獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

正木伸城さんの本『宗教2世サバイバルガイド』その7

2024-01-25 01:51:51 | 正木伸城

というわけで、正木伸城『宗教2世サバイバルガイド』(ダイヤモンド社、2023.06)を読んでみました。

本書は、悩める「宗教2世」に対して書かれた本なので、私のようにすでに脱会した者には、必要ない部分が多いです。
そのような部分を省いて、正木伸城氏の内面に迫る部分を選んで、引用してみました。

(もくじ)
はじめに
1 教団の“ロイヤルファミリー”に生まれたぼくの人生遍歴
2 こんなときどうしたら?宗教2世サバイバル
3 自分の人生を歩めるようになるまで
4 それでも、ぼくが創価学会を退会しないわけ
5 対談 ジャーナリスト江川紹子さん 


2 こんなときどうしたら?宗教2世サバイバル

□親子関係編
■恋愛、友人関係編
□進学、就職、転職編
□信仰活動編
□信仰活動離脱後編


2 こんなときどうしたら?宗教2世サバイバル

恋愛、友人関係編


(つづきです)

Q:「恋人に布教をしろ」といわれて実践したら、振られてしまいました。

A:振られた悲しみを癒やし、気がまぎれることをして忘れて。


ここまで、友人関係にかんする出来事を扱ってきました。ここからは、恋愛の話に移ります。
恋人ができたら、いつ自分のことをカミングアウトしようかと悩む宗教2世も結構いるのではないでしょうか。
ぼくにも、おなじような経験がありました。人生ではじめて彼女ができたときの話です。
その女性はもともと、当時、ぼくが住んでいた東京・信濃町の地元の仲間でした。 高校生のときから恋愛がはじまり、それ以降もお付き合いを継続。
そして彼女とぼくは、そのうち「結婚しよう」といい合うようになりました。信頼関係が、深く築けていたと思います。
ところが、そんなぼくらの関係に暗雲がたれこめます。
ぼくが創価学会の学生のセクション(学生部)で活動をはじめてしばらくたったころ、先輩に、「その彼女、折伏するんだよな?」といわれたのです。
「折伏」とは、布教のことです。
その先輩は、ぼくの彼女を創価学会に入会させろといってきました。
そのころのぼくは、すでにほかの多くの友だちに折伏をするようになっていたので、折伏をすること自体に抵抗はありませんでした。布教活動にかんしては先陣を切っていると、まわりからもいわれていました。
でも、相手が自分の彼女となると、思わずヒヨってしまいます。
ぼくは躊躇しました。
すると、先輩がこう告げてきました。
「あれ? ビビってんの? 折伏は人を選ばず万人にするものだろ。折伏しやすそうなヤツを選んで折伏するなんて、邪道だぞ」
――で、当日です。いつもどおり彼女とデートしたぼくは、東京・お台場の浜辺で、愛の告白でもするかのようなおももちで、信仰の話を切りだしました。


大好きな彼女に宗教の勧誘をしたら……

「あのさ……君は俺が創価学会員だってことは知ってると思うんだけど、きょうは大切な話があるんだ」
「えー? なに?」
「創価学会のことを君に知ってもらいたくて」
「え? 学会のこと?」
「真剣な話でさ。俺のことを知ってもらうには、どうしても創価学会のことを知ってもらいたいんだ」
「イヤ。聞きたくない。わたし、学会嫌い」
「いや、え?」
「それ、シャクブクでしょ?」

シャクブク。
なぜに、彼女の口からシャクブク?
なぜだろう。なぜ、そのワードを知っているのだろう。なぜ、こうなっちゃったんだろう。
じつは彼女は過去に親が知り合いの学会員から折伏を受けた経験があるそうで、そのことを何度も聞かされてきたため、創価学会に悪い印象を抱いていたのです。しかも、彼女もぼくとおなじ信濃町の住人です(そう、そうなのです)。
信濃町といえば、創価学会本部をはじめ、学会の建物がひしめく土地。地域住民はそこを「創価タウン」とよんだりします。
日常的に学会員や本部職員を目撃してきた彼女は、「創価の女の人って、みんなおなじで、ダサい格好してるじゃん。あれ、不文律でああしてるんでしょ? そういうのが平気な人たちに魅力なんて感じないよ」と、切って捨ててきました。
ショック……。
ぼくの心のダメージは思いのほか深かったため、このとき、ぼくは近場の山に逃走しました。
そして、ある程度高いところから朝日や夕日を眺めました。
それで、心の痛みを忘れようと努めたのです。
悲劇については、なにかで気をまぎらわせて忘れるというのも大事です。


結局、宗教が原因で振られることに

その後も、付き合いのなかで彼女とのやりとりはつづきましたが、雲行きは怪しくなる一方。このときばかりは、ふだん布教で引き下がることのなかったぼくも、心が折れました。
結婚するなら、彼女に折伏を――。
そう考えていましたが、結局、その夢は潰(つい)えることになります。
それ以降も、ぼくは何度も何度も彼女を折伏しようとしました。布教活動を「してしまった」のです。
その結果、彼女との関係はジ・エンド。別れ際、彼女がこういったことを鮮明に覚えています。
「そういうの(折伏)、ほんとうによくないよ!」
当時のぼくは、彼女の怒りに丁寧に応じることができませんでした。しかし、反省はしました。
二度とおなじことをくり返さないように、具体的に反省した内容をメモに書き出して、可視化しました。たとえば、こんな感じです。

・彼女を「人間として」見るのではなく、「折伏の対象として」見てしまった
・俺は「折伏は絶対に正しい実践だ」と思っている
・そのため、彼女がイヤがっていても、折伏をやめなかった
・結果、もともと創価学会に嫌悪感を抱いていた彼女の感情をさかなでした
・それが、俺にたいする嫌悪感につながった
・なにかの正しさを妄信すると、俺は止まれなくなる
・妄信したものを押しつけると、どんな善意でも、相手を傷つけてしまう
・相手を傷つける行為は、いかなる理由があっても正当化されてはならない
・宗教は「絶対に正しいなにか」を信じるけど、その「信」と「理性的な判断」はうまく両立させなければならない。そのためには、どうしたら?

ぼくには、こういった「内省メモ」をとる習慣があります。メモを残す際に工夫すべき点としては、思考のプロセスを、なるべくそのまま記述することです。
この内省メモは、自己分析をするうえで大変に役立ちます。自分を客観視できるようになるのです。内省メモは、反省の足がかりにもなります。内省メモのおかげでぼくは、自分の正しさを押しつけるような、独りよがりの折伏をやめました。だからでしょうか。この事件以降、宗教のことで恋愛が炎上することもなくなりました。
すると、以前ふれた「他人ゴトのように自分ゴトを見る」(6ページ参照)を、より上手に実行できるようにもなります。ぜひ、ためしてみてください。

Q:時々、恋人や友人を布教対象として見てしまうことがあります。

A:「相手を「手段」として見るのはとても失礼です。 やめましょう。


先ほど、アーレントを引き合いに出しつつ少し難解な話をしましたが、本章の最後に、ふたたび、若干難しい話をさせてください。
これは、ぼく自身が、恋人や友人との関係においてもっとも悩んだ点で、どうしても外せないのです。
前節の失恋の場合にかぎらずですが、ぼくは、外部の友人(学会員ではない友人)に折伏や公明党への支援の依頼をたくさんしてきました。
熱心な学会員の多くが、おなじようにしています。
その活動は活発で、たとえば選挙のときに100人以上に投票のお願いをする人もザラです。ぼくも300~400人にアポイントをとってあたってきました。折伏も、同世代のなかでは飛び抜けた成果を出してきました。
それを学会組織に伝えると大変に喜ばれます。
当時はぼくも、それを誇らしく感じていました。

しかし一方で、この活動に悩みもしました。
相手を「友だちとして」ではなく、「折伏の対象として」「公明党支援の依頼先として」見てしまうという悩みです。
しかも、アタックした友人は、組織に「数」として報告されます。すると、気がつかないうちに友人を「数」として見てしまうのです。
これは端的に、相手に失礼です。
ですが、このようなマインドをもつ学会員は、ぼくもふくめ、活動の現場でけっこう見られました。
友だちを広宣流布などの大義を達成するための手段にするような行為は、少し難しい言葉で表現すると、人間の「手段化」といえます。
あたかも、おいしい料理をつくるために包丁を手段として使うように、友人を目的達成のための手段にする。いわば、包丁などのように、相手を集票などの「道具」として使っているわけです。
これが過剰になったとき、人は相手を「道具のように操作してもいいもの」と見なすようになります。
こう書くと、「そんなわけがあるか」と思う人もいるかもしれませんが、人は知らない間にこの罠にハマっていきます。とくに大義や権威の“後ろ盾”があるときは危険です。それらが手段化を正当化してしまうからです。
あらためて、ぼくが失恋したときにつくった「内省メモ」を書きだします。

・俺は「折伏は絶対に正しい実践だ」と思っている
・そのため、彼女がイヤがっていても、折伏をやめなかった

こんな感じになってしまうのです。


絶対に、相手を意のままにあやつろうとしてはいけない

多くの先哲は、古より指摘してきました。
人間がもっとも抵抗すべき欲望の一つは、「相手を意のままにあやつりたい」という欲望なのだと。
相手を自分の意に沿うかたちで説得したい。態度を変えさせたい。意見を変えさせたい。
相手を操作しようとする欲望ほど、恐ろしいものはありません。
これとおなじようなことが、折伏や公明党支援の依頼にも起こるのです。折伏をするときに、学会員は相手の態度をあらためさせ、創価学会に入会させようとします。公明党への支援依頼では、相手を公明党への支持に誘引しようとします。
どんな正当化の理屈をつけても、これらが相手を操作しようとする営みであることに変わりはありません。
じつは、折伏や公明党支援の依頼は、このような危険ととなり合わせにある。そういった危険への抵抗もなしに公明党支援の依頼などを行ったらどうなるか。相手は敏感に、自分が手段化に巻きこまれようとしていることを察知するでしょう。
「いい迷惑だよ!」とか「そういうの(折伏)、ほんとうによくないよ!」(ぼくの元カノ)と怒るかもしれない。もしくは「この人はわたしのことを、友人ではなく票として見ているのでは?」と疑念をもったりもするでしょう。
学会員からすれば、「そんなふうに受け取る相手は、わたしたちを誤解している!」と反論したいところかもしれません。
でも、そこはおのれを見つめ直してほしい。
そこで相手を責めて相手を変えようとすれば、それはふたたびあなたが、相手を意のままにあやつりたい欲に、みずからをさらすことを意味します。

ぼくは、ひんぱんに内省をくり返してきました。前節で紹介したような内省メモをたくさんとりました。

ちなみに、内省にはコツがあります。それは「他人に相談すること」です。
こう書くと、「え? 他人に相談したら、内省にならないのでは?」と思うかもしれません。たしかに、なんらかの答えを他人に出してもらおうという依存心まる出しで相談に行ってしまえば、内省はうまくできません。
しかし、つぎのポイントを意識して相談の場をつくっていくと、相手の言葉が内省に活きるようになります。

・相談に乗ってもらう相手は、なるべく自分から「遠い人」にする
・相談相手の違う考え、価値観、意見を楽しんで聞く

創価学会の悩みについて内省するとき、ぼくは可能なかぎり「創価学会員ではない人」「学会員であっても、その価値観にいい意味で染まっていない人」「広い視野をもっている人」に相談し、その人の言葉を呼び水にして思索を進めていきました。それが、「遠い人」の「遠さ」の意味です。
そうしたほうが、会話が予定調和的にならず、意外な意見や言葉も飛び交うようになるため、それまで知らなかった自分に出会える確率が高まります。

自分のなかの「意外な自分」を、たくさん知ってください。
それができれば、内省メモも充実します。 内省も深まります。
なぜなら、内省とは、自己内の対話だからです。
自分自身と多彩に会話ができれば、内省も彩り豊かになるのです。
ぼくは、この「コツを押さえた内省」によって、先の恋愛の問題点を1行にまとめることができました。

・彼女を「手段として」ではなく、「人間として」見るにはどうしたらいいか


相手を手段として見るのではなく、「ギブ」をしよう

相手を自分の「手段として」ではなく、「人間として」見ること。これは、案外難しいことです。
ですが、これは宗教2世の処世術全般の基盤になるポイントですので、ここで少しくわしく解説します。
ぼくは人間の「手段化」について、さまざまな精神的格闘をかさねてきました。そのうえで心がけるようになったことは、主に4つです。

・自分が、相手を手段として利用していることを自覚する
・相手を手段として利用した場合は、感謝の気持ちを言動でしめす
・相手が「利用されている」と感じるかどうかは、相手と自分の信頼関係の度合いに左右されるため、信頼の構築を欠かさない
・ギブ&テイクのうち、「ギブ」を楽しんで行う

宗教活動にかぎらず、人間の手段化は身近なところに潜んでいます。
たとえば、会社であなたが「あの資料、忘れてきちゃった。わたしのデスクに資料をとりに行ってくれる?」と部下にお願いしたとします。これも、資料を手にするための要員として相手を「利用している」という意味で手段化です。
問題はこれが過剰になったときで、度が過ぎると人にイヤな思いをさせます。
その過剰になる可能性をかぎりなく小さくするために行うべき第一歩の行動が、「自分が相手を手段として利用していることを自覚する」ということです。
自覚があれば、「あ、いまわたし、あの人を使い過ぎてるかも」と気づくことができます。不純なことをしている気持ちにもなります。それが、手段化の過剰に歯止めをかけるのです。

そのうえで、日常から完全に手段化をなくすことはできないことも自覚して、相手を手段化した際には言動で感謝をしめしましょう。
そして、相手との信頼関係を、丁寧にじっくり育てていくのです。
人間関係がしっかりしていると、多少無理なことを依頼しても、「しょうがないなあ」と相手はお願いを聞いてくれます。なぜそうなるかというと、信頼がクッションとなって、お願いされることへの抵抗感などが小さくなるからです。
そこで、最後にギブ&テイクのうち、「ギブ」を楽しんで行ってください。
世のなかには「ギバー(受け取る以上に与える人)」「テイカー(与えるより多く受け取ろうとする人)」「マッチャー(損得のバランスをとる人)」という3種の人がいます。
ひどいテイカーは、「くれ、くれ」といって相手を利用し、手段化しようとする傾向があります。一方のギバーは、損得勘定なしに見返りをもとめず、相手に「ギブする(与える)」人です。
組織心理学者アダム・グラントは『GIVE & TAKE』(三笠書房)のなかで、ギバーは、自分もふくめ、みんなが幸せになることを考えて行動するといいます。「みんなが幸せになる」とは、「だれも犠牲にしない」ということです。本節に引きつけていえば、それは「だれも手段にしない」と換言できるでしょう。

ギバーは基本、相手を信じます。
そこでなにが生じるかというと、相手から信頼されるということが起こる。すると、そうした人間関係のなかで、相手を利用しようという手段化の波が鳴りを潜めるようになります。「ギブ」を起点に、信頼をもとにした人間の手段化への抵抗が生まれるのです。
なぜなら、信頼関係のある相手を手段として使おうとすると、負い目を感じるように人間はできているからです。

よく「友だちを大切に」といわれますよね。
「大切に」の内実とはなにか。
ぼくにとってそれは、ここで紹介した4つのポイントになります。
ぼくは、幸いにも友人にはすごくめぐまれています。感謝しかありません。
そして、ありがたくも「ギブ」の効能がもっともよく表れたのが、ぼくの転職という大逆転劇でした。
ぼくは友人の手助けによって、厳しかった転職を成就することができたのです。
くわしくは次章でふれますが、ギブの具体例としても参考にしてください。


まとめ

宗教的な文化や慣習が日常のふるまいに出て、友だちや恋人に不思議がられたり、周囲からイジメを受けたりすることもあります。かといって、こういった宗教由来の特異なふるまいを隠しきるのは、けっこう大変です。
では、うまく生きていくために、なにをすべきか。本章では、イジメられないために自分の強みを活かしたり、宗教的慣習をネタにして溶けこむといったサバイバル術をしめしました。人間関係で失敗したときの内省のコツも提示しました。
もっと大事なこともあります。ぼくと恋人との話題に象徴されるように、「相手を一人の人間として敬い、丁寧に接する」ということです。
これらを読者のみなさんに納得してもらいたいと思い、本章ではこの実践の意義をしるしました。また、その具体的実践として、「相手を手段にしない」「相手にギブをする」といった例をあげました。参考にしてみてください。


解説
信仰が原因で彼女から拒否されたことは、正木伸城さんにとって強烈な体験だったのでしょう。
対話ブログの管理人であるシニフィエさんも同様の体験をしていますが、その時シニフィエさんは彼女と彼女の両親を見下し、自分から遠ざかっていったといいます。
その後、創価学会の組織から離れ、あるとき別れた彼女から連絡があり、当時の自分が彼女にいかにひどいことをしたかに気づいて苦しんだといいます。

正木伸城さんの場合は彼女から拒否されたあと、自分の行為を深く反省して、相手を手段として見るのではなく、「ギブ」をしようというところに行きつきます。正木さんは他者に対してどこまでも誠実な人なのですね。

ここは、多くの人に学んでもらいたいところです。


獅子風蓮



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