいものだ。
そうすれば、ひょっとして、フェニックスのように若返れるかも知れない。


あすこそは・・・。
いや、期待するな、あすは未知の時間だ。

何もせずに、出来ることなどありはしない。

結局、私は、単なるものぐさに過ぎないのだろう。


見た目に騙されてはいけない。
大事なもの、必要なものは、外見ではない。

と、これは見栄えのしない自分への言い訳。

私が、相手の目を避けるのは、やはり、自分に引け目を感じているのだろうか?

多分、いずれ私は、誰からも忘れ去られて消えていく。
いや、忘れるも何も、記憶すらされぬままに消えていく存在でしかない。


予定の定まらない不安。
自分の持ち時間の浪費。

~がない、定まらないというのは、いずれにしても不安材料でしかない。



日本という国では、一般の傾向と異なることをする、自立的に動く、というのは危険である。  常に全体のなかに自分を際立たせないように位置づけておかねばならない。  と言っても、日本人は個性がないとか、自分のことを考えないというのではない。  一体感的関係を優先させながら、そのなかで自分の欲することをしたり、 個性をあらわすことを考える。 
・・・(略)
大切なことは、合理的論理的に思考し、その自分の考えを適切に相手に伝える、ということである。     
河合隼雄先生 『「人生学」 ことはじめ』 より