「21ヵ条要求問題」についてです。
いやあ、ずいぶん昔に日本史の授業で習いましたね。
第一次世界大戦がヨーロッパで繰り広げられているときに、日英同盟を口実にドイツに宣戦布告して、ちゃっかりドイツの利権を奪ったという火事場泥棒のような行為。
でも、最近まで知りませんでしたが、元老山県は、意外にもこの21ヵ条の要求には反対だったとのことです。
週刊ポストでの連載「逆説の日本史」で、井沢元彦さんがそんなことを書いていましたね。
d-マガジンで読みました。
かいつまんで、引用します。
週刊ポスト2024年3月22日号
逆説の日本史
井沢元彦
第 1411 回
近現代編 第十三話
大日本帝国の確立Ⅷ
常任理事国・大日本帝国その⑦
強圧的な対華21箇条要求に
関し生じる「二つの重大な疑問」
(つづきです)
「支那に於て承知すべき筈なし」
大日本帝国発足以来、いや帝国憲法が発布され近代的な内閣制度、官僚制度がスタートした後も、重要な案件は山県ら元老に報告し、その了承を得るのが政治の常道であった。それゆえ加藤は21箇条要求の概略ができたとき、山県に面会を求めそれを説明した。要求が正式に袁世凱に突きつけられる前年の1914年(大正3)11月のことだ。
加藤の説明を聞き終えた山県は、「対支政策につきては、君と余と根本的に意見を殊[異] にせり」
と語った。山県は、青島については「帝国政府の本意が潔よく還附するにある旨」を中国に告げる必要があるとした上で、次のように意見を異にする理由を述べ、要求内容の根本的疑問を突きつけた。
只今聞く所の個条は種々雑多にして、中には外交上重要なる事件は先づ日本に相談せよと乎、財政上の事は第一に日本に依頼せよと云ふ如き個条もありし様子なるが、斯かる属国扱ひの個条は、支那に於て承知すべき筈なし。政府は果して斯かることまで要求する考なりや。(『対華21ヵ条要求とは何だったのか 第一次世界大戦と日中対立の原点』奈良岡聰智著 名古屋大学出版会刊)
文中にある「潔よく還附」とは、中国側のマスコミもこれが日中友好推進には最善の道だと考えていた「膠州湾(青島)の無条件返還」ということだろう、「支那に於て承知すべき筈なし」と山県が評したのは、悪名高い第五号のことである。陸軍の頂点に立っていた山県有朋の見解は、きわめて意外なことに当時の常識から見てももっとも穏健で理性的なものだったのである。
ここで二つの重大な疑問が湧く。一つは、陸軍全体が一貫して強硬な姿勢を支持していたのに、その頂点に立つ山県だけがなぜ理性的な判断ができたのか。もう一つは、この強硬姿勢に疑問を持っていたはずの加藤は、なぜ山県を利用して陸軍の強硬姿勢を抑えようとしなかったのか、である。
最初の疑問については、司馬遼太郎的表現を使えば山県はただの「ヘータイ(兵隊)」では無かったからだろう。覚えておられるだろうか、日露戦争の奉天会戦に日本が勝利したとき、これを機にアメリカに講和の斡旋を依頼するはずが、中央の参謀本部は勝利に冷静さを失い当初の戦略を忘れてしまった。怒った現地軍の参謀長児玉源太郎が、中央を説得するために現場を離れて東京に向かおうとしたことがある。私はここが司馬遼太郎の名作小説『坂の上の雲』の屈指の名場面だと思うのだが、それを慌てて止めようとした満洲軍参謀松川敏胤に対して、児玉がからかう場面がある。そのとき児玉がロにしたのが、「お前はただの『ヘータイ』だな」というセリフである。むっとした松川が「閣下はそうではないのですか」と反論すると、児玉は次のように答えた。
「ちがうな」
児玉は、大山もそうだが、幕末内乱の弾雨の中をくぐって日本国家があやうい基盤の上にやっとできたのを体験のなかで見てしまったヘータイであるという。(『坂の上の雲七』司馬遼太郎著 文藝春秋刊)
ここは先月発売の文庫版最新刊『逆説の日本史 第二十六巻 明治激闘編』でも詳しく取り上げたところだが、わかりやすく言えば児玉も山県も苦労人で、松川のようなお坊ちゃん育ちとは違うということだ。彼らは、本当に貧しく力も無い時代の日本を苦労してここまで育て上げてきた。しかし、若い世代にとっては生まれたときから日本は強国だから、それがあたり前だと思って育つし弱国の気持ちなどわからない。山県に言わせれば、「若造どもは調子に乗りすぎておる。苦労を知らん」というところだったろう。
前にも述べたが、私は山県有朋という人間はあまり好きではない。盟友の伊藤博文が最初は嫌っていたものの結局は政党政治が近代国家に必要だということに目覚め、立憲政友会総裁を務めるなどの政党政治の確立に尽力し最終的には大日本帝国憲法の改正まで視野に入れていたのに対し、山県は最後まで政党政治に理解を示さなかった。あくまで軍隊を政治がコントロールするのを拒否し、逆に軍人勅論を作って軍人の政治関与をとりあえずは排除し、それで国家の運営には問題無いと考えていた。この点が、あくまで政治つまり政党によって軍事もコントロールされるべきだと考えていた伊藤とはまったく違う。結局、軍人たちは軍人勅諭を逆手にとって政治の軍事に対する関与を排除しただけでは無く、積極的に軍事が政治をコントロールするという形を作った。それが結局、大日本帝国を崩壊に導いたのである。 伊藤が暗殺されずにもっと長生きしていれば、その後の大日本帝国の運命もかなり違ったと思うのだが、そうしたどちらかと言えば軍隊優先の考えを持つ山県ですら、この問題に関してはきわめて良識的な見解を持っていた。それは長い戦乱を生き延びてきた古強者である山県は、宗教のような不合理な原理に縛られないリアリストであったからだろう。リアリストの目から見れば、この対華21箇条要求はあまりにも強圧的なものだ。「支那に於て承知すべき筈なし」なのである。
そうするとますます不思議になるのは、内心では山県とまったく同意見でこんな要求は受け入れられるはずもないと思っていた加藤が、どうして山県の力を借りて陸軍の強硬意見を抑えようとしなかったか、である。山県は「陸軍の法王」だ。最年長の長老でもあり天皇の信任も厚い。大将クラスでも山県の前に出れば「鼻たれ小僧」だ。たしかに、戦争のときに陸軍の後輩桂太郎首相は山県からの「独立」を果たそうとし、ある程度成功したがその桂太郎もいまは亡い。山県の権威に逆らえる陸軍軍人は一人もいない。
ここで加藤が山県に頭を下げて「とくに第五号の要求はあまりにも常軌を逸したもので、閣下のおっしゃるとおりです。ひとつ閣下のお力で強硬派を抑えてください」と頼めば、山県はもともと自分の考えに一致することでもあるし、ひいては日本国家のためにもなるのだから、加藤の要請を断らなかったはずである。しかし、実際には加藤は山県の力を一切借りようとしなかった。だからこそ加藤は陸軍強硬派に押し切られ、中国側に反発されて実現は不可能だと自身が予測していた第五号まで要求のなかに盛り込み、中国、アメリカとの関係を徹底的に悪化させるという最悪の結果を招いてしまった。
なぜ加藤は山県に頼らなかったのか? きわめて不思議ではないか。
〈以下次号〉
【解説】
どちらかと言えば軍隊優先の考えを持つ山県ですら、この問題に関してはきわめて良識的な見解を持っていた。それは長い戦乱を生き延びてきた古強者である山県は、宗教のような不合理な原理に縛られないリアリストであったからだろう。リアリストの目から見れば、この対華21箇条要求はあまりにも強圧的なものだ。「支那に於て承知すべき筈なし」なのである。
日本人をいまも呪縛する「犠牲者の死を絶対に無駄にしてはならない」という信仰。
これは、古来から続く「怨霊信仰」と関係していると井沢さんは言います。
犠牲者の霊を正しく鎮めないと、霊は怨霊となり、祟ってくる、と。
明治維新の修羅場をくぐってきた山県には、そういう宗教的な不合理に縛られないリアリストとしての一面があったということです。
日蓮宗の僧籍を持つ政治家・石橋湛山も、日本的な「怨霊信仰」とは無関係だったのでしょう。
これは、同じ日蓮仏法を信仰するものとして実感できるのですが、純粋に仏法の教えに従うなら、日本的な「怨霊信仰」とは無関係でいられるのです。
そもそも「霊魂」など認める必要はありません。
「霊が祟る」などという低級な宗教観は持ち合わせていません。
おそらくは石橋湛山が、戦前の帝国主義的な政治的圧力の中でも、リベラルで合理的な主張を貫けたのは、仏法の教えに忠実だったことと、王堂的プラグマティズムの影響を受けていたことが背景にあったのだと思います。
私は、公明党に期待するのは、同じ日蓮仏法を信じる者の集まりとして、己の信念を貫き、あくまでリベラルで合理的な判断ができる可能性があると思うからです。
すくなくとも創価学会・公明党の人々は、日本的な「怨霊信仰」とは無関係だと思うのです。
その点で、私たちは、石橋湛山に学ぶべきところが少なくないと思います。
獅子風蓮