獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

山崎浩子『愛が偽りに終わるとき』第5章 その5

2023-01-03 01:34:26 | 統一教会

山崎浩子『愛が偽りに終わるとき』(文藝春秋1994年3月)
より、引用しました。
著作権上、問題があればすぐに削除する用意がありますが、できるだけ多くの人に読んでいただく価値がある本だと思いますので、本の内容を忠実に再現しています。
なお、漢数字などは読みやすいように算用数字に直しました。

(目次)
□第1章 「神の子」になる
□第2章 盲信者
□第3章 神が選んだ伴侶
□第4章 暴かれた嘘
■第5章 悪夢は消えた
■あとがき



霊感商法に励むのはまじめだからこそ
統一教会の根っこと幹は明らかに腐っている。このままいけば、枝や葉にも毒素がまわるか、枯れ果てるか、もしくは切り倒されるだけである。
外部からのお金集めが困難になれば、あとは信者に頼るしかない。信者の借金は膨らむ一方であろう。ノルマを達成できずに精神に異常をきたした教会員は、早々に家に帰らせるという。それまでは、どんなに親が「娘に会わせてくれ」と訴えても、名前まで変えて地方を転々とさせておいて、使えなくなったら教会から追いだす。そういう人を見捨てるのが、統一教会の愛なのだろうか。
もし統一原理が真理であるとするならば、堂々と牧師さんと話をしてほしい。
逃げなきゃ守れない信仰や、必死でしがみついていなければ貫けない信仰は、やっぱりおかしい。
そして統一原理が正しければ、霊感商法もニセ募金も正しいことであるはずだ。だとしたら統一教会は、それらすべてを統一教会でやっていると明言すべきである。それが救いなんだと訴えるべきだ。
私は以前、幹部に、「どうして経済活動が統一教会とまったく関係ないというんですか。統一原理からすれば正しいことではないんですか」と質問したことがある。
その時の答えは、「そう認めたいんだけど、裁判がからんでいるから」ということだった。霊感商法の裁判がいくつも進行中なのである。
そう言われると、統一教会のマイナスになることは、やはりできないんだと納得せざるを得なかった。
しかし、その裁判の被告は、すべて統一教会の一信者である。アベルの指示により、統一原理にのっとって霊感商法(本人たちはただの経済活動だと思っている)をしているのである。
「霊感商法をやめないと、それにかかわっていないまじめな信者さんがかわいそう」と思う人もいるようだが、それは違う。まじめな信者だからこそ、まじめに霊感商法をやっているのである。
この世の常識に惑わされて、それを行わないことは、神の摂理を遅らせることになるのだから。
統一教会は絶対に表に出ない。前面に立たない。都合の悪いことは、すべて信者の責任にする「トカゲのしっぽ切り」みたいなことは、素晴らしい宗教のやることではない。


今、生かされていることに感謝する
現在の私は、神を信じていないわけではない。私たちには計り知ることのできない、大きなエネルギーがあるのではないかという想いは、統一原理を学ぶ以前と変わらない。
ただ、統一教会で教えられた“神”の存在とはまったく違うものである。献金をすること、儀式をすることは、私にとっては無意味なものとなった。お金や儀式、形式が大切なのではなく、自分が今こうして生かされているのを感謝することが大切なのだと思う。
そして、占いはもうまっぴらごめん。変な因縁話もいらない。霊界があるかないかは誰にもわからないことだ。先祖をうやまう気持ちはあったとしても、そんな見えない霊界、わからない霊界のために、心を縛られたくはない。
統一教会が言うように、脱会したら地獄へ堕ちるというのなら、私は喜んで地獄へ行こう。人をだまして天国へ行くより、だますことなく地獄へ行った方がましだ。
人をだますこともよしとする“神”など、私はいらない。
この一年あまりのことを、何度も忘れたいと思った。消せるものなら消し去りたいと。世の中に、こんなバカはいないと自分で自分を笑った。
でも今は、決して忘れてはいけないことだと思っている。人生勉強というには、あまりにもみんなに迷惑をかけすぎ、多くの人を傷つけてしまった。私のせいで、どれほど多くの人の人生を狂わせてしまったのだろう。実際に、私が統一教会は素晴らしいと証をしたために、今もまだ、その時の言葉を胸に、一生懸命神のため、メシアのためと歩んでいる人たちがたくさんいるのである。そのことを思うと、心が痛む。だから、この過ちを決して忘れることなく、歩んでいかなければと思う。
私は今、素晴らしい人たちに囲まれて、本当に幸せである。何の宗教を信じていなくても、あふれるような愛を持ち、温かくやさしく強い人たちが、たくさんいることを改めて感じている。そんな仲間たちと、苦しみを乗り越えながら、共に人生を語り合えることに感謝している。
これから、与えられた人生を自分自身でひとつひとつ模索しながら、自分に正直に生きていきたいと思う。ありのままの現実を真っ正面から受け止めて、そしてまた切り開いていきたいと思っている。
ずいぶん回り道をしてしまった。しかし、今までも何度も回り道をし、立ち止まり、倒れながらも、またはい上がり、歩いてきた。だから今度もきっと歩いていけると思う。
今、私は心が解放され、やっと心の底から笑うことができる。
本来の自分と、統一教会員である自分の、「二人の私」の間でゆれ動くこともない。本心を押し殺したまま、歩んでいく必要もない。
一人の人間として生かされている----この幸せを胸に、力強く一歩を歩きだしたところである。

■あとがき

あれから一年がたった。
連日のようにワイドショーや新聞、雑誌に顔を出し、取り沙汰されていた日々から解放され、やっと平穏な毎日を手にした私にとって、この本を書くことは、自分で自分の首を締めるものではないかとも思われた。
できれば、人々の記憶からも自分の記憶からも、早く消えてほしいと思っていたからだ。
けれど、この過ちをきちんと認めなければ、再出発できないと思った。なぜ、私は「統一教会」という迷宮に引きこまれ、自分をなくしていったのかを、再度考えてみたいと思った。これから薄れていくであろう記憶を、しっかりと留めておかなければならないと思った。
誰よりも、自分への戒めのために、心の解放のために、ひとつひとつの記憶をたどりながら、書きつづることにした。
そして、こうして書き終えた今、私の中に本当に温かな穏やかな、それでいて強い希望の光が与えられた。
ただ、これで問題のすべてが解決したわけではない。統一教会が起こす社会悪がなくなったわけでもなければ、それによって苦しむ人がいなくなったわけでもない。依然として多くの問題が残されたままなのである。
この本を読んで、一人でも多くの統一教会員が自分を振り返ってくれれば……と願っているが、その願いがおそらく無駄に終わるだろうということもわかっている。それほどに、一人の人間が「自分」を取り戻すことは、容易なことではない。
だからこそ、私を心の呪縛から解き放ってくださった牧師さんや、キリスト教関係者の方々、元信者の方々、そしてご協力いただいた多くの方々の、みかえりを求めない愛に対して、感謝せずにはいられない。また、身内ではあるが、支援してくださった親戚の方々、兄や姉に、ここで改めてお礼を言いたい。
皆様に対して、「ありがとう」という言葉をいくつ並べても、その想いを伝えるには十分ではない。だから、これからも自分を大切に、力強く生きていくことで、感謝の言葉にかえたい。

1994年2月

                      山崎浩子


解説
第5章では、洗脳が解けた山崎浩子さんが、統一教会の間違いを冷静に分析しています。

「あとがき」で、山崎浩子さんはこう書いています。

誰よりも、自分への戒めのために、心の解放のために、ひとつひとつの記憶をたどりながら、書きつづることにした。
そして、こうして書き終えた今、私の中に本当に温かな穏やかな、それでいて強い希望の光が与えられた。

そして、多くの人がこの本を読むことを望んでいます。


獅子風蓮


山崎浩子『愛が偽りに終わるとき』第5章 その4

2023-01-02 01:55:10 | 統一教会

山崎浩子『愛が偽りに終わるとき』(文藝春秋1994年3月)
より、引用しました。
著作権上、問題があればすぐに削除する用意がありますが、できるだけ多くの人に読んでいただく価値がある本だと思いますので、本の内容を忠実に再現しています。
なお、漢数字などは読みやすいように算用数字に直しました。

(目次)
□第1章 「神の子」になる
□第2章 盲信者
□第3章 神が選んだ伴侶
□第4章 暴かれた嘘
■第5章 悪夢は消えた
□あとがき



別れの言葉は「またはないよ」
勅使河原さんの、対策をたてるための聞き出しに答える必要はない。私が彼に免疫注射を打つわけにはいかないのだ。
ただ、本当に統一原理が真理かどうか真剣に問いつめる気持ちがあるのなら、一人で牧師のところへ行ってほしかった。
以前、親を納得させるために牧師のところに行った、そんな気持ちと同じように、私を納得させるために行くというのなら、その必要はない。心を開いて、じっくり、ゆっくり聞けば、彼もわかるはずである。T子にできたことが、彼にできないはずはないと信じていた。
私が脱会記者会見をした時は、彼も、
「こうなったら、ぼくが牧師のところへ行くしか手はないでしょう。でも、ぼくが堕ちたら、元も子もないんですけどね」
と、その気になっていたようだ。でも、みんなからよってたかって止められ、神山名誉会長から、
「今はやめた方がいい。対策をちゃんと練ってからにした方がいい。勅使河原くんが、前にどんな説得を受けたのか思い出して、話を聞かせてくれ」
と言われ、その機会を逸したという。
彼は、狭い店内に響きわたるような大きな声で、教義の正しさをまくしたてていたが、話はどこまでも平行線だった。
私はおしぼりを三角柱にしたり、まるめたり、何度も何度も繰り返した。
「とにかく、私は統一教会にも、勅使河原さんの元にも絶対に戻りませんから。そのことはハッキリさせとこうと思って」
この言葉だけは、面と向かって言わなければならなかった。
「それはもう、ぼくからは何も言えないから……」
牧師のところへ行ってほしいという私の願いは、彼には届かなかった。二人の新居から私の荷物を引き揚げた際に渡した手紙、私のありったけの想いを託した手紙を、彼はテレビのインタビューで「ペラ紙一枚のメモ」と表現したぐらいだから、私の願いなど届くはずもなかった。
話の焦点が合わぬまま時が過ぎ、私たちは別れた。
「じゃあ、浩子さん、またね」
何もわかっていない彼の言葉に、
「またはないよ」
と私は答えた。
私と彼との接点はもう何もない。

 

“愛”とは両親と多くの人に数えられるもの
統一原理を信じる者と、信じていない者とでは、正反対の考えを持つ。どこにも歩みよれる材料はない。彼らが私たちのためにと思うことは迷惑でしかないし、私が彼らに対して脱会を願うことは、サタンに惑わされた行為でしかないのだから。
これで、やっと終わったんだなと思った。
彼はまだ、今までと変わりなく私を愛していると言うだろう。自由恋愛が禁止されている統一教会にあって、再祝福を受けない限り、そう言い続けるのも当然だ。
メシアである文鮮明に「永遠の相対者」と言われた私を、そうそう簡単にあきらめられるはずがない。
それは、私個人を愛しているのとは違う。私自身も、彼個人を愛していたのではなく、神とメシアを信じている統一教会員である彼を愛し、信じていたのだから、今はそれがよくわかる。
統一教会では、父母の愛、子女の愛、夫婦の愛を説く。とても素晴らしいことを説いているじゃないか、と統一教会員は言うだろう。だから、それさえも私が否定するのかと不思議でならないのだろう。でも、そんなことは統一教会じゃなくても、どの宗教だって言っている。何を唱えているかではなく、何をやっているかが問われるべきだろう。
それに、“愛”は私の両親が教えてくれたものであり、私が生きてきた中で、多くの経験を通して、多くの人たちによって教えられてきたものである。
美しい言葉を並べたてて、裏では人の苦しみも神の摂理の前には仕方ないのだと考える人間にしてしまう統一教会は、エバを誘惑したヘビそのものではないか。
「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた」(創世語第三章六節)
そのごとくに、私はサタンの誘惑に負け、神のようになれると思い、統一教会の“神”を神としてしまっていた。そして人類の救い、神の救いのためにと言いながら、ウソをつくのも、人をだますのも平気な人間になり、サタンの手に堕ちていく。人のために、新体操スクールのために、とがんばった結果、私はみんなに迷惑をかけることしかできなかった。
私は、母が今は亡き存在であってよかったと思った。もし、母が生きていたら、私自身が母を死に追いやっていただろう。
私の母は、「人から何を言われてもいい。ヒロコが幸せなら、それでいいよ」という母ではなかった。「どんな生き方をしてもいい。でも人に迷惑をかけるのだけは、やめなさい」そういう母だった。
だから、私の一連の騒動に、生きている間に巻きこまれたなら、母は私を絶対に許さなかっただろう。
「おまえだけが幸せなら、それでいいと言うのか。人が苦しんでいるのを見てもなんとも思わないのか。おまえは何もやってないというが、霊感商法をやってなければ、それでいいと思うのか」
母はこう言って、涙を流して私に脱会をせまったに違いない。


マインド・コントロールの恐ろしさとは
勅使河原さんは、ある講演の中で、
「浩子さんは、統一原理の美しさをわかっているんだけども、言った(公表した)手前、(統一教会に)戻れないでいる。彼女はだから今、とても苦しんでいる」
と信者に向かって話し、彼女はきっと戻ってくるだろうと彼らを元気づけている。
私は彼に言ったはずだ。
「統一原理なんかメッチャクチャだ。絶対に戻らない」と。
彼が信者に向かって言ってることこそがウソであり、情報コントロール、マインド・コントロールであるということを彼は知らない。
私が苦しんでいるように見えるのは、彼の願望であり、そうでなければ妄想なのである。妄想の世界に生きている彼にとっては仕方のないことなのかもしれないが、決して真実ではないということを、今、明確にしておきたい。
「お父様は首になわをつけてでも(私を)引っぱってこいとおっしゃっている」
と、同じ講演で彼は言っている。
統一教会が「信教の自由」を訴えるなら、私に二度と信仰を強要しないでほしいと思うのは間違いだろうか。
彼や統一教会員は、マインド・コントロールなんか存在しないと言っている。
しかし、マインド・コントロールとはどういうことなのか、きっと本を読んだだけではわからないだろう。マインド・コントロールは現実に存在する。いや、この世はマインド・コントロールだらけだろう。実際に、私は新体操の現役時代、自分で自分をコントロールしていた。また、心理療法として使われることだってある。だから、それらすべてが悪いわけではない。私たちが問題にしなければならないのは他人が他人を、そっとわからないようにしてコントロールし、悪用することである。
私がマインド・コントロールを訴えると、自己正当化していると言われても仕方がないが、彼ら統一教会員の末端信者がいい人であって、いいと思って霊感商法をしていることを知ってほしいだけである。マインド・コントロールの手にかかると、人さえも簡単に殺せてしまう、その恐ろしさを知ってほしいと思うのである。
ただ、マインド・コントロールであろうが、何であろうが、信じて行動したのは自分自身である。その責任を考えたら恐ろしくなるが、だからこそ統一教会は善をふりかざして悪を行う集団として、その罪悪性を訴えずにはいられない。

 

(つづく)

 


解説
第5章では、洗脳が解けた山崎浩子さんが、統一教会の間違いを冷静に分析しています。

彼や統一教会員は、マインド・コントロールなんか存在しないと言っている。
しかし、マインド・コントロールとはどういうことなのか、きっと本を読んだだけではわからないだろう。マインド・コントロールは現実に存在する。

このように、山崎浩子さんは、マインド・コントロールの恐ろしさを教えてくれています。


獅子風蓮


山崎浩子『愛が偽りに終わるとき』第5章 その3

2023-01-01 01:22:48 | 統一教会

山崎浩子『愛が偽りに終わるとき』(文藝春秋1994年3月)
より、引用しました。
著作権上、問題があればすぐに削除する用意がありますが、できるだけ多くの人に読んでいただく価値がある本だと思いますので、本の内容を忠実に再現しています。
なお、漢数字などは読みやすいように算用数字に直しました。

(目次)
□第1章 「神の子」になる
□第2章 盲信者
□第3章 神が選んだ伴侶
□第4章 暴かれた嘘
■第5章 悪夢は消えた
□あとがき



T子を利用するための執拗な説得工作
私が「今、姉と叔父、叔母とで私の一生の問題について話し合っております。もう、しばらくの間、考える時間をください」と、マスコミにメッセージを流したあと、彼女は教会の人にこう言われた。
「私もやめますってT子さんがマスコミを通して言えば、浩子さんは接触してくるんじゃないかしら。そういうふうにしたら?」
T子も同じような考えをもっていたという。
テレビで有田芳生氏が「彼女も統一教会員ですから」と語気を強めて言っていたことがあり、それがネックとなって自分に連絡してこないんだったら……と考えたのだ。
けれど、こんな中で、「やめます」といったところで信じてくれるはずがないと思い直し、その案は没にしたのだという。
そのうち、彼女はまた教会の幹部から呼び出しを受けた。
「実は教会としても、手をつくしたんだけど、もうお手上げ状態だ。人手もいないし、お金も相当使っちゃったし、疲れもピークだし、自分たちの力じゃ無理だから、法的手段をとりたい。勅使河原くんが、S牧師とお姉さんらを告発するから、あなたは会社として被害額を出して上申書を添付してほしい」
たしかに、私がいなくなり騒ぎが大きくなったことで、スクールでは退会者が出ていた。しかし、彼女は法的手段をとることには反対だった。
彼女が、それはできない、と断ると相手の形相が変わって、
「あなたは浩子さんを助けたくないのか」
と言われたという。彼女はこう訴えた。
「もちろん助けたいけど、これを提出して100パーセント戻ってくるっていう確証はないじゃないですか。勅使河原さんだって、義理の兄弟になるかもしれないのに、告発なんかしたらしこりが残るでしょ? 告発するんだったら、まったく関係ない私がやった方がいい。でも私はやる気はない。山崎がいちばん心配しているのはスクールのことだと思うし、この前のメッセージがスクールのことにふれていないのは、本人の最大の配慮だと思う。一言でもスクールに言及すれば、マスコミがスクールに殺到するのは目に見えてるし、迷惑をかけたくなかったんだと思う。それなのに、スクールのことをだしに告発なんかしたら、本人の一生の負担になる。これ以上、子供たちを巻きぞえにしたくない。それは本人の本意ではないと思う」
教会は、「これは強制じゃないから」と何度も言いながら、どのくらい被害が出たかはメモでかまわない、あとはすべて教会がやるから、ハンコだけ渡してくれればいいという。彼女は、
「やるんだったら自分で弁護士を頼む」と断った。
「これを統一教会ふうにいうと、本心が納得しないっていうんですかね」
彼女の言葉に、幹部の人は、用事があるからと出ていった。その頃から彼女のところへは、あまり情報が伝わらなくなったという。
私は彼女がいいかげんな信者でよかったと思った。統一原理をあまり学んでいなかったから、正常な判断力が残っていたのだ。
記者会見の日、神山名誉会長たちとTBS前を通りかかった時、彼女は不審な人々の群れを見つけて叫んだという。
「あいつら、変! すっごい変な目つき! あれ絶対おかしいですよォ。元信者なんじゃないですかあ?」
それに対して、神山名誉会長以下車に乗りあわせていた統一教会員たちは、無言で何の反応もしなかったそうだ。
そう、彼女が「絶対、変だ」といった群衆は元信者ではなく、現信者だったのだ。現信者をTBS近くに集合させていたことは幹部たちは知っていたはずだから、彼女の言葉にどう答えていいのかわからなかったのだろう。
“信じる者”が起こす行動は、時として不気味な様相を呈する。
教会の人たちは、本当に私のことを心配してくれていたのだろう。そのことは疑いもない。しかし、常軌を逸した言動が多すぎた。彼女と私は、教会に対して不信感をつのらせるばかりだった。


待っていてくれたスタッフたち
私たちは、しばらくS牧師のところに滞在したあと、やっと新たな第一歩を踏み出した。新体操スクールとスタッフの件について、話し合いを進めていかなければならない。
脱会会見のあと、スクールの共同経営者であるN社の「よかった。一日も早く戻ってきてほしい」という公式コメントを新聞やテレビで目にした時は、とてもうれしかった。けれど、私はまだエネルギーが回復していなくて、無気力な状態が続いていた。みんなに申しわけないという気持ちが先立ち、私が指導を続けることは、また迷惑をかけ続けることのようにも思えた。
スタッフのみんなに会った時、涙がこぼれて仕方がなかった。「すみませんでした、すみませんでした」と言い続けるばかりだった。
「迷惑をかけたというんだったら、責任をとるというんだったら、私たちともう一度最初からやり直してください」
スタッフたちの温かな言葉に、また涙があふれた。拒否されるとばかり思っていたのに、こんな私にもう一度ついてきてくれるというのか。
「ありがとう」
無気力状態だった私の心の中に、ものすごい勢いで活力がわいてくるのを感じた。この仲間たちと、やり直すことができたなら、素晴らしい新体操スクールとなることだろう。新たなやる気が、身体中を埋めつくした。
しかし、結局のところ、私は指導を離れなければならなかった。昨年から騒ぎを起こし通しで、迷惑のかけっぱなしだったのだから、企業としてはそれも当然のことだろう。
「コーチ、なんでやめちゃうの?」
子供たちの、そんな声には何とも答えようがなかった。私に戻ってくれるよう署名運動までしてくださったお母様方にもただただ深く感謝するばかりだった。
N社での新体操スクールの指導はできなくなったが、私の新体操に対する想いは消えていない。
いつの日か、また子供たちの笑顔に囲まれながら、新体操を愛し続けたいと思った。

 

勅使河原さんとの再会
心残りだった勅使河原さんとの対面を果たすことができた。
8月上旬。
統一教会員である二番目の姉が、私に会いたいと上京してきた。
姉は私の気がかりのひとつだった。しかし、姉の心のガードが固い今、話せることは何もなかった。が、姉である以上、話をしないわけにもいかない。
近くの駅で待ち合わせをし、私はT子と一緒に出かけることにした。
駅の切符売り場の前に、姉は一人で立っていた。私は手をあげ、「やあ」と言った。脱会会見以来、手紙のやりとりはあったが、会うのは初めてのことだった。
姉は無言で私たちのあとについてきた。T子は喫茶店を探すために、先に走っていった。続いて私が歩き、そのあとを歩く姉。
先に行ってしまったT子の行方を捜しながら、無言のまま歩き続けた。
と、横断歩道の向こう側で、大きく手を振るT子の姿。信号が青に変わるのを待って、T子のいる方に歩きだすと、T子もこちらに向かって歩いてくる。
横断歩道の真ん中で、T子が言った。
「テッシーをみつけたゾ」
「そう、やっぱりね。一人で来るわけないと思ったんだ」
統一教会員であれば、この時期、反牧を怖がらないわけがない。私が彼らに取り囲まれていると思っているみたいだから、私に会いにくるのに一人で来るはずがなかった。
いつかは対面して話をしなければと思っていた私は、勅使河原きんが乗っていたという車の方へ歩きだした。
車には、勅使河原さんと、もう一人、統一教会の幹部の女性が乗っていた。
私は車の窓をコンコンと軽くたたいて、
「何で隠れてるんだヨ」
と言った。
「久しぶりねえ」
幹部の女性は、脱会記者会見などなかったかのように笑っている。
彼もアハハと頭をかきながら、車から降りてきた。
どうせならみんなで話そうということになり、私たちはT子が見つけたイタリアン・レストランへ向かった。店の隅のテーブルにつく。
「こうやってると、昔に戻ったみたいだなあ」
「ホントねえ」
勅使河原さんと幹部の女性は、興奮しているように見える。
「何が間違いだったっていうの?」
彼は聞くが、それに答えるわけにはいかなかった。脱会記者会見のときも具体的には答えていないし、この本の中でもほとんど明らかにしていない。
なぜなら、具体的に話せば、教会側は、すぐさまそれに理由づけするための対策をたてるからである。どんなことに対しても、統一教会流の理由づけがされれば、何を聞いても驚かなくなる。
また、聞いたことがある話なら、それがどんなに悪いことでも否定の対象にはならない。たとえていえば、免疫注射を打たれるようなものである。
ずっと前、私は統一教会が銃を販売していたことを幹部から聞いたことがあった。
「ぼくは、いろんなことを聞いても、たいがいのことには驚かなかったけど、お父様に銃を販売しろと言われた時だけは、不信しそうになりましたよ。お父様は、なぜ銃を売るのか、その理由はお話にならないんですよ。いつもあとから言われるんです。お父様についていくのは大変ですよ。察しなきゃいけないんですからね」
世界平和を願っている統一教会が、なぜ銃を売らなきゃならないのか、私にはわからなかった。
しかし、今までも、お父様がなされようとしていることに対し、教会員が察することができずに、お父様とひとつになれなかったことで、神の摂理が延長してきたことを聞いていたので、銃を売るということに対しても、不信感を抱かなかった。
「お父様に銃を販売しろと言われた時だけは、不信しそうになりましたよ」
その言葉を聞いただけで、私は不信してはならないと思ったのだ。
統一教会では、私に新しい話をするたびに、必ずといっていいほど「これを聞くと、あなた、つまずくかもしれないけど……」と前置きしてから話をされた。その時点で、私の心は「絶対に何を聞いても驚かないぞ。不信しないぞ」と、固くガードされていた。
一度聞いた話や、理由づけのされた話などは、なんでもない話に変わってしまう。
聖書の引用が違おうが、ねじ曲げていようが、しまいには教理を解説する原理講論でさえ、矛盾があってもかまわなくなる。元信者が告発することは、すべてウソだと思い、統一原理は間違っててもメシアは正しいからいいんだという話になる。

 

 


(つづく)

 


解説
第5章では、洗脳が解けた山崎浩子さんが、統一教会の間違いを冷静に分析しています。

「何が間違いだったっていうの?」
彼は聞くが、それに答えるわけにはいかなかった。脱会記者会見のときも具体的には答えていないし、この本の中でもほとんど明らかにしていない。
なぜなら、具体的に話せば、教会側は、すぐさまそれに理由づけするための対策をたてるからである。どんなことに対しても、統一教会流の理由づけがされれば、何を聞いても驚かなくなる。
また、聞いたことがある話なら、それがどんなに悪いことでも否定の対象にはならない。たとえていえば、免疫注射を打たれるようなものである。

この個所は、カルトが信者の不信をうまくかわす方法論を述べていて、貴重な情報だと思いました。
こうやって、信者は言いくるめられていくのですね。

 

ずっと前、私は統一教会が銃を販売していたことを幹部から聞いたことがあった。
「ぼくは、いろんなことを聞いても、たいがいのことには驚かなかったけど、お父様に銃を販売しろと言われた時だけは、不信しそうになりましたよ。お父様は、なぜ銃を売るのか、その理由はお話にならないんですよ。いつもあとから言われるんです。お父様についていくのは大変ですよ。察しなきゃいけないんですからね」
世界平和を願っている統一教会が、なぜ銃を売らなきゃならないのか、私にはわからなかった。

おかしな話です。
京大出のインテリの勅使河原さんでも、こんなふうに言いくるめられてしまうんですね。

 


獅子風蓮


山崎浩子『愛が偽りに終わるとき』第5章 その2

2022-12-30 01:25:15 | 統一教会

山崎浩子『愛が偽りに終わるとき』(文藝春秋1994年3月)
より、引用しました。
著作権上、問題があればすぐに削除する用意がありますが、できるだけ多くの人に読んでいただく価値がある本だと思いますので、本の内容を忠実に再現しています。
なお、漢数字などは読みやすいように算用数字に直しました。

(目次)
□第1章 「神の子」になる
□第2章 盲信者
□第3章 神が選んだ伴侶
□第4章 暴かれた嘘
■第5章 悪夢は消えた
□あとがき



T子の統一教会への抵抗
私は、彼女から、私がいなくなってからの様々なことを聞いた。
私の失跡が表ざたになる前日の夜中、某スポーツ新聞の記者を東京・松濤の本部に呼んで、勅使河原さんが詳細を説明したのだという。その部屋にはムービーカメラが設置されていて、T子たちは別の部屋のモニターで、その模様を見ていたのだそうだ。
私は、自分も行ったことがあるかもしれないその部屋に、カメラが設置されていたことを思うと、薄気味悪くなった。
彼女は、私の失跡を公表する記者会見は勝手にやらないでくれ、と教会の人に頼んでいた。事が大げさになると、私が大事に思っているスクールに迷惑がかかると思ったからである。
でも、彼女がまた松濤本部に呼ばれた時は、もう各社に記者会見を行う旨のFAXを流したあとだった。
教会はこの「失跡記者会見」の時に、統一教会の敵である「被害者弁護士連絡協議会」の弁護士を会場から追い出した。彼女はそれを見て、私が記者会見をやる時には、反対に統一教会の関係者が追い出されても仕方がないなと思ったらしい。
私の机の上に置いてあった婚姻届は、教会幹部の一人が「書いて出してしまえ」と言ったそうである。さすがにそこまではしなかったが、教会は、私が以前に書いた統一教会を賛美する手記も出版しようとしていた。彼女は、私がいなくなってすぐに、手記を一部でも使ってはならないと、会社の人間として教会の人に釘をさしていたにもかかわらずである。
「本の著作権は、本人にある。いったい、どうなってるんですか」
と彼女はかみついた。教会の人は、
「浩子さんが、どれだけみ言が素晴らしいと思っていたか知らせるべきだ」
という。そして、
「あなたが会社の人間としてそう言うのはわかるけど、御言を聞いている人間としてはどうなの?」
と問いただされた。統一教会員として一番に考えなければならないことを指摘されたのだ。彼女は一瞬ひるんだが、
「統一教会は、山崎が堕ちると思っているんですか? 山崎が出てきてから、“拉致・監禁”まで入れて出せばいいじゃないですか。山崎がいない時に中途半端な形で出すのはおかしいですよ」
と答えた。私の脱会をいちばん信じていなかったのは彼女だったのかもしれない。


教会側の必死の捜索
統一教会は、私の居所を知りたいと、多種多様の手を使った。S牧師には、はやくからあたりをつけていたという。
一度はその場所を発見して、“助けよう”と、人集めのためにその地域にFAXを流したらしい。
「百人ぐらいで行ったんだけど、踏みこんだら、もぬけの殻だったそうよ。どうも内部にスパイがいるみたいなの。対策本部の方もがっかりしているそうよ」
そんなふうに、T子は聞いていた。「内部にスパイがいるようだ」ということを、みんな警戒していて、彼女も誰を信じていいのかわからなくなっていった。
「それねえ、私もちょっと聞いたけど、全然見当違いのところに踏みこんだんだよ。そんなところにはいなかったもん」
私が言うと、彼女は「ア、ソウ」とあきれていたが、私の失跡後は、いつも怯えるようになったのだという。
私がいなくなってすぐに、彼女は、
「(反牧に狙われているのは)次はあなたの番よ」
と、何人もの教会関係者に言われた。24時間体制のボディガードをつけましょうかと言われ、さすがにことわったものの、車のバンを見るとビクビクした。反牧か、そうでなければマスコミじゃないかと不安をつのらせていたのだ。
教会内部も、混乱をきたしていたという。各地からも、いろんな情報が入ってくる。
本部では「お前たちがしっかりしてないから、こういうことになるんだ」と信仰の先輩方から怒られているというし、電話が殺到し、パニックになっていた。
彼女も、神に近いはずの幹部の人たちが、お互いに怒鳴り合っている様子を見て、こういう人たちが中心でやっているんじゃあ、まとまるものもまとまらないなと不信感を持った。
各地で啓示が下りたといって、本部に次々と連絡が入る。
断食をしていて身体が弱っている。黄色い錠剤を飲まされていて、身体が思うように動かなくなって、このままじゃ大変だ。毎日、よってたかって原理を捨てろといわれている。琵琶湖のあたりだ。京都だ。和歌山だ。
各地での“啓示”がおりるたびに、本部ははやく助けなければと翻弄された。
そして霊能師のM先生が、T子に電話をしてきた。
「祈祷してるんだけど、サタンがガードしていて、元信者たちが浩子さんが堕ちるようにと祈っているから、なかなか祈祷が届かないのよねえ。元信者は、元信者だけあって、祈祷してろって言ったら、ずっと祈祷してるからね」
彼女は、「でも元信者より現信者の方が多いんじゃないんですか. こっちには神とメシアがついてるじゃないんですか」と純粋に答えた。
M先生は「あら、そうねえ」と言って電話を切ったという。

 

「自己犠牲」と「出世」の矛盾
別な時、またM先生から連絡が入った。
霊能者にも得手、不得手があるから、必死で祈っているんだけど居場所がわからない。それで、いい霊能者を知らないか、ということだったらしい。
「わかりました。聞いてみます」と彼女は言い、その後ある人に紹介された霊能者を、M先生に紹介した。その霊能者も同じ教会員だった。
M先生はその人に連絡を入れたあと、
「電話をしたら、私もよく知っている人だったわ。その人のお母さんは能力のある人で、私と昔、よく組んでやっていたのよ。その息子さんも知ってるけど、東京にいたかったのに、地方にとばされたのよ。少なくとも彼は霊眼なんか開けてないわ。M先生、霊眼が開けたんですよォってうれしそうに言ってたから、そんなこと言うもんじゃないってたしなめといたわ」
と彼女に説明をした。
彼女はびっくりしたという。地方にとばされたという表現が、宗教の世界にあるものなのかと意外だったのだ。
それは私も同感だった。そして以前、神山名誉会長からも同じような表現を聞いたことを思い出した。
2月末にあった教会内の講演で、神山名誉会長は昔のことを振り返り、御旨を歩んでいる初期の頃、「私の(教会内の)出世はどうなる?」と思ったことがあったと話していた。話はその後、いかに自己犠牲、自己否定が大切かを話されて、感動したものだった。でもその時に、何かひっかかっていたものが、あざやかによみがえる。
(なぜ、宗教の世界で、出世が必要なのだろう)
「私の出世はどうなる?」
「地方にとばされたのよ」
どちらも、この表現は理解しがたいものだった。
それに、霊眼が開けたと喜んでいる人を怒ってたしなめて、あなたは霊眼なんか開けていないと言うこと自体がおかしい。統一教会の教えでは、御言を学び、神の御旨を歩んでいれば、霊眼が開けてくるはずだった。統一教会の考えからすれば、突然霊眼が開けてもおかしくないはずなのにと、私たちは言い合った。
M先生はその後、環故郷(故郷へ帰る)の摂理ということで、和歌山の方へ移られた。
そこからT子に電話をしてきた。
「やっぱり近くにいると、お祈りが通じるのよねえ」
と喜んでいたらしい。
その頃、私は東京にいた。和歌山の近くなどにはいなかった。私が三重や名古屋にいるという情報が流れていたので、近くにいると思いこんだのだろう。
まあ、それもわからないではなかった。

 

 


(つづく)

 


解説
第5章では、山崎浩子さんが脱会記者会見を行ってからのことがていねいに描かれています。

“拉致・監禁”された山崎さんを巡って、教会側が慌てて右往左往するさまが描かれています。霊能者のふるまいが間抜けですね。


獅子風蓮


山崎浩子『愛が偽りに終わるとき』第5章 その1

2022-12-29 01:46:17 | 統一教会

山崎浩子『愛が偽りに終わるとき』(文藝春秋1994年3月)
より、引用しました。
著作権上、問題があればすぐに削除する用意がありますが、できるだけ多くの人に読んでいただく価値がある本だと思いますので、本の内容を忠実に再現しています。
なお、漢数字などは読みやすいように算用数字に直しました。

(目次)
□第1章 「神の子」になる
□第2章 盲信者
□第3章 神が選んだ伴侶
□第4章 暴かれた嘘
■第5章 悪夢は消えた
□あとがき



■第5章 悪夢は消えた

脱会記者会見
1993年4月21日。
まだ肌寒い清らかな朝だった。
世間に大バカな私を見てもらう大事な日だった。
午前7時15分。
統一教会員が押し入ってくるんじゃないかという厳戒体制の中で、会見が始まった。
「大変長い間、ご心配とご迷惑をおかけして申しわけありませんでした。昨年6月25日に、私は統一原理を真理として信じるということを皆様の前でお話ししたわけなんですけれども、
……すべてが間違いであったとわかりましたので、世界基督教統一神霊協会より脱会することを決意しました。私の本当に軽率な言動で………」
言いながら、そう言えたことにホッとしていた。この言葉を発するまで、誰一人として私の脱会を完全に信じてはいなかっただろう。姉たちも牧師さんも、
(この瞬間に裏切るのではないか)
と、かすかに思っていたに違いない。そして、この私でさえ、自分自身がこう言えるのが信じられなかった。自分ではわからないマインド・コントロールがまだ残っているのではないか、と心のどこかで怯えていた。
会見を終えた時、エネルギーはもうわずかしか残されていないような気がした。
ワイドショーはきらいだと思ってきたが、統一教会の罪悪性を訴え続け、それをお茶の間に浸透させてくれたのもまたワイドショーであった。これだけ大騒ぎになった以上、全局のワイドショーに出演しないわけにはいかなかった。
テレビ出演を終え部屋に帰ってくると、私の身体はガチガチに固まっていた。緊張のまま、しゃべり続けていたせいだろう。


勅使河原さんに宛てた一通の手紙
「すべてが間違いだった」という私の言葉を、勅使河原さんは、T子は、教会員はどう受けとめてくれたのだろう。
彼らが自ら牧師さんのところへ行ってくれることを願った。
私は代理人をたてて、新居に運びこまれていた私の荷物を引き揚げることにしたが、その時勅使河原さんに渡してもらおうと手紙を書いた。今彼に言える想いをすべて書いたつもりだった。
「私の最後の願いは、勇気をもって牧師さんのところへ行ってほしいということです」
便箋一枚だけだったが、心をこめてそう書いた。
それは私の最後の賭けのようなものであり、彼への不信感をとりのぞいてくれる手段でもあった。そして私は、私のこの脱会問題が、ただの男女の悲恋物語になっていくことを恐れた。統一教会の社会的問題が、私たち二人の問題の影に隠れてしまうことこそが問題だった。
しかし、次第に、宗教によって引き裂かれたかわいそうな二人……という話にいらだちを覚え、それは怒りへと変わっていった。何がかわいそうって、いちばんかわいそうなのは、統一原理を信じていること自体である。
そこには自由というものはない。
統一教会側は、私の脱会騒動は「信教の自由」を奪い、人権を奪うものだというが、献身者には職業も住むところも自由ではない。結婚も教会の指示によるのだから、どっちが人権を奪っているのか、と思う。
それに、生まれてくる子供は「神の子」としてあがめられる。三家族で三位基台というのを組んで、どこかの家庭に子供が生まれなかった場合は、他の二つの家庭の中から、その家庭へと子供を養子に出さなければならない。自分の子供は、公の子、教会員全体の宝なのである。
「信教の自由」と叫んではいるが、親が統一教会員なら子供は何を信じてもいいというものではない。神の子として、小さい時からその思想を受けつぎ、文鮮明をメシアとして、神とメシアのためだったら何でもするという二世をつくりあげねばならない。これこそが、統一教会の狙いである。祝福をうけて、子供が生まれて、その子供が別の道へ行こうものなら、それは堕落以外の何ものでもないことになるのだ。
文鮮明一家のために働き続ける大思想集団をつくりたいのだ。そして、自分が信じているだけでなく、伝道をしなければならないのだから、個人の信教の自由という次元の話ではないのだ。
私は、間違いに気づいたのが、結婚して子供が生まれたあとでなくて本当によかったと思った。
子供が生まれれば、反対している人だって「おめでとう」と喜んでくれることだろう。いや、喜ばない人はいないだろう。それを彼らは“神の勝利”とするのである。
「どんなに反対している親でも、子供が生まれれば反対しなくなりますよ。子供はやっぱりかわいいですからねえ」
そんな話をよく聞いた。子供が生まれたことに対して、まわりが素直に喜んでくれることを、神側の勝利、統一教会側の勝利として受けとめるという思考回路をもっているのである。まるで子供をだしに使って、統一教会への反対を少なくするようなものだ。もし、私に子供がいたら、まわりの反対もおさまり、間違いに気づくチャンスさえ与えられなかったことだろう。
「娘が幸せならいい」とか、大の大人が選んだ道なんだから、無理に脱会させる必要はないじゃないか、という人たちもいる。
でも大の大人が、判断をあやまらないと、どうして言えよう。知らずに悪に手を染めているとするなら、それが何歳であろうとどんなことがあってもやめさせるのが親の愛だろう。「娘が幸せならいい」とあきらめるには、統一教会の社会悪に対して、あまりにも無責任である。
「本人たちが幸せなんだったらそれでいいじゃないか」と言ってる間に、本人たちは、喜んで霊感商法に手を染め、加害者になっていくことを親たちはしっかりと知らなければいけないと思う。
私たち“三女王”がマスコミに出て、様々な意見が述べられた。そんな中で、「でも幸せそうですよねえ。こんな結婚もあっていいんじゃないですか」と誰かがコメントしてくれたが、それが私たちにとって、いや統一教会にとって、どんなに励みとなったことか。統一教会は世に認められ始めたとか、神の勝利だとか、大喜びだった。
私自身、一人の人間である前に、統一教会員であると思っていた。だから、仕事がうまくいけば、統一教会が認められることになると思っていた。
そして、かわいい赤ちゃんを生んで、またマスコミにとりあげられて、リポーターの方々が「おめでとうございます」といってくれた時、最高の勝利を確信したことだろう。
自分たちの幸せそうな姿を世にアピールすることが、三女王の使命でもあったのだから。
私は、改めて、婚姻届のサインをしていなかったことに運の強さを感じた。そして、この時期に、私が加害者となっていくことを阻止してくれた姉たちに、深く、深く感謝した。
逆に言えば、勅使河原さんにとっても、今がチャンスのはずだった。牧師さんのところへ行ってほしいという私の願いは、彼の胸に届いたのだろうか。
私は待った----。
----だが、自ら牧師のところへ来たのは、T子の方だった。


親友がうけたショックとは
ちょうど、S牧師(私を説得してくれた牧師のうちの一人)のところに、リハビリがてら滞在していた時のことだった。
T子からS牧師に連絡が入ったことを知り、私は涙が出るほどうれしかった。
真剣に話を聞きさえすれば、心のガードを取り除きさえすれば、絶対にわかってくれるはずだ。
私がいなくなってから、彼女がどんな教育を受けたかはわからない。でも自分一人で来てくれるというのだから、大丈夫だと信じた。
彼女と再会した時、私たちの間にしばらくは言葉はなかった。
脱会宣言をする直前まで、彼女は私の脱会を信じてはいなかった。記者会見の前夜、私の手記を手に入れ、それを見ても信じられなかったという。
彼女は、記者会見場の近くで、神山名誉会長たちと一緒に車に乗り、車の中のテレビで私の会見を見た。会見場に入ってきた私の顔を一目見て、「こりゃ、ダメだ」と思ったという。
「すべてが間違いであったとわかりましたので、世界基督教統一神霊協会より脱会することを決意しました」
その私の言葉を聞いた時、彼女の頭の中は真っ白になったという。
その後のリポーターの質問で、
「会社の方とかには連絡はとられていたんでしょうか」
という問いに、
「内々に信頼のおける人に連絡は入れました」
と私が答えた時、彼女は異常なショックを感じた。
(自分以上に信頼のおけるスタッフがいるの?)
彼女は私が脱会したことよりも、自分が信頼をおかれていなかったということに、言いつくせないやるせなさを感じたのだった。
家まで送っていこうか、という幹部の人の言葉に、「けっこうです」と答え、一人でトボトボと歩いた。
(あれほど信じていたのに、何が間違いだったというのだろう。何をあんなに怯えていたのだろう。自分が信頼のおけない人になってしまった理由を知りたい。山崎は人格が変わってしまったのだろうか。私も真実を知りたい)
彼女はそこから、統一教会との一切の連絡を絶ったという。ホテルを転々としながら考えた。
そして、勇気をふりしぼってS牧師に電話を入れた。
「よく電話してくれたね。怖かったでしょう」
教会内では、相当悪い牧師と言われているのだから、一人で飛びこんでくるのは大変なことだったろう。
「いや、別に」
彼女はそう答えたというが、後に「ホントはすっごく怖かっだんだ」と告白している。
S牧師の話をいろいろ聞いたあと、彼女は脱会を決めた。
やはり、私がいなくなったあと、彼女は集中講義をうけていだが、会社やスクールのことが心配で、頭の中には入っていなかったという。それでも、彼女は自分自身で、ある驚きを持った。統一原理をあまり理解していないのに、がっちり思考回路が組み立っていたことにびっくりしたのである。彼女の表現でいえば、「やられた~」と思ったそうだ。
このことは、口で説明しても紙に書いても、きっとわかってもらえないと思う。本当のところは脱会した者にしかわからないことだ。
ともかくも、この自分でさえ、こんな思考回路を持っていたのだから、献身している人や、ガチガチに統一原理が入っている人は、ものすごいだろうなあというのが、彼女の感想だった。
「これじゃあ自然治癒なんてないね」
と彼女は言った。たしかに、カウンセリングなしに思考回路をくずすことは難しい。
少しして彼女は、私の脱会後、自分が一回だけ統一教会に連絡を入れていたことを思い出した。
彼女は、脱会した私を安心させるために、「一度も連絡をとっていない」とウソを言っていたのではない。都合の悪い記憶は、自分でも知らないうちに語憶から消していたのである。
それは私にも言えることだった。時がたつにつれて、埋もれていた記憶がよみがえってくる。私の記憶は、統一教会用の記憶にすりかえられていたのである。
御言を学び始めた時から、私の頭の中には、実際には私のまわりにたくさんあった温かな家庭、素晴らしい夫婦は存在しなくなった。統一教会で、この世の愛は乱れた愛、どんなに仲の良い夫婦であっても、祝福を受けなければ地獄行き、という言葉で、まわりの温かな家庭は否定されていった。そしてかわりに、不倫をしている家庭や、うまくいっていない夫婦のみが頭の中にこびりつくようになっていったのだ。


(つづく)

 


解説
第5章では、山崎浩子さんが脱会記者会見を行ってからのことがていねいに描かれています。

米本和広『我らの不快な隣人』の中、
「第13章 水面下の攻防」
に次のような記載があります。

今から振り返ると、閉じた循環運動の原型は、山崎浩子の脱会劇によって完成したのだと思う。
……失踪から1か月半後の4月21日、山崎浩子の顔が突然、テレビに映った。
「このたび統一教会から脱会することを決意しました。私はマインド・コントロールされていました」
反統一教会陣営が勝利した決定的な瞬間だった。
説得にあたった杉本誠牧師は陣営のヒーローになった。
信者家族は「マインド・コントロール」を知り、……拉致監禁は年間400件に増加する。
山崎は1年後に出版した『愛が偽りに終わるとき』で、このときの経緯を明かしている。
<姉たちが“拉致・監禁”をするなんて……。到底信じられないような想いだった。けれど、これは間違いなく、統一教会で何度となく聞かされた“拉致・監禁”だった>
<私は、たまらなくなって、泣きわめいた。
「なんでこんなことする! ……」>

ここに書かれている、山崎浩子さんに関する記述をそのまま読むと、彼女はその著書で、“拉致・監禁”の理不尽さを訴えているかのような印象を受けます。
しかし、実際に彼女の著書を読むと、その反対で、最終的に彼女は、家族による「保護説得」と牧師による説得に感謝しているのです。

米本和広氏の『我らの不快な隣人』は、公平な立場から書かれた優れたルポルタージュだと思いますが、唯一、この件だけは違和感を覚えました。

 

生まれてくる子供は「神の子」としてあがめられる。三家族で三位基台というのを組んで、どこかの家庭に子供が生まれなかった場合は、他の二つの家庭の中から、その家庭へと子供を養子に出さなければならない。自分の子供は、公の子、教会員全体の宝なのである。

今マスコミで問題になっている「教団による養子あっせん」は、すでに山崎さんの本で書かれていたのですね。

 


獅子風蓮