創価学会の「内在的論理」を理解するためといって、創価学会側の文献のみを読み込み、創価学会べったりの論文を多数発表する佐藤優氏ですが、彼を批判するためには、それこそ彼の「内在的論理」を理解しなくてはならないと私は考えます。
というわけで、こんな本を読んでみました。
佐藤優/大川周明「日米開戦の真実-大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く」
興味深い内容でしたので、引用したいと思います。
読者が読みやすく理解しやすいように、あたかも佐藤氏がこのブログを書いているかのように、私のブログのスタイルをまねて、この本の内容を再構成してみました。
必要に応じて、改行したり、文章を削除したりしますが、内容の変更はしません。
なるべく私(獅子風蓮)の意見は挟まないようにしますが、どうしても付け加えたいことがある場合は、コメント欄に書くことにします。
ご理解の上、お読みください。
日米開戦の真実
――大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く
□はじめに
□第一部 米国東亜侵略史(大川周明)
□第二部「国民は騙されていた」という虚構(佐藤優)
■第三部 英国東亜侵略史(大川周明)
■第四部 21世紀日本への遺産(佐藤優)
□あとがき
英国東亜侵略史(大川周明)
第二日 東印度会社
インドを失えば「第三等国」
イギリス帝国主義の権化ともいうべきカーゾン卿は、その著『ペルシア問題』の中で、もし英国が一朝印度を失うならば、断じて世界帝国の地位を保つことが出来ないと明言しております。また、ホーマー・リーという極めて特色あるアメリカの一軍人は『アングロ・サクソンの世』と題する著書の中で、「イギリスが印度を喪うということは、英国の領土内に、アングロ・サクソンのあらゆる血と火と鉄とをもってするも、到底破れたる両端を接ぎ合わせることの出来ぬ一大破綻の発生を意味する」と申しております。また、今一人のスナサレフという人は、『印度』という著書の中で「もしこの不幸蒙昧たる印度のために、自由の勝利を告げる鐘が鳴るならば、その次の瞬間に、歴史の時計は海の女王の死を世界に告げることであろう。そしてイギリスは、わずかに本店をロンドンに有する一個の世界銀行となってしまうであろう」と申しております。
まことにこれらの人々の申す通りで、もしイギリスが印度を失えば、明日から第三等国となるのであります。
印度が英国にとってそれほど大切な意義を有するのは、単に無限の天産物と無数の人口を擁しているからではありません。印度は実に、イギリス資本のこの上もない投資の場所であり、志あるイギリス青年の立身出世の舞台であり、英国商品の無二の市場であり、莫大なる商業の中心であり、重要なる海上の連絡点であり、軍隊の駐屯所であり、最も必要なる海軍根拠地であります。イギリス人の中には、かつてはシェークスピアを失うよりはむしろ印度を失わんと申した人もありましたが、そのような時代はもはや過ぎ去り、今日のイギリスは、百人のシェークスピアを失っても決して印度は失ってならぬと苦心しているのであります。19世紀前半以来、英国外交の根本政策は印度保有の一事に存し、イギリスは第一に、いかにしてイギリスより印度に至る海路または陸路、可能ならば海陸両路の支配権を確保すべきか、第二にいかにして印度自身を防衛すべきかということに、その全心全力を注いで来たのであります。
しかしながら、イギリスは決して、当初から印度の重要性を明らかに認識して、印度征服を企てたのではありません。イギリス人が初めて印度を目指して来たのは、簡単明瞭に金儲けのためであったのであります。印度航路を初めて開いたのは、ポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマでありますから、莫大に利益ある東洋貿易は、ほとんど百年の間、ポルトガルの独占であったのです。ポルトガルは第一に、当時欧羅巴の精神的君主だったローマ法王から、東洋に対する政治的・経済的・宗教的な絶対優越権を与えられていたのみならず、もし他国がこの独占権を脅す場合は、武力をもってこれを倒すだけの海軍をもっていたのであります。ところで、イギリスは、エリザベス女王の時代には、もはやカトリック教を棄てて新教に帰依していたので、ローマ法王に遠慮する必要がなくなった上に、海軍も次第に強大となって、1588年には、スペイン無敵艦隊を撃破するまでに至ったのであります。
大英帝国の基礎を築いた海賊たち
このイギリス海軍の基礎を築き上げたのは、ジョン・ホーキンスやフランシス・ドレークのような、大胆勇敢なる海賊すなわちヒーロー・バッカニーアであります。イギリスの海賊は15世紀頃から音に聞こえておりましたが、16世紀になりますとますます盛んになったのみならず、掠奪の相手はスペインやポルトガルの船でありましたから、海賊的行為は愛国的行為となり、イギリスの船長は数門の大砲を備えた船に乗って、東洋貨物を満載したポルトガル船や金銀を満載してアメリカから帰るスペイン船を掠奪することを公然の商売としていたのであります。世の中にこれほど儲かる商売はなかったのであります。
例えば、ただいま申し上げたホーキンスはプリマスの舟乗りの悴でありましたが、スペイン領アメリカへの第一回航海によって、一躍プリマス第一の富豪となり、第二回航海から帰って実にイギリス第一の富豪となったと言われております。フランシス・ドレークも、1577年にイギリスを出帆し、行く先々で強盗を働きながら、世界を一周して1580年にイギリスに帰り着いたのでありますが、その途々掠奪してきた貨物の価は実に約2億フランに達したと言われております。
エリザベス女王も、ドレークから少なからぬ分け前を貰って、大いに喜んでおります。この話がスペインに伝わると、スペイン王は非常に憤慨して、ロンドン駐在スペイン公使をして厳重なる抗議を提出させました。するとエリザベス女王は、スペイン公使をドレークの船の甲板に連れて行って、厳然としてドレークに向かい、スペイン人は汝を海賊だと申すぞと叱りつけ、それから甲板の上に彼を跪かせ、悠然とナイトの爵位を賜わる時の接吻を彼に与えて、「いざ起て、サー・フランシスよ」と申したことは、名高い話であります。すなわち女王は海賊である平民フランシスを、サー・フランシスに取り立てたのであります。
このような次第で、イギリス人はスペイン勢力の没落以前から、ポルトガルの独占を犯して東洋貿易に参加しようと苦心してきたのでありますが、1588年にスペイン無敵艦隊が、ホーキンス、ドレーク等の海賊を中心とすすイギリス艦隊のために撃滅されたので、印度航路上の最大の障害物がなくなったのみならず、 東洋発展において一歩イギリスに先んじたオランダが、スペイン、ポルトガルに代わって東洋貿易の新しき独占者たらんとする形勢があるので、一群のロンドン商人が結束して、1599年の12月31日、資本金わずかに68万ポンドをもって、東印度会社を組織し、エリザベス女王から「喜望峰よりマゼラン海峡に至る国々島々と、向こう15年間自由にかつ独占的に通商貿易を営むことを得る」という特許状を与えられ、翌1600年――この年は日本では天下分け目の関ヶ原合戦が戦われた年です――から直ちに活動を開始したのであります。この小さい会社が、後にイギリスのために「王冠に輝く燦たる宝玉」と讃えられる印度を征服し去ろうとは、当時は何人も考えなかったことであります。
印度両海岸に根拠地を置く
さてイギリス東印度会社は、同じく東洋貿易を目的として1602年に創立されたオランダ東印度会社と相並んで、まず東洋に残存していたポルトガル勢力と戦わなければならなかったのでありますが、一時あれほど多くの英雄を輩出せしめ、あれほど盛を極めたポルトガルも一旦下り坂になると国力にわかに衰え、到底新興両商業国すなわちイギリス、オランダの敵でなく、十年ならずして勝敗の数は早くも決してしまったのであります。そしてポルトガル勢力敗退後は、必然新興両国自身の間に激しき競争が行われました。
当時一番有利であった東洋貨物は丁子(ちょうじ)・ニクズクなどの香料でありましたが、その主たる産地は香料群島すなわち南洋諸島であります。それゆえに両国とも、印度本土を第二にして、まずマレー群島の争奪に鎬(しのぎ)を削り、この貴重なる香料産地を独占せんとしました。
ところでオランダ東印度会社は、その資本はイギリスの会社の倍額であり、しかも国家の強力なる後援があったので、この角逐(かくちく)において苦もなくイ ギリスを圧倒し、南洋諸島の主人公となったのであります。イギリスは島々から逐われたので、心ならずも印度本土を活動の舞台とせねばならなくなったのでありますが、この事が他日かえってイギリスの幸いになろうとは、当時何人も夢想せぬところであったろうと思います。
イギリスはまず印度の西海岸において、有力なるポルトガル艦隊を撃破して、1612年にスラートに商館を置き、印度本土における最初の根拠地を置きました。1620年にはペルシア国王と相結んで、ポルトガルの東洋における最も重要なる根拠地、ペルシア湾頭のオルムスをペルシアのためにポルトガルから奪回し、その報償としてオルムスに城塞を築くことを許され、またこの同じ年に、コロマンデル海岸のマドラスを土人君主から買収し、ここにも城塞を築いて、印度東海岸に最初の根拠地を置きました。その後1668年に、イギリス国王チャールズ二世から、一年わずか十ポンドの地代で、東印度会社はボンベイを借り受けたのであります。
ボンベイはこの時より約80年前に、ポルトガル人が開いた印度第一の良港であります。1661年、ポルトガル王女がチャールズ二世の妃となった時、ポルトガル国王が王女の化粧料としてこれをイギリス国王に贈ったもので、ポルトガル王は当時のゴア総督が「英人がボンベイに腰を据えるその日に、ポルトガルは印度を失うであろう」と切諌したのも聴かず、遂にこれをイギリス王に進上したのであります。ところが国王は、色々な事情からその維持に困り、これを会社に貸し下げたのであります。爾来ボンベイは次第に栄え、1687年以後はスラートに代わって印度西海岸における英国貿易の中心となり、もって今日に及んでおります。
また1690年には、ベンガルのフーグリ河畔に、今日のカルカッタとなるべき基礎も置かれ、その他にも印度の東西両海岸に幾多の貿易拠点が置かれました。 1660年より1690年に至る30年間は、東印度会社の黄金時代で、毎年の平均配当率は二割五分強に達しております。
巨万の富を独占した会社
マコーレーはその流麗なる筆をふるって、当時の事情をこう書いております。
「会社はチャールズ二世の大部分の間、この印度館で莫大の富を得た。商業史は、このような巨万の富が堂々と流れ込んだ例を他に見出さず、ロンドン市民は、驚きと貪欲と嫉妬に充ちた憎悪に興奮していた。富と豪奢とは急激に増加した。東洋産の香料・織物・宝石などに対する嗜好が日増しに強烈になった。モンク将軍がスコットランド兵をロンドンに送った頃は、茶は支那の非常なる珍品として持て囃され、極めて少量を唇で舐めて珍重したものであるが、8年後にはこれが規則的に輸入され、間もなく大蔵省が好ましき課税の対象の一つとしたほど多量に消費され始めた。
王政復古以前、イギリスの船舶は、未だ一隻もテームズ河畔からガンジス河のデルタを訪れたことは無かった。ところが王政復古に続く僅々23年間に、この富裕にして人口多き印度からの輸入額は、八千ポンドから三万ポンドに増大した。 このように急激に膨張せる貿易を、一手に独占していたその頃の東印度会社の利益は、ほとんど真実と思われないほど莫大であった。
この印度貿易による莫大なる利益が、もし多数の株主の間に分配されていたならば、何の不平も起こらなかったかも知れない。ところが実際は、株券の値段が上ると同時に、株主の数は漸次減少していった。会社の富が最高度に達した時、その経営は極めて少数の富豪の手に握られた」
このように東印度会社は最も有利なる東洋貿易を独占し、しかもその無限の利益は極めて少数なる大株主の壟断するところとなったのでありますから、イギリスの世論は次第に沸騰し、会社の特権を取り消せという声が当然高まってきました。東印度会社は、この攻撃に対して、莫大なる黄金をもって戦っております。これもマコーレーの言葉を借りて申せば「宮廷において会社のためになりそうな者、または害になりそうなすべての者、すなわち大臣、女官、僧侶の果てに至るまで、カシミア・ショール、絹織物、薔薇香水、ダイヤモンド、金貨の袋が贈られた。この思い切った賄賂は、間もなく豊かな利益をのせて帰ってきた」。
豊かな利益というのは、国王をはじめ、政府の高官や会社攻撃者に莫大の賄賂を贈ったお蔭で、世論の激しき反対にかかわらず、スチュアート家の王様たち、すなわちチャールズ二世・ジェームズ二世から特許状を更新して貰い、独占期限を延ばすことを得たという意味であります。この賄賂の好きなチャールズ二世とジェームズ二世は兄弟でありましたが、その頃のイギリス人は「兄チャールズは物を理解しようと思えば理解することが出来る、ただし弟ジェームズの方は理解することが出来ても理解するを欲しない」と取り沙汰していたのでありますが、そのジェームズ二世が遂に民心を失い、1688年のいわゆる名誉革命によってスチュアート家が没落することになったので、東印度会社はここに有力なる味方を失い、イギリスの議会と直接対峙せねばならなくなったのであります。
ここで東印度会社の反対者はホイッグ党と提携して会社を倒すに決し、まず議会をして東印度会社に加えられる数々の非難について調査会を開かせることに致しましたが、調査の結果、会社は新しい特許状を得るために、政府や攻撃者に80万ポンドの賄賂を贈ったこと、1688年から1694年に至る6年間に107万ポンドの大金が不当に費消されていることが暴露され、1695年には多数の重役が獄に投ぜられております。
このような次第で会社に対する非難は段々と高まり、1697年には印度絹の輸入によって大打撃を蒙ったロンドン絹織業者が、先頭に立って会社攻撃をはじめ、市民は彼らの宣伝に激して市中諸処に集合し、東印度会社の建物を襲撃し、その貨物を掠奪せんと騒ぐまでになりました。
会社は日々激しくなる攻撃に対する策戦として、当時政府がフランスとの戦争のために財政困難に陥っていたのに乗じ、印度貿易独占権確保を条件とし、四分利で70万ポンドの国債に応ずることを提議しました。すると会社の反対者はホイッグ党と相結び、三分利にて200万ポンドの国債に応じ、これによって印度の貿易独占権を奪おうと努め、結局1698年の議会はこれらの人々に新しき印度会社の設立を許可したのであります。そこで、印度貿易のために二つの会社が出来て、激しい競争を始めたので、英国王室及び議会は、こうした状態を放置していては、結局競争国の乗ずるところとなることを悟り、1702年、遂に両会社に合同を命ずるに至りました。もっとも合同後にも内部に新旧両派の対立が続きましたが、1708年にゴルドフィン伯爵の調停によって、はじめて両派の十分なる和解を見、名実共に一個の会社として活動することになったのであります。 東印度会社の印度における真箇の活躍は、実にこの時から始まるのであります。
【佐藤氏による解説】
イギリスはいかにして帝国となったか
16世紀以前のイギリスは、ヨーロッパの辺境に過ぎなかった。政治的には大ブリテン島の政治的統一とフランスへの進出がイギリスの国策だった。辺境に位置する島国ということが地政学的にイギリスに幸いした。ヨーロッパ大陸と大西洋の通過点に位置し、港湾の形成に適したイギリスの地形が海洋国家としての発展を約束したのである。当時、海洋大国だったスペインとポルトガルがいずれもカトリック国であったのに対し、イギリスはプロテスタント国であった。従って、イギリス船はカトリックの法令に従う必要はなく、スペイン、ポルトガルの商船を攻撃し、船荷を略奪したのである。この海賊行為にこそイギリスが急速に富をなした源泉がある。海賊王フランシス・ドレークのエピソードを大川はユーモラスに紹介している。
フランシス・ドレークも、1577年にイギリスを出航し、行く先々で強盗を働きながら、世界を一周して1580年にイギリスに帰り着いたのでありますが、その途々掠奪してきた貨物の価は実に約二億フランに達したと言われております。
エリザベス女王も、ドレークから少なからぬ分け前を貰って、大いに喜んでおります。この話がスペインに伝わると、スペイン王は非常に憤慨してロンドン駐在スペイン公使をして厳重なる抗議を提出させました。するとエリザベス女王は、スペイン公使をドレークの船の甲板に連れて行って、厳然としてドレークに向かい、スペイン人は汝を海賊だと申すぞと叱りつけ、それから甲板の上に彼を跪かせ、悠然とナイトの爵位を賜わる時の接吻を彼に与えて、「いざ起て、サー・フランシスよ」と申したことは、名高い話であります。すなわち女王は海賊である平民フランシスを、サー・フランシスに取り立てたのであります。
大川周明は宗教専門家でもある。イギリスの地理的特徴のみならず、宗教改革でプロテスタンティズムを採用したことに発展の秘密があると考える。具体的にはどのようなことなのであろうか。スペインやポルトガルで航海王として財を築いた人々は、その稼ぎを教会に寄付することで、来世の幸福や自らの祖先が天国に行くことができるように取りはからってもらっていたため、資本の原始的蓄積がなされずに消費されてしまったのである。実を言うと、イギリスの宗教改革はカトリック的要素とプロテスタント的要素の双方をもっていたので、英国国王を首長とする国教会がカルヴィニズムのような世俗的禁欲によって資本主義の倫理を後押ししたと一概には言えないのであるが、イギリス人がもつ経験主義、すなわち「常に想像のために戦わずして実際の利益のために戦い、その精力を実際的活動に向かって集注」する傾向を英国宗教改革が強めたことは間違いない。このイギリス人のプラグマティズムの背後に潜んでいる宗教改革の影響をとらえているところに大川の洞察力がある。
大川はイギリスの地理的特徴、宗教改革の伝統、経験主義、個人主義、功利主義によって形成されるプラグマティズムが、総合文化として一つのシステムを作っていると考える。確かに大川はイギリスに対して批判的であるが、行間を注意深く読むと、イギリス人の堅忍不抜の意志、善戦健闘の精神については敬意を表している。島国であるイギリスと日本の地理的制約からくる共通性を大川は意識しており、日本人の中にもある理想よりも実利を求めて戦う傾向を克服することを訴えているのである。
イギリス史に話を戻そう。1588年にネルソン提督に率いられたイギリス艦隊がスペインの無敵艦隊を破った。その後、1652年から1674年にかけての3回の戦争でイギリスはオランダを破り、そして最後にナポレオン率いるフランスに勝利を収める。大川は「1688年から1815年に至る126年のうち、実に64年間は戦争をもって終始しております。地球上のいずれの国民も、これほど頻々と戦争に参加したものはありません」と記しているが、これは事実その通りである。
それではイギリスは世界制覇という明確な戦略をもって、スペイン、オランダ、フランスを攻略していったのであろうか。大川はそう考えていない。イギリスは単に金儲けだけを考えて行動しているうちにいつの間にか国家が肥大してしまったのである。大川の認識は、20世紀のナショナリズム研究の第一人者であったアーネスト・ゲルナーの理解と共通している。ゲルナーはイギリスはぼんやりしているうちに巨大帝国になり、また、ぼんやりしているうちに巨大帝国を失ってしまったと見ている。
世界征服を進め完成したのは、いよいよ工業と貿易とに専心するようになった諸国民であった。それは軍事機構でも、たまたま結集した有象無象の部族民でもなかった。征服は、征服者である国民がこの過程に特に没頭することもなく達成された。イギリス人はぼんやりした状態でその帝国を獲得したのであって、この点は、ある程度一般化することができる(イギリスはまたあっぱれにも、同様に注意力が欠けていたために帝国を喪失したのでもあった)。(アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』岩波書店、2000年、72頁)
イギリスが帝国をもつことを可能にしたのが資本主義だ。これを自由主義と言い換えてもいい。競争に最も強い国家は、自由貿易を唱える。イギリスは、主観的には自由で平等なルールを国際社会に適用すべきという公正な主張を行っているが、客観的に見るならば「駆け足で一位になった者がすべてをとる」という平等な「ゲームのルール」は、いちばん足が速い者以外にとっては、いつも負けが約束されているに過ぎない。先に柄谷行人が述べたように、現在アメリカが唱える新自由主義も、基本的には19世紀にイギリスが提唱した自由主義を繰り返しているに過ぎない。
大川周明はレーニン主義の植民地解放理論に対しては強い関心をもっていたが、マルクス主義、特にマルクスが『資本論』で展開した資本主義の内在的論理に関する関心は稀薄だった。しかし、自由主義が帝国をつくりだすという論理連関を大川は正確にとらえていた。大川はある民族が他の民族を支配・抑圧するような体制を望まない。従って、必然的に支配従属の構造をもたらす自由主義的資本主義に対しては忌避反応を示すのである。大川周明の思想とライブドアの堀江貴文前社長が述べた「カネで全てを買うことができる」、「稼ぐが勝ち」といった類の新自由主義的世界観は全く噛み合わないのである。新自由主義を進める個々の主体は自己の利益を追求しているのであるにすぎないが、その結果、日本国家、日本民族が解体されてしまい、結果として最強国であるアメリカに日本が全面的に従属してしまうことになる。新自由主義も現実の世界で実現されるためには、最終的に経済主体の活動を保証する力の後ろ盾が必要になる。それは最強国、すなわち現下の状況においてはアメリカ合衆国しかないのである。19世紀の自由主義が大英帝国を後ろ盾にしたのと同じ構造である。歴史は繰り返すのである。
構成・獅子風蓮