獅子風蓮のつぶやきブログ

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乙骨正生『怪死―東村山女性市議転落死事件』Ⅲ章 その2

2023-02-21 01:15:37 | 東村山女性市議転落死事件

乙骨正生『怪死―東村山女性市議転落死事件』(教育史料出版会1996年5月)
より、引用しました。
できるだけ多くの人に読んでいただく価値がある本だと思いますので、本の内容を忠実に再現しています。
なお、漢数字などは読みやすいように算用数字に直しました。

なお、乙骨さんにはメールで著書を引用している件をご報告したところ、快諾していただきました。
ありがとうございます。

(目次)
□まえがき
□Ⅰ章 怪死のミステリー
□Ⅱ章 疑惑への道のり
■Ⅲ章 対立の構図
□Ⅳ章 たたかいの軌跡
□Ⅴ章 真相を明らかにすることは民主主義を守ること
□あとがき


日蓮正宗と創価学会の関係略史


◆信徒団体としての創価教育学会
ではなぜ、日蓮正宗と創価学会の関係がここまで悪化したのか。その関係の推移を簡単に振り返ってみることにしたい。
日蓮正宗と創価学会の関係は、1928年(昭和3)に東京・白金小学校長牧口常三郎と、その弟子で塾および出版業を経営していた戸田城外(のちの城聖)が日蓮正宗に入信し、30年に牧口を会長、戸田を理事長として創価教育学会を創設したことに始まる。
以後、創価学会が自らを「日蓮正宗創価学会」と称していたように、両者は、宗門とその信徒団体としての関係を維持しつつ、戦後の高度経済成長期を迎え、日本最大の教団へと発展していく。
しかし、蜜月関係に見えた両者は、実際には、しばしば激しい衝突と軋轢をくり返していた。というのも、日蓮正宗は法主を中心とする僧侶主導型の伝統仏教教団であるのに対し、創価学会およびその前身である創価教育学会は、会長をヒエラルキーの頂点とする在家教団的色彩の極めて強い組織であり、当初から水と油の関係を内包していたからである。
1943年(昭和18)7月、創価教育学会の会長牧口は、治安維詩法違反と伊勢神宮の大麻(神札)に対する不敬罪で特高警察に逮捕、拘留され、取り調べを受けるが、その尋問のなかで、創価教育学会の指導理念および目的、そして日蓮正宗との関係をるる供述している。創価教育学会(創価学会)の体質や日蓮正宗と創価教育学会の関係を知るうえで牧口の供述はたいへん興味深い。
牧口は次のように語っている。
「私の価値論(牧口が著述した哲学書『価値創造論』のこと=注筆者)は日蓮正宗の本尊に帰依すること、具体的には創価教育学会に入会する事に依って、本会の信仰が人生生活と如何に関係が大きいか、価値が大きいかを判定認識せしむるのが指導理念でありまして、人生生活の全体主義目的観を確然と把握せしめ、本尊の信仰に依る異体同心、共存共栄の生活を体得実証せしむるにあるのであります。故に本会に入会するに非れば、個々の生活の幸福安定は勿論得られませんし、延いては国家社会の安定性も得られないと私は確信して居ります」(「特高月報・創価教育学会会長牧口常三郎に対する尋問調書抜粋」)
創価教育学会に入会しなければ幸福は得られず、国家の安定もないと主張する牧口は、日蓮正宗との関係を次のように述べている。
「只今申上た通り日蓮正宗に所属して居る事は間違いありません。総本山は静岡県富士郡上野村日蓮正宗総本山大石寺で会員は悉く日蓮正宗の信者として常在寺、歓喜寮、砂町教会、本行寺に於いて授戒をして居りますが、創価教育学会其のものは前に申上げた通り日蓮正宗の信仰に私の価値創造論を採入れた処の立派な一個の在家的信仰団体であります」
「私は正式の僧籍を持つ事は嫌ひであります。僧籍を得て寺を所有する事になれば、従って日蓮正宗の純教義的な形に嵌った行勤しか出来ません。私の価値創造論をお寺に於宣伝説教する訳には参りませんので、私は矢張り在家の形で日蓮正宗の信仰理念に価値論を採入れた処に私の価値がある訳で、此処に創価教育学会の特異性があるのであります」
檀家制度を紐帯とする伝統仏教教団日蓮正宗と、会長自ら「立派な一個の在家的信仰団体」と公言してはばからない創価教育学会が、二人三脚で歩むことは、所詮、無理な相談だった。
事実、創価教育学会は、1942年(昭和17)、のちに日蓮正宗の64世法主となる堀米泰栄(のちの日淳)吊し上げ事件を起こすなど、設立当初から、日蓮正宗と軋轢を生じている。
牧口、戸田をはじめとする幹部12名の一斉検挙、そして牧口の獄死によって壊滅的打撃を受けた創価教育学会は、終戦後、理事長だった戸田を中心に創価学会として再出発。戸田が会長に就任した1951年(昭和26)5月以後は、“折伏大行進”を大々的に展開、飛躍的に勢力を拡大し、55年には国立戒壇建立、王仏冥合を旗印に政界進出を果たし、名実ともに日本最大の教団へと発展する。
この間、創価学会は、戸田のもと、日蓮正宗に対し攻撃と懐柔をくり返し、しだいに僧俗関係のイニシアチブを把握、在家教団としての性格を強化していった。

◆宗教法人取得をめぐる対立
その顕著な例を宗教法人取得の経緯に見ることができる。52年8月に創価学会は、東京都認証の単立宗教法人資格を取得。宗門とは独立した一個の宗教法人としての体制を整備した。
だが、信徒団体が独立した宗教法人の資格を取得することについては、日蓮正宗内部に反発が強く、両者は、創価学会の宗教法人取得をめぐって激しく対立した。
戦端を開いたのは創価学会だった。創価学会が宗教法人取得のための公告を行った1952年は、宗祖日蓮が、宗旨を開いてから700年の節目にあたっており、日蓮正宗では、立宗記念日である4月28日に大石寺で「立宗七百年慶讃大法要」の開催を予定していた。この「立宗七百年慶讃大法要」を、創価学会は、宗教法人資格の取得を快く思わない宗門に対する威圧、デモンストレーションの場と位置づけ、「狸祭り」と称して、老僧に対する暴行事件を断行しなのだった。
標的になったのは、日蓮正宗の老僧・小笠原慈聞。小笠原は、戦前、国体の明徴を唱え、大東亜戦争遂行のために国民精神の総動員を図った軍部政府の宗派合同政策に協力するため、神が本地で仏はその垂迹(化身)であるという「神本仏迹」論という迎合教義を唱え、「仏本神迹」の立場をとり宗派合同に断固として反対した宗門執行部と対立した異端僧侶だった。
戸田は、小笠原の体制翼賛の動きが創価教育学会弾圧の引き金になったと強調、小笠原こそ牧口獄死の戦犯であると青年部貝を扇動して、小笠原を吊し上げ、暴行を加えることで、創価学会の威力を日蓮正宗に見せつけたのである。
だが、清浄であるべき総本山を、それも慶祝のための大法要を暴力事件で汚された日蓮正宗の大多数の僧侶は、創価学会の蛮行に猛反発。宗教法人資格取得に伴う宗制宗規の変更と「狸祭り事件」の処理を議題として、6月26日から4日間にわたって開催した宗門の議会である第47臨時宗会において、戸田の総本山大石寺への登山禁止ならびに法華講大講頭の罷免処分を含む問責決議を採択する。
さらに創価学会の宗教法人資格の取得に反発する議員らの提案に基づき、新宗制のなかに、
「檀徒及び信徒は本宗が包括する宗教法人以外の宗教法人を設立する事ができない(宗務院の意向によって「宗教法人に加入することが出来ない」に修正)」
との一条を入れることを賛成多数で可決。宗会は、創価学会に対し全面対決する意志を明らかにした。
戸田は、宗務院に対し、宗教法人取得の理由を、
「我々の折伏活動が全国的活動となり、邪宗との決戦に至る時の大難を予想し、本山を守護し諸難を会長の一身に受けるため」
と説明。宗教法人の取得を認めさせることに躍起となっていたが、修正案の可決によって宗教法人の取得が困難になるとみるや、宗会ならびに学会批判派僧侶との全面対決、全面闘争を指示。同年7月8日の臨時青年部幹部会で「御僧侶と悪侶とをはっきり区別して御僧侶は絶対に護り切る。悪侶は徹底的に責め切る」ことを決議させ、全国の青年部に一大闘争に入るよう檄を飛ばした。
これに基づいて青年部は、宗会議長市川真道(横浜・久遠寺住職)をはじめとする全国の反学会派僧侶の吊し上げを開始。当時の『聖教新聞』には、青年部幹部が大挙して寺に押しかけ、住職を取り囲み、長時間、脅迫と胴喝をくり返すという、極めて違法性の高い吊し上げを加えているようすが、得々として報じられている。
こうした青年部を使嗾しての脅迫、恫喝というムチをふるう一方で、戸田は、宗務院に対し五重塔の修復というアメを提示。最終的に、宗会決議を取り消させ、独自に東京都認証の単立宗教法人を取得することに成功する。
以後、両者は、表面上は僧俗和合路線を維持するものの、しばしば水面下で衝突。1960年(昭和35)に池田大作氏が戸田の跡を継いで三代会長に就任した後は、妙信講問題(1971年)、管長罵倒事件(72年)、国際センター問題(74年)、第一次宗門紛争(77~80年)と、ほほ毎年のように対立と和解をくり返した。

◆第二次宗門紛争と宗門・脱会者攻撃
そうした積もりに積もった軋轢と確執が噴出したのか、1990年(平成2)の12月未。
日蓮正宗が、宗規の変更を理由として、創価学会名誉会長池田大作氏を法華講総講頭(信徒総代)から実質的に解任したことから、第二次宗門紛争といわれる今回の対立が表面化した。
91年に入って日蓮正宗は、創価学会に対し、阿部日顕法主ならびに僧侶の指導訓戒に従うよう、たびたび警告するが、学会側はこれを無視。再び「狸祭り事件」や「宗会議員吊し上げ事件」時と同様、日蓮正宗に対する全面闘争を宣言し、日顕法主の退座や学会寄進寺院の明け渡しを要求して、全国的規模で激しい宗門攻撃を展開するようになる。
その結果、日蓮正宗側も態度を硬化。91年6月に創価学会員の総本山・大石寺参詣を禁止、同11月7日に創価学会の解散を勧告、同11月28日に破門処分に踏み切り、60年におよぶ関係を清算したのだった。
これに対し創価学会側は、日蓮正宗からの破門を「魂の独立」と形容。さらには日蓮正宗を日顕法主の名を冠した「日顕宗」と呼称し、これを「撲滅」するまで戦うとして、宗門攻撃をエスカレート。機関紙藷をフル活用しての非難中傷、寺院への抗議行動、官憲への告訴・告発、暴力行為、脅迫行為、威嚇行為と、適法、違法を問わぬあらゆる手段を講じて、寺院、僧侶そして脱会者に対し激しい攻撃を加えるようになる。
ちなみにこの時朋、総本山である大石寺には、一日平均800本の抗議電話、脅迫電話が殺到したという。1日24時間を分で割ると1440分。単純計算で、2分弱に1本、脅迫電話、抗議電話がかかってきたことになる。それらの脅迫電話のなかには、「ダイナマイトを仕掛けた」との脅迫電話を執拗にかけ続けて逮捕された、香川県高松市の本部副婦人部長堀田某のような例も含まれている。
この時期、創価学会は、末端組織の地区(約50世帯)に、日蓮正宗攻撃、寺院攻撃の最前線部隊として、「日顕宗撲滅対策委員会」という宗門攻撃を専門にする特殊グループを設置、日蓮正宗に勝利するという意味で名づけられた「ビクトリー委員会」と連携して、全幹部一丸となって、「日顕宗撲滅運動、○○寺対策の戦いを行なう」ことを指示している。
93年に出された指示文書にはこうある。
「日顕宗は、今、御本尊授与(破門を受けて創価学会が、自前の本尊を作成し、会員に販売していること=注筆者・以下同)によって決定的な打撃を受けており、断末魔のあがきをさまざまにしようとしている。(中略)日顕撲滅の最大のチャンスが来た。日顕撲滅なくして「創価ルネサンス勝利の年(1993年)」の決着はなく、『栄光の年(94年)』の幕開けはない。11・18(創価学会創立記念日)をこの戦いに勝利して迎えよう」

 


解説
創価学会員や脱会者、アンチの方にとっては周知のことと思いますが、一般の方が、「東村山女性市議転落死事件」の背景を理解するためには、必要な事項です。

獅子風蓮



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