創価学会の「内在的論理」を理解するためといって、創価学会側の文献のみを読み込み、創価学会べったりの論文を多数発表する佐藤優氏ですが、彼を批判するためには、それこそ彼の「内在的論理」を理解しなくてはならないと私は考えます。
というわけで、こんな本を読んでみました。
佐藤優/大川周明「日米開戦の真実-大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く」
今回は「文庫版あとがき」を引用したいと思います。
日米開戦の真実
――大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く
■文庫版あとがき
文庫版 あとがき 佐藤優
(つづきです)
話を元に戻し、本書が私が職業作家になる上でどのような意味をもったかについての説明を続ける。私の第2作は、2005年9月に産経新聞出版から上梓した『国家の自縛』(その後、扶桑社文庫)だった。これは、私が尊敬する産経新聞の斎藤勉氏(モスクワ支局長、編集局長を経て現在産経新聞社常務取締役)が聞き手になってくださり、あの時点でまだ混沌としていて形をなしていなかった私の考えを言語化したものである。『国家の罠』は当事者手記で、『国家の自縛』は対談である。しかし、これだけでは、職業作家になる条件を満たしていない。第三者ノンフィクションを書くことができて、はじめて職業作家として独り立ちすることができるのである。
私の第3作は、2006年に新潮社から上梓した『自壊する帝国』(その後、新潮文庫)で第4作が同年7月に上梓した本書『日米開戦の真実』である。実は原稿は、本書の方が『自壊する帝国』よりも早くできていたのである。『自壊する帝国』は、新潮ドキュメント賞、大宅壮一ノンフィクション賞を同時受賞し、私の代表作と見なされるようになった。確かに『自壊する帝国』は私にとって重要な作品だ。ただし、書き進める上での苦労はそれほどなかった。なぜなら、第1作の『国家の罠』と同じ当事者手記だったからだ。本書『日米開戦の真実』は、私が初めて書いた第三者ノンフィクションなのである。
本書の単行本あとがきに記したが、私が大川周明について「書きたい」という強い衝動を持ったのは、2002年9月17日、私が手錠、捕縄(ほじょう)をかけられて小菅の東京拘置所から東京地方裁判所第104号法廷に連行され、傍聴人とマスコミ関係者の好奇の目にさらされながら、検察官による起訴状朗読を聞いているときだった。私以外の3人の被告人は罪状を「認めます」と裁判官に告げることになる。私だけが無罪主張をしているので、公判は分離される。このときテレビで見た東京裁判のときの大川周明の姿が突然、私の脳裏に浮かんだ。
極東軍事裁判(東京裁判)の初公判にパジャマ姿で出廷し、検察官による起訴状朗読中に鼻水をたらしながら合掌し、東条英機元首相の禿頭を平手で叩いた。裁判長が休廷を宣告すると大川周明は「一場のコメディーだ。みんな引き上げろ」と叫んだ。
今になって振り返ると、私が大川周明についてこのとき思い出したのではなく、大川周明の魂魄は東京地方裁判所に浮遊してきて、私の魂をとらえたのだと思う。
ところで、ダンテの『神曲』を直訳すると「神のコメディー」になる。『神曲』の翻訳者である平川祐弘氏はこう述べる。
〈ダンテ自身はこの作品を単に「コンメーディア」と呼んでいた。めでたい結びを持つ作品はCommmediaなのであり、至高天に昇ることで終わるこの作品がめでたいことは論をまたない。「神々しい」という形容詞はボッカッチョに由来する由だが、 Divina Commediaという題名は1555年のヴェネチア版で決定されたといわれている。日本ではコルリイルの『西洋易知録』(河津祐之訳、明治2年)に「ヂヒナコ メジヤ」の名が見える。「神曲」という訳名は森鴎外が『即興詩人』の中でそう訳したため人口に膾炙した。〉(平川祐弘「ダンテと『神曲』の世界」『神曲 天国篇』河出文庫、2009年、509頁)
確かに私に関しては、逮捕、勾留の経験が「めでたい結び」を持ったといえる。この経験を経て、どのような状況でも私を信じ、支えてくれる本当の友がいることを確認できたからだ。
大川周明があの奇矯な立ち振る舞いをしなかったならば、東京裁判の本質を私は理解することができなかった。「勝者の裁き」という茶番を大川周明が可視化したのである。この意味は大きい。東京裁判をめぐってはシンボルを巡る闘争が展開されている。率直に言うが、すでに有効性を喪失して久しい左翼、右翼というレッテルを貼りながら展開されているこのシンボルを巡る闘争に私はまったく関心がない。しょせん「勝者の裁き」とはこんなものだ、と東京裁判を突き放して見ている。
ここで興味深いのは、A級戦犯を巡って、定義をよく詰めないまま空中戦が行われていることだ。すなわち1946年1月19日付極東国際軍事裁判所条例第5条に基づき、平和の罪で訴追された者をA級とした。そして、通常の戦争犯罪で訴追された者をB級、人道に対する罪で訴追されたものをC級とした。このような見方が現時点における多数派の見解といってよいと思う。念のため『世界大百科事典』(平凡社)の記述を引用しておく。
(中略)
東京裁判が行われていた当時は、極東軍事裁判所条例第5項の規定と関係なく、「平和に対する罪」に問われた国家指導者をA級戦犯 class A war criminal、それ以外のB項とC項の犯罪を犯した者をBC級戦犯class B & C war criminalと呼んでいた。これは米国式の呼称で、英国式ではA級戦犯を主要戦犯major war criminal、BC級戦犯を軽戦犯 minor war criminalと呼んでいる。さらにBC級戦犯に、B級は指揮監督にあたった士官・部隊長、C級は直接捕虜の取り扱いにあたった者、主として下士官、兵士、軍属であるという解釈もある。この点について、何人かの読者から感想と意見を頂いた。文庫化にあたって、読者からの意見を踏まえた改訂を当初試みたが、それを行うと本書の主要論点からはずれると考え、断念した。私の力不足のため、読者の要望に十分応えることができていない部分があることについてお赦しを乞いたい。
(つづく)
【解説】
私が大川周明について「書きたい」という強い衝動を持ったのは、2002年9月17日、私が手錠、捕縄(ほじょう)をかけられて小菅の東京拘置所から東京地方裁判所第104号法廷に連行され、傍聴人とマスコミ関係者の好奇の目にさらされながら、検察官による起訴状朗読を聞いているときだった。私以外の3人の被告人は罪状を「認めます」と裁判官に告げることになる。私だけが無罪主張をしているので、公判は分離される。このときテレビで見た東京裁判のときの大川周明の姿が突然、私の脳裏に浮かんだ。
極東軍事裁判(東京裁判)の初公判にパジャマ姿で出廷し、検察官による起訴状朗読中に鼻水をたらしながら合掌し、東条英機元首相の禿頭を平手で叩いた。裁判長が休廷を宣告すると大川周明は「一場のコメディーだ。みんな引き上げろ」と叫んだ。
このような経験があったので、佐藤氏の大川周明への思い入れは強くなったようです。
獅子風蓮