獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

浜四津敏子さんのご冥福をお祈りいたします

2023-02-24 01:15:43 | 創価学会・公明党

d-マガジンで雑誌を読んでいたら、こんな記事を見つけました。


週刊文春 3月2日号
二年以上伏せられていた死
公明党・浜四津敏子の煩悶

公明党の浜四津敏子元代表代行が2年前に亡くなっていたことが2月16日、公表された。“創価学会最強の集票マシン”婦人部(現女性部)でカリスマ的人気を誇った同氏が亡くなったのは、2020年11月。享年75。遺族の意向で公表を控えていたが、察知したメディアが取材に動いたのを受けて党が発表した。1945年、日本統治下の台北で生まれ、慶應大学法学部から弁護士活動を経て92年の参院選で公明党から初当選。94年には羽田孜内閣で環境庁長官に。政界再編を受けて新進党に移籍、同党解党後の98年には参院議員と地方議員で作る政党「公明」の代表に。程なく公明党が再結成されると代表代行に就いた。 理知的な顔立ちとさわやかな語り口で人気を博したが、激しい一面もあった。
「99年の自自公連立の際は、『私は反自民でやってきた。自民と組むなら代表代行を降ります』と神崎武法代表(当時)に啖呵を切って取りなされる一幕もあった」(政治部記者)
学会員に多大な負担を強いる衆院からは撤退し、参院と地方議員だけの政党であるべき、が持論。また、後々までイラクへの自衛隊派遣を公明党が認めたことへの反省を口にした。そうした姿勢が敬遠されたのか、代表や幹事長には就けず、知名度とは裏腹に党中枢からは外されていた。
2009年の衆院選で野党に転落すると、翌年の参院選を前に党から引退勧告を受けた。「任期中に66歳を超える場合は公認しない」という当時の内規が表向きの理由だったが、「代表代行という閑職にもかかわらず、婦人部の集票力をバックに正論をぶつ浜四津氏に当時の井上義久幹事長らは手を焼いていた」(政治部デスク)
一方で、こんな煩悶も。
「婦人部は嫉妬の嵐が渦巻く強烈な組織でもある。一部からは『私たちがいないと当選もできないくせに』と陰口を叩かれており、本人も気づいていたようだ」(創価学会関係者)
引退後は政界とは距離を置き弁護士に復帰。だが衆院選で落選した同年生まれの太田昭宏元代表は引退せず、浜四津氏は「太田氏は院政を敷くつもりよ。山口(那津男)氏がしっかりしないと」と懸念していた。
公明党はあれ以来、「ポスト浜四津」と呼べる女性議員を作っていない。
「党幹部を見渡しても、古屋範子副代表以外はすべて男性。幹部らが女性部をバックにつけたカリスマ女性議員の台頭を恐れているからだ」(前出・デスク)
最近の公明票の落ち込みは、男性中心の組織に対する女性たちの反感が一因との見方もある。浜四津氏は草葉の陰で何を思うのか。

 


解説
私は、浜四津敏子さんのことを少し誤解していたようです。
これまで浜四津氏は、学会べったりで、組織の上には逆らわないお利口さんで、お人形のような人だったんだろうと勝手に思っていました。

実は、自自公連立の際に、神崎武法代表に対して反対の啖呵を切ったり、気骨のある人物だったのですね。

学会員に多大な負担を強いる衆院からは撤退し、参院と地方議員だけの政党であるべき、が持論。また、後々までイラクへの自衛隊派遣を公明党が認めたことへの反省を口にした。そうした姿勢が敬遠されたのか、代表や幹事長には就けず、知名度とは裏腹に党中枢からは外されていた。

そんな信念をもった政治家を、むしろ押さえつけようとしたとは、公明党のトップのおじさん連中も腐っていますね。
それにしても、党にとっては貢献者だと思うのですが、なぜその死を2年間も公表してこなかったのでしょうか。
竹入・矢野という二人の委員長経験者を、歴史から抹殺するような党ですからね。

なんとも不可解な政党です。


獅子風蓮



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