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というわけで、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を読んでみました。
(目次)
□一杯目の火酒
□二杯目の火酒
□三杯目の火酒
□四杯目の火酒
□五杯目の火酒
□六杯目の火酒
■七杯目の火酒
□最後の火酒
□後記
七杯目の火酒
3
__3年間一緒だったという……暮していたわけ?
「別々のときもあったけど、あとからは一緒に暮してた」
__どこで?
「あたしの……」
__マンションで? お母さんも一緒に?
「うん、そう」
__へえ。その彼は、何をする人だったの?
「歌を歌う人だったんだ。無名だったけど、とてもうまい人でね。グループを組んでボーカルをしてたりしてたの」
__どういうキッカケで知り合ったの?
「その人が歌っている店に行ったのかな……」
__それで、すぐ好きになったわけなのか。
「どうなんだろう……。きっと、そうなんだろうね。あたしって、好きな人ができたら、一直線にそっちに向かっちゃう人間なんだよね。好きな人の傍にいれば、それでいいわけ」
__でも、その感じと、さっきの前川さんとの対応の仕方は、かなり違うような気がするけど。
「うん、そうなんだ。前川さんのときは、大事にされて、与えられて、それが当然と思っていたとこが少しあったんだ。でも、やっぱり、こっちから与えなければっていう感じになったの。あたしは、好きになって、愛さなければ駄目なんだっていうことがよくわかってきたんだ。よく言い合うじゃない、女の子同士で。愛した方がいいか、愛された方がいいか、なんて。相思相愛の場合は問題ないけど、どちらか片一方の場合、どっちがいいかって。あたしは、自分が愛せなければ苦痛なんだよね。それがよくわかってきたんだ。もちろん、相手からだって愛してほしいよ、それは、絶対に」
__それで、あなたは、その彼に……惚れたわけだ。
「一緒にいることが楽しかったんだよね。いつでも、どこにも、一緒に行って、一緒に遊んでた。それが嬉しかったんだ、とても」
__その始まりはいつ頃?
「5年前……くらいかなあ」
__というと、あなたが23のときか。遊びたい盛りということになるかな」
「そうだね」
__5年前と言えば、パリでぼくがあなたを見かけた頃だよね。そのときはすでに知り合ってたの?
「まさか。そうだったら、一緒に行きますよ」
__大胆な発言ですねえ。週刊誌の恰好のネタになる。
「それはそうですよ。好きな人がいれば、どんなときだって一緒にいたいし、その人にも、人目なんか気にしないで、楽しそうに話していてほしいし……そうじゃないのかなあ、ほかの人も」
__ということは、パリから帰ってから始まったわけなんだね?
「そうだね、そういうことになるね」
__毎晩、一緒に遊びまわっていたわけか。
「うん。呑みに行ったり、映画を見たり……それに、あたしは、仕事があるから」
__彼、仕事は?
「あまり、やってなかったんだ」
__そうか、それであなたのマンションで暮すことになったのか。あなたは、彼が仕事をやっていなくてもよかったの?
「それは仕方ないと思ってた。世の中に認められないっていうことはよくあることだから。あたしは、とても歌がうまいと思ってたの。あたしより、4歳かな年下なんだけど……」
__ほんと。
「うん、でも、とてもいい声をしていて……いつか、きっと、世の中に出られるんじゃないかと信じてた。出る出ないはどうでもいいんだけど、このまま埋もれはしないと思ってたんだ。しかし、そう思ってたのは、あたしのひいき目だったのかもしれないんだけどね。そのときは、絶対にそうじゃない、客観的に見て才能があるんだ、と思ってた。でも、そうとばかりは言えないのかな。人の歌を歌っていても、はまるとうまいけど、そうじゃないとどうしてこんなにと思うほどへただった。それを頭のどこかで感じてたからね」
__でも、ひとり、誰かが自分の才能を信じてくれているということはとても心強いことなんだよね。彼にとっては、ありがたいことだったろうな。
「そうなのかな」
__そうだと思うよ、ぼくは。とにかく、同棲してあなたは幸せだったんでしょ?
「うん……」
__そうでもなかったの?
「お母さんと、うまくいかなかったの」
__そうか。
「お母さん、嫌いだったの」
__しかし奇妙なもんだな。結婚ならわかるけど、同棲にお母さんのいるところで暮すなんて……。
「でも、あたしは、お母さんと別に暮らせないし……」
__お母さんにしてみれば、気に入らないのは当然だと思う。その彼は、ろくに仕事もしていないのに娘に絡みついて、いわば転がり込んできた男なんだからね。でも、それは当然なんだからあまり気にすることもなかったのに……。
「でもね、お母さんばかりじゃなくて、長くいてくれているお手伝いさんも嫌いだって言うの」
__どうしてだろう?
「うん……」
__理由はなく?
「あの人は、純ちゃんが家にいるときと、仕事でいなくなっているときの態度が、まるで違う人だよ、って言うんだ」
__なるほど。
「あの人はコロッと変わる人だよ、いまはいいけど、もし自分が成功でもすれば、人が変わったようになるよ……」
__お母さんには、そう感じられたんだ。
「お手伝いさんも、同じようなことを言うんだ」
__そうか……。
「でも、それでも、あたしは構わなかったの。そのときがとても楽しかったから。一緒にいてくれたから」
__あなたが仕事から解放されると、いつも彼がいてくれたわけだ。
「そう」
__遊びに行っては、あなたが金を払い……。
「そんなことしないよ、そんな面子をつぶすようなことしっこないじゃない」
__だって、彼には稼ぎがなかったんでしょ?
「うん、だから前もってお金を渡して、それで連れて行ってもらったの」
__そうか、なるほど。男にとってはありがたい女性ですねえ、あなたっていう人は。
「そんなことないよ。ただ、そうしたかっただけ」
__そんなにうまくいってたのに、どうして別れてしまったの?
「お母さんだけじゃなくて、周りの人からもいろいろ言われたんだよね。あんなのと一緒にいたら駄目だとか、あいつはヒモ気取りだからとか。でも、いいって思ってたわけ、あたしはいいんだって。ところがね、3年目に、デビューすることになったの。グループを組んで、彼はボーカルで。それで合宿を組むとかいって、名古屋に仲間と行ったんだ、1ヵ月くらい」
__ああ、そうか。そのとき、例の詐欺男と知り合ったんだ。
「そうなの。初めて別れ別れになったから、寂しかったのね。それまでは、ほかの男の人と呑むなんていう時間がなかったわけなんだ、いつもその人と一緒だったから。でも、その合宿から東京に帰ってきても、うちに戻らなかったの。デビューするからと言うんで、プロダクションがアパートを借りてくれていたから、そっちで生活すると言うんで。彼も急に忙しくなってきたんだよね。デビューしたばかりのときって、誰でもキャンペーンとか、挨拶まわりとかで忙しくなるもんなんだけど……電話しても、ぶっきら棒で、何か感じが変わっちゃったの。お前の相手なんかしていられない、っていう調子の言い方になってきて……一度、喧嘩しちゃったんだ。お互いに、さようなら、って感じになって。でも、その翌日、電話したの、ごめんなさい、って」
__あなたが?
「うん、あたしが。昨日はごめんなさいって。いままでだったら、それで仲直りができたんだけど、そのときは、なんでいまさら電話なんか掛けてきたの、別れようということだったろ、って言われて……終っちゃったわけ。いままでだったら、向こうからごめんといってきて、仲直りしてたんだけど……ほんとに、変わっちゃったんだ」
__何が彼を変えてしまったんだろう?
「わからない。そういう人だったのかな、お母さんの言ったとおり。でも……」
__でも……そうだとすると、ちょっと悲しいね。
「うん」
__結局、彼のグループは売れたの?
「うまくいかなくて、解散した。そんなことがあって、もう一度、戻りたそうだったけど……うまくいかなくて」
__彼が?
「うん」
__そいつは情ないな。それまでのことは、男と女のことで、ありうることで、どっちが悪いってことはないと思うけど。そいつはだらしないなあ、いやだね、ぼくは。
「あたしも、やっぱりやさしくなれなくて……別れた」
__別れたのか……。
「うん、別れた」
__そうか……。
「でも、ふっと、いまでも気になるんだよね。どうしてるのかな、うまくやってればいいんだけど、幸せなら嬉しいんだけど、って」
__そう感じる?
「うん」
__それは、ずいぶん男性的な感性だね。別れた女が気になる……男の思い方と同じような気がする、あなたの感じ方は。
「そうなのかな。幸せならありがたいな、あたしも楽になるな、そう思う。向こうは、きっと、なんとも思ってはいないと思うけど」
__あるいは、ね。
「向こうは向こうで勝手にやって、幸せになっててくれたら、救われるな、あたしも」
__どうして? どうして、救われるの?
「もしかしたら、あの人を駄目にしたのは、あたしかもしれないから……」
__どういうこと?
「デビューして、もう2、3年の頃からそうだったんだけど、あたしには収入があるわけ。並のお金じゃない収入があるわけ。あたしっていうのは、どういうんだろ、持っていると人にあげたくなっちゃうの。どんなものでも与えたくなっちゃうの。その人が欲しいというものなら、それがいま、自分のうちで使っているテーブルでもあげちゃう。人に何かしてあげたくなっちゃうんだよ。それが、相手が男の人でも、そうしちゃう。結果的にはそれが悪いんだって人に言われるんだけど。よくない言葉で言えば、貢いじゃうんだ。男の人に支えられるというより……なまじ生活力があるもんだから、逆にしてあげちゃうわけ。その人の場合にも、好きなものを買ったり、みんな自由にしてもらっていたの。でも、いま考えると、そういうこと……働かないでお金だけ自由になるなんていうことを、男の人にさせてしまったっていうのは、よくないことだったんだよね。それは、ほんとに、悪かったと思ってるんだ。あたしが、そんなふうにしなければ、もっと違ってただろうなあって思う」
__あなたの考え方は、実に男っぽいね。
「いけないのかな?」
__いや、いい。実に、いい。愚痴っぽく、メソメソして、男のせいにばかりするより、その方がはるかに恰好いい。しかし、あなたは、なんと、恐怖のプレゼント人間、なのか。
「フフフッ、そうなんだ。自分が必要なのに、なくて困っているなんて聞くと、持っていっていいよなんて言っちゃってすぐ、車で取りに来られて、仕方がないから、翌日、それと同じものを買いに行ったりして……馬鹿みたいなんだ。ステレオなんて何台あったかわからないんだけど、気がついたら一台もないんで、しようがないんで、番組にでも出て、貰おうかなんてことに なって、物まね番組に出て、貰ってきたりして……」
__ハハハッ、馬鹿ですねえ。
「ほんと馬鹿ですねえ、われながら」
__彼は、いま、どうしているの?
「六本木で弾き語りをしているらしいけど……」
__あっ、そうか。女性セブンで、藤圭子再婚か、とかいう記事が出た、その相手っていうのは……。
「そう、その人なんだ。いやだね、もう、何もないのに」
__会うつもりもないの?
「うん。だって……もう……」
【解説】
離婚後、好きになって同棲したつまらない男の話。
藤圭子さんはどうも、だめんずウォーカーの素質があったようです。
獅子風蓮