石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。
そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。
まずは、定番というべきこの本から。
増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)
目次)
□はじめに
■第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
□第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
□第5章 日本再建の方途
□第6章 政権の中枢へ
□第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに
第1章 幼年・少年・青年期
□1)おいたち... 日蓮宗を空気として
□2)山梨県立第一中学校...アメリカン・デモクラシーへの誘い
□3)早稲田大学...プラグマティズムの感動
□4)東京毎日新聞社... 人生の転回点
■5)東洋経済新報社...再スタート
5)東洋経済新報社...再スタート
1910年(明治43)11月末に除隊直後、田中穂積から湛山に東洋経済新報社の話が持ち込まれた。同社では新月刊誌『東洋時論』の編集記者を探していたのである。田中は新報社の副主幹格であった三浦銕太郎(てつたろう1874―1972)と早稲田大学の同窓生であった。そこで12月、湛山は三浦の面接を受けることになった。その際湛山は三浦に論文「福沢諭吉論」を提出している。この論文そのものは現在残されていないが、のちの湛山の言論から推して、福沢を合理性を備えた文明批評家として高く評価したと思われる。
湛山は三浦の眼に叶い、翌1911年(同44)1月より晴れて新報社社員となった。ここに湛山は言論人として再スタートを切ったのである。26歳。以降、新報社は湛山にとって戦後の1946年(昭和2)5月に政界入りするまで、35年に及ぶ言論活動の拠点となり、まさに「新報社の湛山」かつ「湛山の新報社」となる。
ところで新報社は、日清戦争終結から半年を経た1895年(明治28)11月、『報知新聞』記者でイギリス留学を終えたばかりの町田忠治(ちゅうじ・1863―1946)によって創設され、月3回の旬刊誌『東洋経済新報』を発刊した。わが国における経済専門誌の草分け的存在である『新報』は、イギリスの『エコノミスト』(Economist)と 『ステチスト』(The Statist)を模範とし、単に経済の分野に留まらず、政治・外交・社会・教育・文芸など幅広い領域を扱い、主として経済界関係者、政府官僚、社会人、大学生などインテリ層を読者対象とした。
ただし町田は2年足らずで日本銀行に転じたため(その後政界へと進み、農相・商工相・民政党総裁を歴任した)、大隈重信の推薦により、1897年(同30)3月、早稲田大学教授(のち学長)天野為之(ためゆき・1860―1938)が新報社を引き継いだ。天野は第一回の衆議院議員総選挙に改進党から立候補して当選したが、次回の総選挙で落選し、以後、学界ならびに言論界で活躍した人物である。とくに彼はジョン・S・ミル(John S. Mill) の研究で知られ、明治期における三大経済学者の一人と称されると同時に、高田早苗、坪内逍遥とともに早稲田大学の三尊として高い評価を受けていた。
この天野時代(主幹は1903年までであるが、実質的には7年までの10年間)に新報社の基礎が固まり、イギリス流の自由主義・合理主義・経験主義の伝統や反藩閥・反軍閥の気風が確立されたのである。たとえば日清・日露両戦争後の軍部の跳梁および政治的干渉を厳しく批判して、陸海軍大臣の文官制や軍備削減を提唱する一方、経済面では民力休養論を標榜し、政府が推進する保護貿易主義を排斥して門戸開放主義を主張した。この間『新報』の発行部数は3000程度から5000程度へと飛躍的に伸びた。当時の専門誌の売上げとしては良好であった。ちなみに深井英五(のち日銀総裁)や武藤山治(鐘紡社長)らは初期の段階から『新報』の愛読者であったという。
湛山が入社した時点では、天野はすでに退任し、天野の門下生である植松考昭(ひさあき・1876―1912)が第三代主幹となっていた。植松は旧彦根藩士の家に生まれ、1896年(同29)に東京専門学校英語政治学科を卒業、2年後に新報社に入社した。彼はとくに政治・社会評論で頭角を現わし、選挙権の拡張、政党内閣制度の確立、労働法の制定などを主張した。そして1907年(同40)に天野の跡を継いだのである。この植松時代に『新報』は経済専門誌の枠を超え、政治・社会の領域へと拡大し、とくに民主主義の観点から普通選挙の実施を迫るなど政治批判の姿勢を濃くする。そしてのちの三浦および湛山時代に確立される新報社の徹底した自由主義、民主主義、平和主義の論調の基盤を形成するのである(角田昭「人と思想・植松考昭」)。
主幹の植松を補佐したのが前記の三浦であった。三浦は静岡県志太郡の豪農山下家の出で、結婚時に三浦姓を名乗った。彼は植松と東京専門学校の同期生(ただし2歳年長)であり、植松より1年遅れで新報社に入社し、以後植松とともに天野を支え、天野の引退後は副主幹格となった。また後述のとおり、三浦は湛山にとって恩人の一人となる。
なお当時の新報社は牛込天神町にあり、木造二階建の洋館(のち三階建に改造)であった。社員は、編集部員が植松・三浦の両幹部を加えて9名、営業部員が4名、給仕・小使いまでを入れて総員17名という陣容であった。注目すべきは湛山と同じ編集部に社会主義者の片山潜(1859―1933)がいたことである。片山の労働運動を以前から支援してきた植松が、官憲から圧迫されてほかに身の置場がない彼を引き取っていたのである。こうして片山は新報社で5年間(1909―14年)にわたり社会・芸術などの批評に携わったのち、アメリカを経てソ連入りする。湛山は片山について、「われわれは氏から直接社会主義についての議論を聞いたことはなかったが、その人物は温厚、その思想はすこぶる穏健着実で、少しも危険視すべき点はなかった。……片山氏よりも私などの方が、かえって過激の思想の持主であったであろう」と回想している(前掲『湛山回想』138~9頁)。また湛山は片山の渡米の際に支援したほか、彼のソ連入国以後さまざまな圧迫を受けた家族のためにも尽力している。
ともかく片山の存在は新報社の気風の一端を物語っており、その片山と湛山が机を並べて編集に従事していたという事実は興味深い。新入社員として湛山の月給は18円という薄給であったとはいえ、新報社という格好の場を得て、水を得た魚のごとく、湛山は言論活動に邁進していくのである。
【解説】
新報社という格好の場を得て、水を得た魚のごとく、湛山は言論活動に邁進していくのである。
さあ、ここからジャーナリストとしての湛山の活動が始まります。
獅子風蓮