最近どういうわけか、怠け癖がついてきたようだ。
残暑が厳しいからと言うわけでもないのに、家事だけを済まし、一応日課にしているブログだけは書いて、後はなんとなくダラダラとTVを見るようになった。
これでは具合が悪いので、怠け癖の原因を考えてみた。
私は、食べることに関しては、贅沢は出来ないので自由ではないが、時間に関しては自由である。
同様に、観光旅行やグルメや観劇・コンサートは経済的に望むべくもない。
かといって、自由な時間を何もせずに、食べて寝るだけの生活は味気ないので、自分なりに計画を立てて生活をしている。
その意味では、このブログ作成は、日常生活の中で時間を有効に消費する大きなひとこまでもある。
日常生活については、一応一日を時間配分し、ブログの「昨日記」や「ニュースメモ」作成を日課に組み込んでいる。
そのほか、日常生活では、炊事・洗濯・買い物・掃除にもかなりの時間がとられる。
そのような日課以外に、午後の運動(ジム・プール)や本を読んだり、何か書いたり、出来れば仕事を作ったりして何かを興味あること進めたいと思っている。
こうしたことを、予定にも入れているが、それらの事について具体的な達成目標や計画日時の設定がない。
したがって最近のように、家事と、ルーチンのブログだけを済ませて後は、終日TVを見るといったことも起こるのである。
仕事であれば、期限のない計画は無きに等しいと考えるが、このことは私生活でもあてはまる。
しかし私生活を、堅苦しく計画詰めで縛ってどうなの?という考えもある。
この問題の行き着くところが、自分の価値観の問題になりそうだが、このことについて考えてみた。
自分で立てた計画なり目標は、目の前のこと(例えばTVを見る)より大切と思えば守るであろうし、それほど大切でないと思えば、目標を達成しようとする努力はしないだろう。
一般的に、自分の持っている実現したい事(計画)に対する願望=価値の強弱は、結局個人の好き嫌いや動機付けの強さにより決まり、今やっていることと、やりたいと思っていることの、どちらを選択するかは、自分からみた価値の強弱を比較して行動を選択していると言える。
具体的に言うと、現在起きている事(例えば面白いTV番組を見ている。)の価値と、自分が計画している価値(例えば大学入試に合格する)を実現する為の作業(勉強)と比較して、自分にとって価値が高いほうを選択し、大学入試が大事と思えばTVをやめて勉強するだろう。
この場合、今苦しくても目標を達成すればもっといい未来があるという希望が、動機付けになると考えられる。
そこで、人は常に自分の能力と目標達成の可能性や、達成した後の達成感=自己満足度や、達成したことによる社会的・経済的評価や利益・恩恵等を、総合的に考えて目標決定し、目標達成への動機付けを行っていると考えられ、自分がよく分かっている人は、必要以上に高い目標は設定しない。
目標が自分の能力から高すぎる設定をした場合は、いつも失敗し達成感がなく敗北感のみ感じるようになり動機付けが出来なくなる。
したがって、何もせずTvを終日見るという行為は、目標を見失っているか、目標はあっても、目標を達成するだけの強い動機付けより、TVの魅力のほうが勝るということだろう。
すなわち設定した目標に魅力がないということになる。
かといって、何か自分の興味あるものを、他人が与えてくれるわけでもない。
仕事であれば、いやな仕事でも仕事をすれば、対価としての給料が入るということが、非常に強い動機付けになっていることは疑いない。
しかも、嫌いな仕事でもやっているうちに、だんだんとその世界の面白さが分かるようになり、そのことが新しい動機付けとして加わり、さらに社内での地位や取引先での評価が上がると、周囲から認められることで優越感を刺激し、動機付けに作用し、ますます仕事が好きになる。
多くのサラリーマンは、このような経過をたどり仕事好きになると思われる。
それでは、どのようにしてそのような動機付けを見つければよいのか。
では、動機付けや「生きがい」のとは何だろう、なぜ生きがいを感じるのだろう。
その条件を考えると、生きがいや動機付けをなくした人は、社会から孤立したり、引きこもりになったりする場合が多いのではないだろうか。
組織や社会の経済活動に参画していない無職や年金生活者は、他者との接点もない状態で、自発的に計画を立てて好きなことをやって達成感を満たそうとしても、理解者や外部の評価をしてくれる人がいなければ、動機付けにならないのではないだろうか。
すなわち、自分が好きなことをしていても、外部の理解者や、他人の評価がなければ、自分に対する反響はないわけで、その状態で「生きがい」や「やりがい」を感じることは、普通の人には空虚な幻想とも思える。(中には、アールブリュットで取り上げられるように、孤立した状態でも自分の生きがいを見つけ、創作活動を出来る人もいるが、まれである。)
仕事の場合は無条件で社会とつながることを前提としているので、どんな形であれ他者の評価が発生し、動機付けや「やりがい・生きがい」につながることが多い。
趣味の世界でも、その分野で高度になれば、趣味の世界でのサークル・集団・社会があって、そこに属することで他者からの評価(認められることや帰属意識)が得られることになり、それが強い動機付けになる。
そのことで、さらに目標決定や目標達成のための仕事や作業を継続し努力することが容易になる。
しかし、そのような、社会との接点を持たない人は、結局引きこもり状態とならざるを得ない。
逆に言えば、そのような状態になれば、自ら得意分野や好きなことを考え、そのような分野に関連した趣味なりサークルなり社会活動や企業なりに参加し、社会との接点を持つことにより、相対的に自分の社会的位置が確認でき、他者からの評価儲け、動機付けも容易になると思われる。
その意味で、一人であっても仕事なり趣味の活動を追求し、実力がついてくると、必ず仕事なり趣味を通じて社会との接点が発生し、そこに動機付けや「やりがい」「生きがい」が発生するのだろう。
このように考えてくると、自分自身で、意識的にさまざまな分野の集団(サークル・団体・企業)と接触するなり、活動に積極的に参加したり仕事をし、努力することが、動機付けや「やりがい」「生きがい」を作り出すことになり、ただなんとなくTVを見て無気力に時間を過ごすことを無くすことができるようになるかも知れない。
結論から言えば、好きなことに打ち込めということかもしれない。
私の場合は、もっと意識的に打ち込み、仕事や好きなものを、TVより好きになるように深化させることだろう。
(やりたい仕事はこれから見つけるか創業が必要だが、好きな趣味はいろいろあるが絞りこんで、より専門的に深めるということだろう。)
哲学・思想・宗教・人生・生き方(このブログは左記リンクのカテゴリー別「哲学・思想・・」ホルダーに収納しています。)
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残暑が厳しいからと言うわけでもないのに、家事だけを済まし、一応日課にしているブログだけは書いて、後はなんとなくダラダラとTVを見るようになった。
これでは具合が悪いので、怠け癖の原因を考えてみた。
私は、食べることに関しては、贅沢は出来ないので自由ではないが、時間に関しては自由である。
同様に、観光旅行やグルメや観劇・コンサートは経済的に望むべくもない。
かといって、自由な時間を何もせずに、食べて寝るだけの生活は味気ないので、自分なりに計画を立てて生活をしている。
その意味では、このブログ作成は、日常生活の中で時間を有効に消費する大きなひとこまでもある。
日常生活については、一応一日を時間配分し、ブログの「昨日記」や「ニュースメモ」作成を日課に組み込んでいる。
そのほか、日常生活では、炊事・洗濯・買い物・掃除にもかなりの時間がとられる。
そのような日課以外に、午後の運動(ジム・プール)や本を読んだり、何か書いたり、出来れば仕事を作ったりして何かを興味あること進めたいと思っている。
こうしたことを、予定にも入れているが、それらの事について具体的な達成目標や計画日時の設定がない。
したがって最近のように、家事と、ルーチンのブログだけを済ませて後は、終日TVを見るといったことも起こるのである。
仕事であれば、期限のない計画は無きに等しいと考えるが、このことは私生活でもあてはまる。
しかし私生活を、堅苦しく計画詰めで縛ってどうなの?という考えもある。
この問題の行き着くところが、自分の価値観の問題になりそうだが、このことについて考えてみた。
自分で立てた計画なり目標は、目の前のこと(例えばTVを見る)より大切と思えば守るであろうし、それほど大切でないと思えば、目標を達成しようとする努力はしないだろう。
一般的に、自分の持っている実現したい事(計画)に対する願望=価値の強弱は、結局個人の好き嫌いや動機付けの強さにより決まり、今やっていることと、やりたいと思っていることの、どちらを選択するかは、自分からみた価値の強弱を比較して行動を選択していると言える。
具体的に言うと、現在起きている事(例えば面白いTV番組を見ている。)の価値と、自分が計画している価値(例えば大学入試に合格する)を実現する為の作業(勉強)と比較して、自分にとって価値が高いほうを選択し、大学入試が大事と思えばTVをやめて勉強するだろう。
この場合、今苦しくても目標を達成すればもっといい未来があるという希望が、動機付けになると考えられる。
そこで、人は常に自分の能力と目標達成の可能性や、達成した後の達成感=自己満足度や、達成したことによる社会的・経済的評価や利益・恩恵等を、総合的に考えて目標決定し、目標達成への動機付けを行っていると考えられ、自分がよく分かっている人は、必要以上に高い目標は設定しない。
目標が自分の能力から高すぎる設定をした場合は、いつも失敗し達成感がなく敗北感のみ感じるようになり動機付けが出来なくなる。
したがって、何もせずTvを終日見るという行為は、目標を見失っているか、目標はあっても、目標を達成するだけの強い動機付けより、TVの魅力のほうが勝るということだろう。
すなわち設定した目標に魅力がないということになる。
かといって、何か自分の興味あるものを、他人が与えてくれるわけでもない。
仕事であれば、いやな仕事でも仕事をすれば、対価としての給料が入るということが、非常に強い動機付けになっていることは疑いない。
しかも、嫌いな仕事でもやっているうちに、だんだんとその世界の面白さが分かるようになり、そのことが新しい動機付けとして加わり、さらに社内での地位や取引先での評価が上がると、周囲から認められることで優越感を刺激し、動機付けに作用し、ますます仕事が好きになる。
多くのサラリーマンは、このような経過をたどり仕事好きになると思われる。
それでは、どのようにしてそのような動機付けを見つければよいのか。
では、動機付けや「生きがい」のとは何だろう、なぜ生きがいを感じるのだろう。
その条件を考えると、生きがいや動機付けをなくした人は、社会から孤立したり、引きこもりになったりする場合が多いのではないだろうか。
組織や社会の経済活動に参画していない無職や年金生活者は、他者との接点もない状態で、自発的に計画を立てて好きなことをやって達成感を満たそうとしても、理解者や外部の評価をしてくれる人がいなければ、動機付けにならないのではないだろうか。
すなわち、自分が好きなことをしていても、外部の理解者や、他人の評価がなければ、自分に対する反響はないわけで、その状態で「生きがい」や「やりがい」を感じることは、普通の人には空虚な幻想とも思える。(中には、アールブリュットで取り上げられるように、孤立した状態でも自分の生きがいを見つけ、創作活動を出来る人もいるが、まれである。)
仕事の場合は無条件で社会とつながることを前提としているので、どんな形であれ他者の評価が発生し、動機付けや「やりがい・生きがい」につながることが多い。
趣味の世界でも、その分野で高度になれば、趣味の世界でのサークル・集団・社会があって、そこに属することで他者からの評価(認められることや帰属意識)が得られることになり、それが強い動機付けになる。
そのことで、さらに目標決定や目標達成のための仕事や作業を継続し努力することが容易になる。
しかし、そのような、社会との接点を持たない人は、結局引きこもり状態とならざるを得ない。
逆に言えば、そのような状態になれば、自ら得意分野や好きなことを考え、そのような分野に関連した趣味なりサークルなり社会活動や企業なりに参加し、社会との接点を持つことにより、相対的に自分の社会的位置が確認でき、他者からの評価儲け、動機付けも容易になると思われる。
その意味で、一人であっても仕事なり趣味の活動を追求し、実力がついてくると、必ず仕事なり趣味を通じて社会との接点が発生し、そこに動機付けや「やりがい」「生きがい」が発生するのだろう。
このように考えてくると、自分自身で、意識的にさまざまな分野の集団(サークル・団体・企業)と接触するなり、活動に積極的に参加したり仕事をし、努力することが、動機付けや「やりがい」「生きがい」を作り出すことになり、ただなんとなくTVを見て無気力に時間を過ごすことを無くすことができるようになるかも知れない。
結論から言えば、好きなことに打ち込めということかもしれない。
私の場合は、もっと意識的に打ち込み、仕事や好きなものを、TVより好きになるように深化させることだろう。
(やりたい仕事はこれから見つけるか創業が必要だが、好きな趣味はいろいろあるが絞りこんで、より専門的に深めるということだろう。)
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