の記事にも書きましたが、「21ヵ条要求問題」についてです。
いやあ、ずいぶん昔に日本史の授業で習いましたね。
第一次世界大戦がヨーロッパで繰り広げられているときに、日英同盟を口実にドイツに宣戦布告して、ちゃっかりドイツの利権を奪ったという火事場泥棒のような行為。
でも、最近まで知りませんでしたが、元老山県は、意外にもこの21ヵ条の要求には反対だったとのことです。
週刊ポストでの連載「逆説の日本史」で、井沢元彦さんがそんなことを書いていましたね。
d-マガジンで読みました。
かいつまんで、引用します。
週刊ポスト202024年3月8・15日号
逆説の日本史
井沢元彦
第 1410 回
近現代編 第13話
大日本帝国の確立Ⅷ
常任理事国・大日本帝国その⑥
優秀な外務官僚だった加藤高明はなぜ
「悪名高い外交」を行なったのか?
「対華21箇条要求」の最高責任者は、大隈重信首相と加藤高明外相(のち首相)である。その加藤について、評伝である『加藤高明 主義主張を枉(ま)ぐるな』(櫻井良樹著 ミネルヴァ書房刊)では、冒頭で「戦前期の首相でも、明治国家を築きあげてきた元老や大隈重信を除いて、局長レベル以上の外務官僚と大蔵官僚の経歴を持ち首相となった人物は、加藤高明を除いていない」「加藤は稀有な存在だった」としている。
その一方で、「1914(大正3)年の4回目の外相就任は、第二次大隈重信内閣の副首相格としての入閣であったが、さんざんな評価であった。日本の第一次世界大戦参戦を積極的に導き、翌年には悪名高い対華21ヵ条要求を袁世凱に突きつけ、中国の対日感情を決定的に悪化させた。これは(中略)欧米、とくにアメリカの反発をかうことになった」と指摘している。さらに、加藤が首相になったとき幣原喜重郎を外相に登用し欧米との平和主義に基づく協調外交を展開したこと、つまり対華21箇条要求のときとはまったく正反対とも言える政治姿勢を取ったことも指摘し、「この外交政策の落差をどう説明すればよいのだろうか」とも述べている。幣原外交についてはいずれ分析せねばならないが、とりあえずは優秀な外務官僚でもあり、のちに首相になるほどの政治的センスもある加藤が、なぜ対華21箇条要求という愚かな振る舞いをしたのかについて述べねばなるまい。ただ、ひょっとしたら大隈首相の命令で嫌々やったのではないかと考える人がいるかもしれないので、念のために述べておこう。そういう事実はまったく無い。大隈と加藤はこの問題に関する根本方針において基本的に一致していたのだが、大隈は加藤を絶対的に信頼しており、対華21箇条要求についてはすべてを加藤に任せていた。この件に関する名目上の最高責任者は首相の大隈だが、実質的にそれは加藤なのである。この点に関しては、すべての歴史研究者が一致すると言ってもいい。だからなぜそんな「愚行を為した」のかは、加藤を分析するしかない。
ところが、前出の評伝執筆者もじつは「この侵略的で悪名高い外交をなぜ加藤が行ったのかを合理的に説明することは難しい」とし、そして全五項にわたる21箇条要求のなかでももっとも強硬で侵略的と批判を浴びた第五項についても、「最後まで加藤が第五号にこだわった理由は、やはり説明がつかない」としている。加藤高明に関するあらゆる史料に精通し、もっともその行動に詳しいはずの評伝執筆者がそう述べているのだ。もちろん、どんな優秀な人間でも人間である以上思い込みや見当違いがあり、考えられないようなミスをすることもある。しかし、このときの加藤がそうでは無かったことは証拠がある。ほかならぬ加藤自身の後年の述懐だ。
当時此方から申せば頗る頑強に抵抗された場合もありましたけれども、支那の当局の立場から考へれば是亦御尤(これまたごもっとも)な話である。一つとして己の方に貰ふものはない。皆やる方ばかりだ。軽々しく承知すれば国民から攻撃を受ける。無暗に返事も出来ない。なかなか向ふも辛かったのでありませう。(『対華21ヵ条要求とは何だったのか 第一次世界大戦と日中対立の原点』奈良岡聰智著 名古屋大学出版会刊)
この言葉は、この著者によれば加藤の「大正4年における日支交渉の顛末」という講演で語られたものだそうだ。加藤高明自身も、この要求を「一つとして己の方に貰ふものはない。皆やる方ばかりだ」つまり「やらずぶったくり」であることを正確に認識していたのだ。そして著者は、さらに次のように自己の見解を述べている。
加藤は武力で袁世凱政権を威圧したが、21ヵ条要求問題で戦争を起こす気はなかった。さりとて、中国側に要求を受諾させる手段には乏しく、交渉が妥結するか否かは、袁世凱の決心による所が極めて大きかった。最終的に交渉は、袁世凱が最後通牒を受諾することで妥結したが、もし彼が受諾しなければ、交渉はさらに長引き、事態が紛糾した可能性も十分あった。加藤は、最後は袁世凱の決断に救われたという思いを持っていたようで、前述の講演の中で、袁世凱について次のように述べている。(引用前掲書)
その加藤の述懐はこうだ。 長いので一部省略して紹介する。
兎角の評はありますが袁世凱とい人が彼処に居ったのが仕合せであった。兎に角えらい人であったと思ふ。善悪は知らずえらい人であった。遙に輩を抜いて居った。(中略)袁世凱を悪く言ふ者もありますが、(中略)兎に角非常な遣り手であったといふことは確かに思へる。あの人が当時あの職に居ったことは、日支の談判を満足に成し遂げた事に就て確かに有力なる要件であった。(引用前掲書)
つまり加藤は、この要求が日本にとって一方的に都合がよい理不尽なものであることも認識していたし、他の多くの日本人のように袁世凱を「帝制復活をめざした超保守派」として軽蔑していたわけでも無い。もちろん、すでに述べたように大隈首相に強制されたわけでも無い。にもかかわらず、外交の専門家である加藤は、要求を押し通すという愚行を為した。じつに不思議ではないか、評伝の著者が「この侵略的で悪名高い外交を、なぜ加藤が行ったのかを合理的に説明することは難しい」と言うはずである。
(つづく)
【解説】
加藤は、この要求が日本にとって一方的に都合がよい理不尽なものであることも認識していた(中略)すでに述べたように大隈首相に強制されたわけでも無い。にもかかわらず、外交の専門家である加藤は、要求を押し通すという愚行を為した。じつに不思議ではないか
その理由は、次々回解き明かされます。
獅子風蓮