というわけで、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を読んでみました。
(目次)
□一杯目の火酒
□二杯目の火酒
■三杯目の火酒
□四杯目の火酒
□五杯目の火酒
□六杯目の火酒
□七杯目の火酒
□最後の火酒
□後記
三杯目の火酒
2
__沢ノ井さんと会ったのは、浅草? それとも錦糸町?
「違うんだ」
__でも、言ってたじゃない、つい先だってのテレビ番組で、沢ノ井さん自身が。〈人に歴史あり〉とかいうやつで、あなたがギターを抱えて通りから現われたときは、まるで映画のワンシーンを見ているようだった、って。
「沢ノ井さんは、そればっかりなんだよね。ほかにしゃべることはないのかな、って思うくらいに、ワン・パターンなんだ。確かに、浅草で会ってるんだけど、そのときは二度目なんだ」
__最初はどこで?
「上条たけし、という先生の家で」
__それは?
「レッスンを受けてたんだ。発声だったかな」
__八洲先生の方はどうしたの。
「オーディションはうまくいかないし、少しずつ離れちゃったんだよね。ビクターで2回、東宝レコードでも落ちたし。でも、上条先生のところも、八洲先生が紹介してくれたんだと思うよ」
__流しをしていても、レッスンだけは受けていたわけだ。そこに、沢ノ井さんは、何の用で来ていたの?
「さあ……とにかく、レッスン場に変な男の人がいるな、とは思っていたの。汚なくて、むさくるしい男の人が、立って見てた。でも、そのときはひとことも口をきいていないんだよ。その人が、浅草に会いに来たわけ。上条先生に、浅草で流しをしているって、聞いてきたんじゃないかな」
__それは、冬?
「そう、寒い冬だった」
__そんな夜に、ギターを抱えた女の子が、浅草の裏町を流しているのを見たら……それも、会いに行って、不意に暗い街角から姿を現わすのにぶつかったら……もう、誰だって、宿命的なものを感じるだろうな。これだ、自分が探してたのはこれだって、そう思ったとしても無理ないよ。しかも、その子は歌が下手じゃないんだもんな。
「沢ノ井さんもそう言ってた。あたしに賭けてみたいって」
__沢ノ井さんという人は、本来、何をする人なの?
「作詞家。ぜんぜん売れない作詞家だった」
__へえ。
「沢ノ井龍二っていう、東芝の専属作詞家なんだけど、ヒット曲もないし、ペーペーの人だったの」
__その当時、沢ノ井さんは27歳か。若かったねぇ。
「ボサボサの頭で、ヨレヨレの服でね。その人がいくら、自分がスターにしてみせるからといっても、普通だったら信用しないよね」
__それが、あなたは信じた。
「信じた、というほどはっきりしてはいなかったんだ。浅草で会ったとき、別れ際に、住所を書いた紙をくれて、ぜひ連絡してくれって言うんだ。お母さんと二人でいいから、遊びに来てくれって。あとで、お母さんと、変な人だったね、どうしようか、行くのやめようか、でも暇なんだから行くだけ行ってみようか、というんで、二人で沢ノ井さんの家に行ってみたの。新宿の厚生年金会館の裏の、古い二階家にお母さんと住んでいてね。沢ノ井さんに熱心に口説かれて、その熱心さに負けて任せることにしたんだ」
__そこで、 沢ノ井さんのところへ下宿することになった……。
「二階に一部屋もらってね」
__どのくらいの期間?
「1年くらいあったかな。それにしても……よく、無傷でいられましたな、あそこにいて。フフフッ」
__沢ノ井さんのお母さんがいらしたから、セーフだったわけか。
「うん」
__そこには、沢ノ井さんのお母さんと……。
「猫が住んでた」
__しかし、よく、そんな……と言っては悪いけど、無名の作詞家に運命を委ねたもんだね。
「ほんとだね。そのときだって、キングのオーディションを受けることが、その前に決まっていたんだ」
__八洲さんとは離れていたのに?
「さっき、小さいプロダクションに入っていたって言ったでしょ、そこから受けに行くことになってたの。でも、もし受かったら、そのプロダクションと契約しなければならなくなるじゃない。そうなると沢ノ井さんのとこに行けなくなっちゃうから、落ちてほしいっていうわけ、沢ノ井さんが。わざと落ちろって」
__で、実際に受けたの?
「うん。だから、仕方がないから、わざと下手に、フテて歌ってみることにしたの」
__何を歌ったの?
「〈カスバの女〉と〈東京流れ者〉かな」
__いい歌だけど……それをフテて歌ったの?
「そう。馬鹿だよね、考えてみたら、そういう歌って、フテて歌った方がいいんだよね。一生懸命に歌わない方が、〈カスバの女〉なんて、ずっといいんだよ。それに、下手に歌おうとしても、歌い出したら、そう音痴には歌えないしね、いくら音痴に歌おうとしても、さ」
__しかし、あなたもいい度胸だね。いくら沢ノ井さんが頼んだからといって、ようやく掴みかけたチャンスを、自分からつぶすなんて、かなりの度胸だよ。
「そうだね。それは欲がなかったからだと思うよ、あたしに。どうしても歌手になりたい、みたいな欲がなかったから……」
__だって、もしかしたら合格して、レコーディングできるかもしれないわけじゃないですか。あなたには、沢ノ井さんに対する独特の勘があったんだろうか。
「さあ……よくわかんないんだけど、この人は似ているな、っていう感じはあった」
__誰と?
「あたしと」
__へえ、どんな部分が?
「うーん……何と言うか」
__何と言うか?
「何と言うか……」
__オーケー。で、キングの結果はどうだったの?
「これが困ったことに、 受かっちゃったんだ」
__それでどうしたわけ?
「仕方がないでしょ、お父さんに断わりに行ってもらったの、キングの方へ」
__まったく、そういう話を聞くと、運命とか巡り合わせとしか言いようがない気がするな。沢ノ井さんの方じゃなく、キングの方を断わりに行くんだから、ね。
「それで、今度は、沢ノ井さんのとこから受けに行って落ちてれば、世話ないよね」
__ほんとに?
「東芝を受けたら、落ちちゃった」
__ガックリこなかった?
「別に」
__沢ノ井さんの家に下宿していた1年間、何をしてたの? もう、当然、流しはやめてたんだよね。
「うん。レッスンを受けたり……もちろん、沢ノ井さんにじゃなくて、別の先生にだよ。沢ノ井さん、ピアノ弾けないし、ね」
__食事は沢ノ井さんの家でしてたとしても、それ以外の、小遣いみたいのはどうしてたの? 父さんやお母さんの方も、あなたがいなくて稼げなくなったろうし……。
「ほとんど1円もお金持ってなかった。だから、レッスンに行くとき、おなかが空いて空いて、駅の立喰いそばが食べたくても、食べられなかったこと、よく覚えてる。ほんとに、食べたかったけど」
__服装なんか、どうしてた?
「昔のまま」
__化粧なんかは?
「したことなかった」
__パーマは?
「かけたことない」
__そう……。
「ほんとに、あの頃、お金がなかったんだね、あたし」
__そうか……。
「雪の凄く降っている日だったんだけど、駅かなんかで、ある人と待ち合わせたの。芸能界の人で、沢ノ井さんも来ることになっていたんだけどなかなか来なくて……とても寒かったのね。そのとき、あたし、オーバーがなくて、セーター一枚だったんだよね。そうしたら、その人が可哀そうに思ったらしくて、オーバーを買ってくれたの。忘れもしない、白いふちのついた真っ赤なオーバー。いま思えば、サンタクロースの上衣みたいな、おかしなやつだったけど。でも、沢ノ井さんのとこにいるあいだ、ずっとそれを着てたなあ」
__その、買ってあげた人の気持よくわかるな、ぼくにも。
「岩見沢にいるときも、そんなことがあった、一度。学校の帰りだったのかな、雪の中を、きらく園の方に行くバスを待ってたの。なかなかバスは来ないわけ。遅れると何十分も遅れるんだよね。でも、仕方ないから、震えながら停留所で待ってたの。そうしたら、急に眼の前にダンプが止まって、どこへ行くのっていうんだ。きらく園って答えたら、乗んなって。それから3回か4回、同じ運転手さんに乗せてもらうことになったんだけど、その何回目かに……これ古いんだけど、女房のだから、って言って、オーバーをくれたの。その運転手さんが、古いけど、って言って……。その頃も、オーバーを着てなかったんだね」
__そうかあ……。
「でも、お金はなかったけど、結構、楽しくやってたんだよ、沢ノ井さんとこに下宿しているときも」
__そう?
「グループ・サウンズの男の子たちと知り合いになったり……」
__へえ、それは意外だね。
「その子たちの音楽が好きでね、最初は」
__さらに意外な。どういうキッカケがあったの?
「お父さんの、昔の仕事仲間の人が東京にいて、その娘さんがいろんなとこに連れて行ってくれたんだ。初めてボウリング場にも行ったし、ディスコも連れて行ってくれたし、それにACB(アシベ)にも。ACBが気に入って、流しをしているときも、よく聞きに行ったんだ、ひとりで」
__そのライブハウスでは、どんなグループがやってたんだろう、当時は。
「売れる前のオックスとか、無名だったけどアンクルとか」
__知らないね。
「そうだろうね。……よく行くから、だんだん顔を覚えられて、親しくなったんだ。いろいろな人と。要領がよかったのかな、ただのファンなのに、外で一緒にお茶を呑んだり……だから、お金がないときでも、聞きに行けたのかもしれないけど」
__特に好きな子はいたの?
「いたんだ。ボーカルの子で、ね」
__アンクルの?
「違うの。オリーブっていうグループがあって、そのボーカルをやってたんだ」
__オリーブなんて、聞いたこともない。
「グループ・サウンズの時代はオックスで終っちゃったんだけど、もしそれ以上つづいていたら、次に売れたのはオリーブのはずだったんだ。ジャズ喫茶で一番人気があってね」
__何て言うの、そのボーカルの子は。
「マミーって呼んでた、みんな。オリーブっていうのはね、さっき、週刊誌に初めて嘘を書かれたっていう話をしたでしょ、そのときの相手がいるグループなんだよ」
__藤圭子の同棲相手を発見、っていうやつの相手はマミーなのか。
「そうじゃないんだよ。マミーなら、好きだったから、嘘でもまだ許せるんだけど、ドラマーのハー坊っていう子が相手ということにされちゃったんだよ」
__ハー坊だかパー坊だか知らないけど、大して変らないんじゃないの、マミーとかいうのと。
「それは違いますよ。ハー坊なんて、好きでも何でもなかったんだから」
__妙な呼び名だね。
「みんなそう呼んでたんだから、仕方ないよ」
__そうかもしれないけど。
「ハー坊とかマミーとかラリ坊とか」
__ラリ坊?
「いつでもラリってばかりいるの、クスリで。だからラリ坊」
__なんだか幼稚園みたいだ。
「フフフッ。一度ね、帰ろうとしたら、ハー坊がついてくるの。どこまでも付いてくるんで困ってね……」
__ハー坊っていうのは、好きじゃない方だね。
「そう。沢ノ井さんの家の近くまで付いてこられたんで、困るからって言ったら、少しでもいいから話したいって言うの。それで、沢ノ井さんの家の近くにあるパン屋さんの前のベンチに坐って話していたら、そこに沢ノ井さんがやって来たの。沢ノ井さんが怒ってね、ハー坊を殴りそうになったりして。こんな夜遅く、どういうつもりだとか言って。沢ノ井さんは、あたしが遅くなったんで、心配して迎えにきてくれたらしいんだ。 その晩はそれで納まったんだけど、あたしはね、グループ・サウンズといっても、音楽はいいし、悪い人はいないからって、沢ノ井さんをジャズ喫茶に連れて行ったの。そうしたら、今度は、沢ノ井さんが気に入っちゃって、オリーブのメンバーと仲よくなっちゃったんだ。それから、よく、沢ノ井さんの家に遊びに来るようになったの、特にハー坊が。沢ノ井さんがジャズ喫茶に行って、帰りにメンバーを連れて来るんだ。でも、いつも、マミーだけ来ないの。みんなが来ると、下に降りていって、何気ないふりをして、マミーは、って聞くと、あいつは今夜は女の子のとこに行ってる、とか誰かに言われて、そう、なんてガッカリした様子を見せないようにして言うわけよ。ほんとはマミーに来てほしいのに……」
__あなたがマミーに熱を上げていたのを知って、沢ノ井さん、意図的にそんなことをしたのかも しれないね。
「そう、そうらしいの。この2、3ヵ月前、仙台で、久し振りにマミーに会ったの」
__いま何をしてるの、彼は。
「仙台のクラブでマスターをしてる。雇われだけど、ショーの構成をしたり、自分で弾き語りをしたり……。そのとき、マミーが言ってたんだ。どうして沢ノ井さんのうちに来なかったの、って訊いたら、沢ノ井さんはぼくだけ誘ってくれなかったんだ、って」
__それは面白い。沢ノ井さんは、マミーに近づけまいとしたわけだ、あなたを。もし、あなたが、そのマミーという人と付き合っていたら、どうだったろう。何かが変っていたかな。
「そうだなあ……前川さんとは結婚してなかったかもしれない」
__なぜ? その人と結婚したから?
「そんなことは、まずないと思うけど、付き合ったことで、もう少し、いろんなことがわかっていただろうから……」
__それ、どういうことなのかな。
「……」
__しかし、あなたも、結構、いろいろとやっていたんですねえ。
「そんなことないよ。でも、あの頃がやっぱり、青春、みたいなものだったのかなあ」
__あの頃……そうだ、いま、体重、どのくらいある?
「36キロ」
__成人男子の約半分しかないわけだ。昔からそんなだったの。そんな痩せてたかな。もう少し、全体にふっくらしてたような気がするんだけど。
「昔は……デビューした頃は40キロあったんだ。ところが、あるときから、36キロになって、それから増えなくなっちゃった」
__理由は?
「さあ……わからないな」
__なぜ減ったの、そんなに一気に。
「この世界で、いろいろあったからではないでしょうか」
__他人ごとみたいに……。しかし、沢ノ井さんの家に下宿している1年くらいというのは、退屈もせず、アッという間に過ぎたわけなの?
「うん、そうだね。夜、沢ノ井さんが人を連れて帰ってくると、寝てても起こされて、その人たちの前で必ず歌わされるの。外に挨拶まわりに行けば、そこでも何か歌わされるし、そんなことしているうちに、半年くらいすぐ経っちゃった。半年すぎたあとは、もう、デビューとかなんかで忙しくなっちゃったし、ね。その半年だね、あたしの青春は」
__短かい青春だ。
「短かいね、本当に」
【解説】
__ラリ坊?
「いつでもラリってばかりいるの、クスリで。だからラリ坊」
藤圭子さんの短い青春時代には、少し危なげな若者たちが出入りしていたようです。
獅子風蓮