正木伸城さんは創価学会元理事長・正木正明氏の息子で、創価中学校、創価高校、創価大学と一貫して創価学園に学んだ経歴を持ち、創価学会本部職員として働いた経歴をお持ちです。
組織のあり方に疑問を持ち本部職員を退職した後も創価学会にとどまり、ライターとして活動していらっしゃるそうです。
「週刊新潮」(2022年12月1日号)に、正木伸城さんの手記が載っていました。
以下、「週刊新潮」の記事の引用をもとに解説します。
創価学会“ロイヤルファミリー”に生まれて……
「元理事長の子息」の私が経験した「公明党」と「池田名誉会長」
元創価学会本部職員・ライター 正木伸城
私が創価学会に入会したのは生まれて約2ヵ月後のこと。私は学会の未来を担う子=学会っ子として育てられた。他の宗教と同じく、創価学会にも宗教儀式や儀典があるのだが、幼い頃に違和感を抱いたことはあまりない。
たとえば朝晩に仏教経典を読むことも、一般のすべての家で行われている儀式だと思っていた。その認識が崩れたのは小学1年生の時だ。わが家に遊びに来た友だちが仏典を唱えている私の母の姿を見て、「お前のお母さん、何してるの……」とドン引きしたのである。瞬間、私は多くを悟った。
また、小学校の修学旅行で日光に行くことになった際には、母から「鳥居をくぐってはいけない」「神社で拝んではいけない」と念を押された。現地で友人たちが礼をする中、直立し続けた私は、この時にも「他との違い」を感じた。ただし「創価学会の教えが世界で一番」と信じていたため、嫌というよりはむしろ誇らしい気持ちが強かったことを覚えている。
このように親から幼少期に信仰を教わり、その流れのまま信仰生活が始まったという学会二世は少なくない。ところが、思春期に入ると、この状況は一変する。自我意識が変容するからか、それなりの数の子どもが学会活動から離脱するのだ。私もその例に漏れず、小学校を卒業するあたりから学会の教えやスタンスに疑問を抱くようになった。それは「祈りは叶う」という基本的な教えに対する違和感から、特定の他宗教を悪しざまにののしる学会員の態度まで多岐にわたった。この私の疑問に対して先輩 信者たちの反応は様々で、質問すること自体を不信心とみなす人もいたし、丁寧に返答してくれる人もいた。
結局、私は学会の教えに納得することはできなかったものの、信心自体を否定することはせず、小学生の時の信仰活動参画というスタンスの延長で創価中学に進学することになった。
意外に思われるかもしれないが、創価学園(創価小・中・高)の授業で宗教教育が行われることはない。授業という形で創価学会について学ぶこともない。ただ、私が通っていた頃の学園には礼拝の部屋が存在し、そこには学会の本尊が置かれていた。それに、学園祭等のイベントを迎える前には準備活動として、「学園を創立した池田大作先生(=創価学会の“永遠の師匠”でもある)」について学ぶこともあった。礼拝室に集まって行事の成功を祈る生徒もいた。
とはいえ、それはあくまで生徒同士での活動・研鑽である。池田氏について疑問をぶつけたとしても、周囲から排除されることはない。私が信仰について問うこと自体を「ダメだ」という友人は少数で、「どうなんだろうね」と議論できる友だちがいたのは事実だ。
それでも、ある種の同調圧力が全くないと言えば嘘になるだろう。学園の行事などで創価学会に関わる仏教用語が飛び出すことはまずないが、イベント中に「池田先生」への尊敬を表現するような団体演技が行われたりすることはあるからだ。
たとえば、みなで振りつけ付きの歌を歌い、池田氏に向かって決意を宣誓することもあった。 そんな一連の取り組みが全員参加型であることもしばしばだ。この演技をボイコットするのは容易ではない。多くの生徒は池田氏に対して様々な感情を持ちつつも行事には参加する。そして池田氏への尊敬を、本気か形だけかを問わず表現する。
自分に嘘はつけない
私自身は、最初はそういった行事に嫌々参加していた。しかし、直接池田氏の振る舞いに触れるうちに心境に変化が訪れる。世間的には池田氏は独裁的なイメージを持たれがちだが、少なくとも私が目撃した池田氏は、気さくで心配りも行き届くやさしさのある人物だった。何より、ユーモアがあった(これは生徒の心をつかむ上で大事な要素でもあったと思う)。
学園の行事にとあるプロサッカー選手が来た際は、池田氏がドリブルをする仕草をして会場の爆笑を誘った。彼の人間味は、私の心を動かさずに置かなかった。その感情は親しみへ、そして尊敬へ変わった。
後に創価大学に進んで学会活動に目覚め、学会本部に就職した私にとって、創価学園の文化は信心の原点になった。私はやがて、その後の人生を学会をど真ん中にして生きると決めた。学園時代に芽生えた池田氏への尊敬の念は、氏を「永遠の師匠」と見る自身の信仰的態度に結実した。このように、学園での体験と後の信仰が結びついた人は多いだろう。
振り返るに、私がこの環境下で学会を辞めて別の道を選択するのは正直難しかったと思う。親族から友人関係までのほとんどを学会関係者が占めていた私からすれば、学会から離脱することは死も同然の決断になる。似たことを感じる学会二世はかなりいるだろう。それまで信じていたものを 手放す苦しみも尋常ではない。
だから創価学会の二世信者に信教の自由があるのかと問われると、首を傾げてしまう。個人的には、学会二世が信仰をするか否かをより選びやすい状況・選べる機会が増えることを望んでいる。一世信者と同じように二世信者にも信教の自由が確保されることを願っている。
私が創価学会本部を辞めたのは36歳の時だ。退職したいと思った理由は、本部の文化や不文律になじめなかったこと、さまざまに見聞きすることの中に受容できない部分があったこと、組織運営上の構造的な問題をどうすることもできないジレンマを抱えていたことなど多岐にわたるが、公明党を心から応援できなくなったことも一因である。私はいつしか、公明党の政局的な振る舞いや政策などに手放しで賛同できなくなっていた。
しかし、本部職員のままでいると、組織の中ではどうしても指導的な立場になってしまう。そして多くの学会員に公明党のすばらしさを語り、支援を促さなければならなくなる。心から推すことができない公明党を多くの人に勧めるのだ。自分に嘘をつくことに私は耐えられなかった。それで 学会本部を去った。家族・親族からは凄まじい猛反対に遭ったし、友人から過激に非難されたこともあった。現実的な問題として収入がなくなり生活が立ち行かなくなるという心配もあった。だが、私の決心は揺るがなかった(付言しておくが、私は創価学会自体を退会してはいない)。
ちなみに、世間では、学会員の公明党支援は強制だと思っている人が多いかもしれない。だが、実は、学会員がどの政党・どの候補者を支援するかは、表向き「各人の自由」ということになっている。池田大作氏もそう明言している。
ところが、学会活動の現場に行くと、実際は異なるケースが相当にあるのも事実である。
(つづく)
【解説】
世間的には池田氏は独裁的なイメージを持たれがちだが、少なくとも私が目撃した池田氏は、気さくで心配りも行き届くやさしさのある人物だった。何より、ユーモアがあった(これは生徒の心をつかむ上で大事な要素でもあったと思う)。
学園の行事にとあるプロサッカー選手が来た際は、池田氏がドリブルをする仕草をして会場の爆笑を誘った。彼の人間味は、私の心を動かさずに置かなかった。その感情は親しみへ、そして尊敬へ変わった。
創価学園で頻回に池田氏と接する機会を持ちながらも池田氏を批判的に見ることしかできない長井秀和さんと違い、池田氏と接することで氏への親しみと尊敬を育んでいったという正木氏に、かつての創価学園で学んだ私としては共感を覚えます。
私が創価学会本部を辞めたのは36歳の時だ。退職したいと思った理由は、本部の文化や不文律になじめなかったこと、さまざまに見聞きすることの中に受容できない部分があったこと、組織運営上の構造的な問題をどうすることもできないジレンマを抱えていたことなど多岐にわたるが、公明党を心から応援できなくなったことも一因である。私はいつしか、公明党の政局的な振る舞いや政策などに手放しで賛同できなくなっていた。
かつて、本部職員を解雇されたいわゆる「3人組」がいました。
彼らはカンパなどに頼って、学会上層部への批判を行っていましたが、その後活動は低迷しているようです。
正木氏が彼らと違うのは、本部職員として組織の指導層にとどまることが、自分の倫理観と合わず「自分に嘘をつけない」と思ったことにあります。
また、退職後も、ライターとして堅実に仕事をしていることも大きな違いでしょう。
精神疾患を乗り越え、よくぞここまで頑張ってこられたと尊敬します。
私は創価学会を辞めた立場であり、直接学会の改革に参加することはできませんが、正木さんのような方が学会にとどまり発言を続けることは、「聖教新聞の多部数購読、選挙、財務」など、創価学会の組織の問題を改善する機会になることでしょう。
応援しています。
獅子風蓮