というわけで、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を読んでみました。
(目次)
□一杯目の火酒
□二杯目の火酒
□三杯目の火酒
□四杯目の火酒
□五杯目の火酒
□六杯目の火酒
■七杯目の火酒
□最後の火酒
□後記
七杯目の火酒
4
__あなたは、お母さんがとても大事で、話をしてると、どうしてもお母さんが、多く出てくるよね。
「うん、そうだね、自分では気がつかないけど、そうかもしれないね」
__かりに……かりにだよ……お母さんと男と……あなたが惚れちゃった男がいて、そいつとどちらを選ぶか、という局面に追いこまれたとしたら……そんなことは起こりえないのかもしれないけど……そうしたら、どうする?
「うーん」
__そんな深刻な局面はありえないかな?
「いや、そんなことないよ。あたしも、どうするだろうって、考えたことある、それと同じことを」
__へえ。
「もし、嵐になって、船が転覆して、ボートに救いあげてもらえるとき、あとひとりしか乗れないとしたら、どっちを先にしてもらうかな、って。お母さんか好きな人か、って。やっぱりお母さんかな。もし、あたしもその人も助かったとしたら、生き残ったあとがつらすぎるからね。それに、あたしって、男の人を見る眼がないから、自信持てないよ」
__ハハハッ、見る眼がないのか、あなたは。
「感情に流されて、いつも失敗ばかりしているから」
__いつも、失敗しているの?
「うん。でも、自分が悪いんだから、納得してるけど」
__ハハハッ、納得しているの。
「そうなんだ……」
__今度も?
「えっ?」
__今度の、ほら、野球をやっている人の場合も?
「ああ……うん、そう。見る眼がなかった、あたしに」
__そして、そうやって納得してるわけか。
「そう、納得してる。納得してるけど……そんなにアッサリはできなかったけどね、いまみたいには」
__そのときは……いろいろあったわけですか、彼とは。
「そうだね……そうなんだ。あたし、ヒステリーを起こしたんだよね」
__誰に?
「お母さんに」
__いつ?
「4月頃」
__どこで?
「クラブで。クラブの楽屋で」
__あなたみたいな人でも、人並にヒステリーを起こすんですか?
「起こすんですよ、これが。すごいヒステリーを起こしちゃった」
__そんなにすごかったの?
「ここ10年で最大のヒステリー」
__ハハハッ、10年来のヒステリーか。でも、仕事をやる前はヒステリーなんか起こしたことなかったでしょ? それなら、10年来ということは、生涯最大のヒステリーということになるよね。史上最大のヒステリー……。
「そんなに馬鹿にしないでください。真剣だったんだから、ほんとに」
__ごめん。
「お母さん……あっ、またお母さんだけど……びっくりしたんだって。血の気が引くような思いをしたんだって。そのヒステリーの起こし方がとてもお父さんに似ていたらしいの。そっくりだったんだって。ああ、この子にもやっぱり、あのお父さんの血が流れているんだろうか……」
__そうか、それは血の気が引いたようになるのも、無理はないかもしれないね。泣いたり、喚いたり、物を投げたりしたんだね、きっと。
「エヘへ。そうなんだ」
__可哀そうに、お母さん。原因はどんなことだったの?
「営業で、ひどいクラブが続いていたんだよね。ほんとにお粗末なクラブなんだ。それでも我慢してやっていたんだけど、ある日、楽屋で爆発しちゃったの」
__どうして、そんなところにお母さんがいたの?
「それはね、一度舞台に出て歌ったんだけど、あまりお客さんがひどいんで、途中で引っ込んでしまったの。でも、そのまま帰るわけにいかないし……帰ったら困る人がいっぱいいるし……もう一度出て歌い直そうとしたんだ。でも、同じ衣裳じゃ出られないじゃない。もう一着、お母さんとお手伝いさんに急いで持ってきてもらったんだ。そんなふうに、一生懸命我慢していたんだけど、どうしても気分がたかぶって抑えようがなくて……ついに爆発しちゃったの。そういうことが続いていたんだよね。安っぽいキャバレーで……心が痛んでいるときに……変な客がいて、ヤクザみたいのとか、酔っ払いとかが、舞台に上がってきて……」
__それが直接の原因だとしても、もっとほかに、いろいろあったわけだね、心が痛む、何かが。
「うん」
__どうして?
「えっ?」
__どうして心が痛むようなことがあったの、その、野球をやる人との恋愛で。
「……」
__どうして?
「……」
__なぜなんだろう……。
「……裏切られたんだ」
__えっ、珍らしい台詞を吐くね、あなたにしては。
「裏切られたっていっても、怨みとか、そういうんじゃないんだよ。ぜんぜん、そういうんじゃないんだ。自分の思いがね、自分で勝手に思い込んだ、その思いが、裏切られちゃったと言ってるの。それが、それが……痛かったって言ってるの。心がね、痛んだっていうのは、そういうこと」
__自分の思い、ってどういう思いだったの?
「男の人を尊敬したいって思ったんだ。女がどれだけ頑張っても、やっぱり女なんだよね。できることなら、女は、やっぱり男に支えられて、そうやって生きていくことが幸せなんじゃないか、と思ったの。尊敬できる男の人と、一緒に生きていきたいと思ったんだ……でも……駄目だった」
__その人と、一緒に生きていこうと、思っていたの?
「うん……結構、真面目に考えていたんだよ……結婚を」
__結婚?
「そう……」
__それは意外だね。だって、その前に付き合っていた人、グループのボーカルをやってた人、その人のときには、結婚しようなんて思わなかったんでしょ?
「うん」
__相手も?
「うん……でも……すぐにというんじゃなかったけど、しばらくしたら、みたいなことは言ってたけど」
__まあ、一緒に住むということでよかったわけだ。あなたも彼も。それなのに、なぜ、次の人とは結婚しようと思ったの? あなたが結婚したかったの?
「正直言うとね、どうして一時期にしろ、熱くなって、惚れたかというとね……最初はあまり好きじゃなかったんだ、あたし。好きじゃなかったから、初めのうちは、むしろ惚れられたりすると、ややこしくなって困るなって思ったくらいなの。それがそそっかしくてこっちが惚れちゃったんだけど……」
__ハハハッ。
「笑わないでよ、そんなことで。悲しい話をしてるんだから」
__ハハハッ。
「それがどうして必要以上に熱くなっちゃったかというと、みんなでハワイに行ったんだよね。遊び仲間の人たちと一緒にハワイで一緒に時間をすごしているうちに情が移っちゃったんだ。どうしたって移るよね。移っちゃって、日本に帰ることになって、帰ってきたとき……成田で気がついたわけ。そうだ、ここであたしたちはバラバラになるんだ、この人は家に帰るんだ、家には奥さんがいるんだって気がついたの。そうだ、そうなんだ、って。そう思うと急に寂しくなったんだ。それに、やっぱり、人間ってさ、自分のものじゃないというと、欲しくなったり、そういうことってあるじゃない。それがあったから、一時期、そんなふうになっちゃったんじゃないかな」
__あなたが執着したの、結婚に。
「ううん、向こうが女房と別れるからって言い出したんだ。別れて、あなたと……あの人はあなたじゃなくておまえというんだけど……おまえと結婚するというわけ。奥さんがいて、子供がいるのに、それほどまでしてくれるというなら、なんて思ったことは確かにある。第一印象は悪くて、なんだろうこの人は、なんて感じがして……。でも、最初の印象って、正しいんだよね、いつでも」
__いまごろ、そんなことを言っても遅いんですよ。
「エヘヘ」
__まったく、阿呆なんだから……。
「最初ね、変わった人だな、と思って呆れて見てた」
__どうして知り合ったの?
「去年のオフにね、泉ピン子ちゃんたちと呑んでたら、ジャイアンツの若い人たちが呑んでるから来ないかって誘われて、みんなで行ったの。そこにいたんだ。変な人でね、女の人と見ると、すぐチークで踊りたがるの。ピン子ちゃんの付き人の人でもなんでも構わず、チークで踊るんだ。馬鹿にして見てたの、あたしは。でも、それから、そのグループで、よく会うようになって……ちょうどその頃、前に暮してた人と別れたすぐあとで、苛々してたんだよね。誰もいなくて、寂しかったんだね。馬鹿だね、あたしって」
__まったく。
「結婚して、子供さんがいるというのに、そんな人と恋愛するなんて、女のくせによくないよ。いくら好きになったんだから仕方ないといったって、好きになる前に、そういう行動を取らなければいいんだから、やっぱりよくないよ。ずいぶんひどいことをしたなあって、本当に後悔しているの。理屈で考えても、許されないことだよね。馬鹿と言われようが、何と言われようがしようがない。だから、かりに結婚したとしても、幸せになれるはずがないよね」
__これがぼくの妹かなんかだったら、馬鹿、とか言うんだろうけど、男と女の機微なんて、当人同士でなくちゃわからないことだろうし。でも、聞いているのが、ちょっとつらい話だなあ。
「そう? やめようか?」
__うん、やめよう。もう、その話はやめよう……どういうふうに最終的に決裂したのか知らないけど、なんとなく想像はつく。それもつらそうな話のような気がするから。
「うん……」
__別れたあとだね? クラブの楽屋でヒステリーを起こしたっていうのは。
「うん……でも、いま考えてみれば、悩んで、苦しんで、ノイローゼになるほどの相手じゃなかった。非常につまらない人でね。悩む必要のない、つまらない、薄っぺらな人で……自分の付き合っていた人を悪く言うのは、自分のくだらなさを言うことと同じだけど……ほんとなんだ。ほんとに、信じられないようなひどい言葉を投げつけられて、それで終ったんだけど……でも、別れる前に、気がつくべきだったんだよね。自己中心的な人で知り合ったはじめの頃、付き合ってる女の子が妊娠しちゃったらしくてどうしよう、なんて言ってて、産みたいって言うの、って訊いたら、冗談じゃない、あんな女に産ませるもんか、ぼくの子供を、って言うんだ。絶対に堕ろさせる、って。そういうことはいくらも見たり聞いたりしてたのに、気がつかなかったあたしが馬鹿だというだけ。そうなんだ……」
__……。
「いま思えば、むしろ、よかった。あのまま、もしか、うまくいってても、不幸だったと思う。男の人にチヤホヤされて、いつもそうだったから、あたし勘違いしてたんだと思う。男の人って いうものを。勉強になった」
__ハハハッ、勉強になったってのも、おかしな言い方だね。
「でも、やっぱり、勉強になった。あたしがいやで、逃げ出したい逃げ出したいと思っている世界へ、その人は近づきたくて仕方がなかったの。華やかっぽい、芸能界とか、そういうとこへ近づきたくてしょうがなかったんだ。ファンの集いなんかで舞台に上げられて歌なんか歌わされるわけ。見ていて可哀そうだな、なんて思うわけ。きっと居心地が悪いだろうな、って。すると、歌って戻ってくると、どうだった、俺うまかった、なんて訊くんだよね。ほんとに、困ったことがある」
__そうか……。
「お母さんが言うんだよね。純ちゃんの周りには、とても立派で素敵な人がいるのに、どうしていつも、よりによって……」
__ロクでもないのばかり好きになるんだろう、って?
「そう。変なのを選って恋愛してる、って」
__変なのを選(よ)って、というのは面白いね。選ってるの?
「まさか。でも、確かに、立派な人はいるんだけど、そして好きなんだけど……どうしても恋愛感情だけは生まれなかったんだ、どういうわけか」
__惚れるのは、いつも変なのばかり、か。
「そう」
__しかし、惚れるだのなんだのっていうのは、筋書どおり、理屈どおりにはいかないからなあ、実際……。
「そうなんだよね」
__くだらない、駄目な男ほど、女の人にとっては魅力があるものなんだろうし……。
「そうなんだろうね、たぶん」
【解説】
「もし、嵐になって、船が転覆して、ボートに救いあげてもらえるとき、あとひとりしか乗れないとしたら、どっちを先にしてもらうかな、って。お母さんか好きな人か、って。やっぱりお母さんかな。もし、あたしもその人も助かったとしたら、生き残ったあとがつらすぎるからね。それに、あたしって、男の人を見る眼がないから、自信持てないよ」
だめんずウォーカーな藤圭子さんですが、「男の人を見る眼がない」と自覚はあったようです。
つまらない男と同棲を解消したあと、妻子ある野球選手と付き合うようになります。
でも、その男に裏切られて……
__惚れるのは、いつも変なのばかり、か。
DVのひどい父親を持ったことと関係があるのかもしれません。
獅子風蓮