素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

公立中、大阪府教師41人欠員。民間人校長応募もゼロ。

2010年07月03日 | 日記
 昨日の毎日新聞夕刊(1)面のトップの見出しである。不足分は採用待ちの講師で補充されるが、大阪府ではその数が確保できていないらしい。このことは、4年ぐらい前から枚方市においてもチラホラと聞こえ出して、今から何か手を打っていかないと大変な事態になるのではと現場では危惧されていた。

 新聞によれば、数学で1人不足しているため、本来1クラスを2つに分けて少人数授業をすることができない学校があるみたいだ。多分府下かなりの学校で同じように、不足分を現場のやりくりで乗り切っているのではと推測できる。府教委は『景気が良くなっている実感はなく、もっと人が集まっていいはずなのに』というコメントをしている。

 とても能天気なコメントやなと感じた。不況なら自然に集まってくるだろうという姿勢。講師の人たちに対する処遇をみていると納得できるのだが。仕事もでき、誠実な講師の人は現場で教諭以上に負担を強いられ採用試験への取り組みがままならず、教師への道を断念していくケースを多く見てきた。もっと、教員確保のための採用システムの抜本的な改革に着手しないと、加速度的に深刻な事態になっていくように思う。

 校長の件も同じで、人事、予算面では校長は何の権限ももっていない。あてがわれたものでやりくりをするのが学校経営では魅力がないであろう。もっと裁量権を与えてあげないと特色ある学校は夢のまた夢である。

 大阪府では08年度から給与カットが実施され、11.5~3.5%のカットを現在も続けられており、給与カットに踏み切っていない近隣府県と給与面での格差がひろがっていることも響いているのでは?ということも書いてあったが、「そうかなあ?」と疑問符がつく。人は「金のみ」では動かないように思うのだが。

 
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半夏生

2010年07月02日 | 日記
 「半夏生」(はんげしょうず)から作られた暦日で、かつては夏至から数えて11日目としていたが、現在では天球上の黄経100度の点を太陽が通過する日となっている。毎年7月2日頃にあたる。

 農家にとっては大事な節目の日で、この日までに農作業を終え、この日から5日間は休みとする地方もある。この日は天から毒気が降ると言われ、井戸に蓋をして毒気を防いだり、この日に採った野菜は食べてはいけないとされたりした。また三重県の熊野地方や志摩地方の沿岸部などでは、ハンゲという妖怪が徘徊するとされ、この時期に農作業を行うことに対する戒めともなっている。

 田植えが一段落して、夏に向かっての骨休めの頃として設定された生活の知恵だと思う。

 夏至を過ぎた頃に長さ10~15cmほどの穂状花序を葉のつけねにつけ、また、花のすぐ下に位置する葉の表面が白く変化し花びらの役目を果たすはずだが、我が家の“ハンゲショウ”は緑の葉のままである。よく通る道の一角に群生しているものは見事に咲いている。どことなく寂しげな様子が気に入っている。ただ、ドクダミ科なので、開花期にはドクダミに似た独特の匂いを出す。遠くから見ているほうが無難である。

名前の由来は、半夏生(太陽の黄経が100°になる日)の頃に花を咲かせることに由来する説と、葉の一部を残して白く変化する様子から「半化粧」とする説がある。

 また、葉の片面(表面)だけが白くなることから古くはカタシログサ(片白草)とも呼ばれている。私は、“半夏生”の漢字と“ハンゲショウ”という響きが一番好きである。花言葉は「内に秘めた情熱」

 今日からW杯もベスト8の戦いが始まる。本屋でイビチャ・オシムの『考えよ!』を衝動買いしてしまった。サッカー関連の本はすべて処分したのに、これもW杯効果か?
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交野の7月は七夕から

2010年07月01日 | 日記
  7月に入った。蒸し暑い一日だった。自治会の掲示板に“天の川七夕まつり”のポスターが貼ってある。枚方市から交野市のかけての一帯(かつては交野ヶ原と呼ばれていた)が「日本の七夕伝説の発祥地である」という説もあるぐらい“天野川”を始め七夕伝説に関連するものが多く点在する。

 時間が空いたので、自転車で2時間ぐらい“七夕伝説”が息づく場所を巡ってみた。星田駅前の商店街では各店先に、かわいい七夕の笹を飾っていた。倉治の商店街も七夕の飾りをぶらさげムードを高めていた。

  

 江戸時代の儒学者貝原益軒が「あたかも天上の川の形の如し」と書いた頃の美しさは想像し難い平凡な川だが、『伊勢物語』にある在原業平の「狩りくらし 棚機乙女(たなばたつめ)に宿からむ 天の河原に われは来にけり」という歌にもあるように、天野川が古代から途切れることなくロマンの物語の中を生き続けてきたことは確かである。

  織姫と牽牛が年に一度の再会を果たせるようにと天野川にかけられている“逢合橋(あいあいばし)”では七夕まつりのための竹の飾りが準備されていた。

 ここをはさんで東西に織姫と牽牛がいるのである。織姫は第1回かるた・歴史ウォークで訪れた“機物(はたもの)神社”に祀られている。 機物神社の由来は諸説あるが、5~6世紀に渡来してこの地に養蚕と機織りの技術を伝えた秦氏(はたうじ)を祀ったのがはじまりで、それが平安期になって七夕伝説と結びつけられて機物(はたもの)神社となり、祭神として天棚機比売大神(あまのたなばたひめのおおかみ)=(織姫)が祀られるようになったという説が有力。

 一方、牽牛(彦星)は香里団地のピーコックの前の信号を左折して住宅地を少し行くとある観音山公園の東端に置かれている大きな石=“牽牛石”として風雨にさらされている。昨年、全国七夕サミットが開催されたので、案内板も石碑も建てられてましになったが、それまではほとんど訪れる人もなく雑木の中にうもれていたという。

   

 公園は緑豊かな高台にある。今はマンションなどで見通しが悪くなっているが、昔であれば交野山の麓に位置する機物神社をしっかり望むことができたであろう。ここに七夕伝説を刻んだ古人のイマジネーションの豊かさを思った。

 以前買い求めた、岡本三千代さんのCDの中にも山上憶良の歌で構成された“七夕の歌”と“天の川慕情”がある。その解説には

「ひこ星とたなばた姫の中国の伝説が、通い婚で逢瀬のままならない当時の人々にとって、心情の重なり合うところが多かったせいか、万葉集中に七夕の歌が約130首ほど詠われている。超現実派歌人といわれる、山上憶良にも12首の歌があり、歌曲ではいくつかを相聞の形式にしている。題詞に「七夕の歌」が「なぬかのよのうた」と記されており、その美しい響きはますますロマンティシズムをかきたてる」

 「天上のロマン、牽牛と織女の恋を語ったこの歌は、当時の“愛する2人”にとって、どれだけ多くの共感を得たことだろうか。障害を乗り越え、手をつくして、やっと出会えた天の川原で、玉のように美しい手をさし交わし、一夜だけでなく、幾夜も愛し合っていたいという率直で大胆な表現が、万葉集は青春の歌集といわれる所以であろう」
 
 とある。

 天野川沿いの遊歩道を走っている時、BGMにして聴いたが、なかなか良かった。岡本さんのCDは家の中より、自然の中で聴くほうがいいとあらためて思った。

 来週の天気が気になるところである。
 

 
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