石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。
そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。
まずは、定番というべきこの本から。
増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)
目次)
□はじめに
□第1章 幼年・少年・青年期
■第2章 リベラリズムの高揚
□第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
□第5章 日本再建の方途
□第6章 政権の中枢へ
□第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに
第2章 リベラリズムの高揚
□1)文芸・思想・社会批評... 『東洋時論』(1)
■2)政治・外交批評...『東洋時論』(2)
□3)日米移民問題...我れに移民の要無し
□4)第一次世界大戦参戦問題... 青島は断じて領有すべからず
□5)21ヵ条要求問題...干渉好きの日本人
□6)シベリア出兵問題... 過激派(ボルシェビキ)を援助せよ
□7)パリ講和問題... 袋叩きの日本
□8)普選運動・護憲運動... 不良内閣を打倒せよ
□9)早稲田大学騒動
2)政治・外交批評...『東洋時論』(2)
ではこのような原理に立脚した場合、湛山の現状批判とはいかなるものか。まず国民に対しては、何事についても「浅薄弱小」で「我れ」を忘れ、確信なく「右顧左眄」するなど「哲学が無い」と批判し、「先ず哲学を持て」と勧告した(「哲学的日本を建設すべし」『時論』1912年6月号『全集①』)。政治に関しては、「今日の我が政治は、名は立憲代議政治であるが、その実は立派な一種の寡頭専制政治」であり、「議会無力にして、内閣国民に直接の責任を感ぜず、政務の多くが全く国民とは無関係にして、従って国民の信任によって交迭変化することなき官僚の手に左右せられておる」と批判した上で、専制政治を打倒し、国民の要求がもっとも鋭敏かつ円滑に 表明される代議政治・民主政治へと進むよう主張した(前掲「『故郷』の訂正と我が官憲の性質」)。
とすれば、この議論の行き着く先は普通選挙、いわゆる普選の実施であった。すでに新報社が普選論の急先鋒であり、湛山は必然的にミルやハックスレー (Thomas H. Huxley) などの見解に大いに感化された。政界では1911年(明治44)3月、国会議員提出の普選法案が衆議院を通過したが、貴族院で否決されるとの事態も生じた。ある一日、『時論』の取材のため、湛山は当時の東京市長尾崎行雄を訪ねた。尾崎から普選促進論を聞くつもりであったが、意外にも普選反対論を聞かされた。要するに、英国のように国民がすでに訓練されているならば普選も害はないが、わが国の現状は英国程度まで政治的訓練が行き届いていないから、大衆に権利を与えても社会秩序が保てない危険をはらむとの論旨であった。のちに湛山は尾崎説を一顧の価値あるものと認めたものの、当時は植松など社の幹部同様に急進的であった。「選挙権を大衆に与えることは、権利を与えると同時に彼らを政治的に教育し訓練する手段である。いくらかの弊害はあるにしても、これを恐れていたら、いつまでたっても社会の進歩は望み得ない」として、尾崎説には承服しなかった(前掲『湛山回想』150~2頁)。
前後して、湛山は外交問題にも関心を広げていった。その論調はやはり社論に沿って、政府や軍部の帝国主義政策に対して批判的であった。たとえば、「二十世紀の世界の政治は、虚栄的帝国主義から実質的経済主義に、国権伸張主義から内治主義に、奔馬の姿をもって移り生きつつある」(「ロイド・ジョージズム」『時論』1912年10月号『全集①』)と論じて、わが国の政治家の狭い見識を嘆くとともに、わが国の政党がことごとく大日本主義・軍備拡張主義を掲げて小日本主義・非帝国主義を主張するものがないと論難した(「大日本主義」『同』同年同月号『全集①』)。そしてこの観点から、末広重雄博士の満州放棄論、すなわち日本の南満独占を止めて国際化せよとの主張を好評した(「満州放棄論」『同』同年同月号『全集①』)。いずれも概論にすぎないが、特色ある対外政策論であり、国内政治論ともども、急進的自由主義の萌芽が見られる。
折しも明治天皇が崩御し、父権的明治時代が終焉した。湛山は明治期を回顧し、この時代の歴史的な最大特色は、多数の者が指摘するような「その帝国主義的発展」ではなく、「政治・法律・社会の万般の制度及び理想に、デモクラチックの改革を行なったことに在る」とする見解を示した。そして「吾輩は日清戦争の当時、一人の非戦論がなかったことを今に遺憾に思う。日露戦前に当たり、十分に反対論の挙らなかったことを深く残念に思う」と論じた(「思慮なき国民」『同』同年9月号『全集①』)。さらに、明治天皇の偉業を奉ずるための明治神宮建設の方針が阪谷芳郎東京市長らによって固まると、「卿等の考えは何でそのように小さいのであるか。卿等は僅かに東京の一地に一つの神社ぐらいを立てて、それで、先帝陛下と、先帝陛下によって代表せられたる明治年代とを記念することが出来ると思っておるのか。……何ぞ世界人心の奥底に明治神宮を打ち建つることを考えないのか」と批判し、「けち臭い一木造石造の神社などいうものを建てずと(ノーベル賞にならって)“明治賞金”を作れ」と提言した(「愚なるかな神宮建設の議」『同』同年同月号『全集①』)。大逆事件から2年を経ない時点での提言であり、相当の勇気を必要としたであろう。
以上のような政治・外交評論は、次第に湛山の眼を現実の政治へと向かわせ、政治の実践の場へと駆り立てていったように思われる。「石橋湛山年譜」(『全集①』所収)によれば、1912年(大正元)12月、「憲政擁護運動のさきがけとなった憲政作振会が組織され、これを支援する」とある。また翌1913年(同2)4月14日、「将来の行くべき途を考える。結局政界に出ること、そしてその準備として新哲学の樹立につとめることが最も良道であることに考えが落ち着く」とあり、すでにこの時点で政治家を志望していたことを窺わせている。したがって同年5月に「自由思想講演会の設立に参画し、その幹事となる」ことも、政治家として民衆に接し、彼らを啓蒙するための修練の場と本人は理解したかもしれない。ともかく、この講演会の関係者(植原悦二郎、田川大吉郎、関与三郎、田中王堂ら)とのグループ活動が明らかに湛山の政治志向を促すとともに、新思潮が躍動する大正デモクラシーの最盛期にラディカルな政治思想集団へと態勢を整えていく。
ところでこの間の1912年9月、明治天皇の大葬が挙行されたおり、植松主幹が病没するという事態が生じた。植松のあとを継ぎ第四代主幹となった三浦は、新報社の一大危機に際し、天野元主幹の助力を求めて『新報』の執筆陣の充実を計る一方、売行きが悪く、社に相当の重荷となっていた『時論』の廃刊を決意した。湛山も同意した。同誌での社会評論は『新報』にもまた必要であり、あえて二つの雑誌を発行するには及ばないと考えたからである。ここに『時論』は大正元年10月号をもって『新報』に併合され、湛山もまた『新報』記者として再出発することになった。28歳の折であった。
これが結果的に湛山をジャーナリストとして大きく飛躍させた。新報社に入社以来、湛山は天野の『経済学綱要』を手始めに経済学を独学しはじめていたが、この転任以後、セリグマン (E. R. A. Seligman) の『経済原論』、トインビー (Arnold Toynbee) の 『一八世紀イギリス産業革命史』、ミルの『経済原論』などを原書で読むなど、経済学の学習を本格的に開始した。湛山の読書の場は、新報社へ通勤する間の市電の中であった(前掲『湛山回想』145~6頁)。ちなみに湛山の読書量は洋書も含め膨大なものであり、とくに古典的名著とされる本を意欲的に読みこなしている。こうして従来文芸や思想・社会評論を主体とした彼の守備範囲は、政治・外交・経済へと拡大していき、その途上で、対米移民不要論、21カ条要求批判論、 シベリア出兵反対論、植民地放棄論といった独自性あふれる「小日本主義」の主張、あるいはエコノミストとして一躍その名を高からしめる新平価金解禁論が展開されていく。
一方、この年は私生活でも湛山に転機をもたらした。11月2日、三浦夫妻の媒酌により、岩井うめ(1888―1971)と結婚したのである。うめ(のち梅子と自称)は岩井尊記の三女として福島県保原町に生まれた。
岩井家はかつて米沢上杉藩で代々家老職を務めた名門であった。その後うめは福島県立高等女学校を卒業し、小学校の教員を務めていたが、うめの小学校時代の恩師が三浦夫人であった。まさに三浦夫妻は二人を結びつけたわけである。挙式後、湛山とうめは本所区(現墨田区)錦糸町の車大工の二階に間借り生活を始め、1913年(同2)に長男湛一、1916年(同5)に長女歌子、1918年(同7)には次男和彦の二男一女をもうけた。 こうして湛山は公私ともに心機一転し、ジャーナリストの道を本格的に歩んでいった。
【解説】
政治・外交に関する言論では、実にリベラルな主張をくりひろげた湛山でした。
こうして、湛山は公私ともに心機一転、経済学を独学し、ジャーナリストとして新しい道を進んでいくのですね。
獅子風蓮