晴れ 最高/最低℃ =21.1 10.0
昨日は、午後から日本橋にあるギャラリーAMI-KANOKOに行った。
予定では他のギャラリーも回る予定であったが、話し込んでしまい、行く時間が無くなった。
今週の土曜日に「評論を書くことを考えてみる会」というのがあって、その会に2度参加しているが、知的好奇心をくすぐられ、さらにじっくりと腰を据えて多様な現代アートや作家と対峙する意味でも、非常に面白いと思っている。
そもそも、芸術は表現であり、人間の頭や心で考えたりイメージしたことを、伝達媒体を使い、認識が共有されている記号や文法文脈を駆使して伝達するものである。
そこには価値観の共有や、文法文脈や記号=シンボルの共通の了解がなければ成立しえない。
その意味で、芸術はすべての民族間で共通に成立するものではないと思っている。
いくら素晴らしい絵画作品であっても、宗教的・民族的価値観が違えば、その絵画作品は単なるゴミに過ぎないのだ。
具体的な例を挙げると、私を含む多くの日本人でさえ、文楽・義太夫節に対する理解(義太夫節に対する価値観や表現の良しあしと関係する技法・文法・文脈・・・)がわからなければ、雑音にしか聞こえないのであるが、多くの日本人は、義太夫節が芸事・芸術の一種であるとの認識を、教養として持っているので、わからなくても、理解しようとするのである。
しかし、義太夫節を中南米や西欧の人に聞かせても、価値観やそれに基づく文法・文脈を理解する術を持っていないため、ほとんどの人は雑音と思うだろう。
このように、すべての芸術作品は、固有の価値観・表現技法と表現や鑑賞作業を解くカギとなるコードともいうべき・文法・文脈を持っているのだ。
表現された芸術には同じカテゴリーないで、必ず優劣が存在する。
例えば、同じ曲でも、下手なカラオケは誰も聞きたくないが、プロ歌手の歌は聞きたくなる。
これは表現技法の問題であるが、同時に表現技法もそのカテゴリーの価値観によっている。
また、同じジャンルの曲でも、名曲と見向きもされない曲があるのも事実である。
これは作品の内容と文法文脈の良しあしの問題であり、同じくそのジャンル固有の価値観で判断している。(以上記号論的思考による展開メモ)
ギャラリーAMI-KANOKOでは、1Fで黒瀬剋展 2FでASADA展を行っていた。
この両名の作品が、土曜日の評論テーマとして、学生や作家から美術評論が発表される。
どんな評論が出るのか、非常に楽しみである。
前回と、その前の会の前半では、本質的な評論内容に否定的意見や疑問を述べて会場の討論を混乱させてしまったが(決して討論の内容と逸脱した発言で混乱させたのではありません。その後も討論は発言内容を踏まえて進行しました。)今回は、問題なさそうな感じがする。
というのも、私が行った時にも黒瀬氏は在籍していて、本人から作品に対する考えや、評論に対する考えを十分聞けた。
黒瀬氏の話によると、今回の執筆者とも十分話が出来たそうである。
したがって、作品に対する勘違いや見落としは少ないだろうと思われるからである。
2FのASADA氏には会えなかった。
ひょっとすると、ASADA氏とは展覧会で顔を合わせているかもしれないが、私はASADA氏と面識がないし、作品も初めて見る作品であった。
作品は、具象造形(陶芸?)のインスタレーションで物語性があり、作品の被り物を頭につけての写真も資料の中にあったので、評論しやすいと思われる。
土曜日に、どんな評論が聞けるのか楽しみである。
余談だが、この催しは、先月?奈良のギャラリーCLASSでのパーティーで久しぶりに会ったK氏と雑談していた時に、この会の事を話すと、開催しますよと言っていたので驚いた。
口ぶりからすると、運営に絡んでいるらしい感じがした。
(そういえば、それ以前にも会を運営しているようなことを、彼の口から聞いたような覚えがある。)
帰りは遅くなったので、予定していたギャラリーには寄らず、いつもの店でコーヒーを飲んで帰宅した。
散歩者gooのトップページへ、 http://blog.goo.ne.jp/sksoo
参考ブログ集 散歩者gooより
(参考ブログは、数週間に1度追加削除しています。数か月以前のものは分野別<芸術 健康 エッセイ 歴史宗教思想 情報機関> に分類しています。)
昨日は、午後から日本橋にあるギャラリーAMI-KANOKOに行った。
予定では他のギャラリーも回る予定であったが、話し込んでしまい、行く時間が無くなった。
今週の土曜日に「評論を書くことを考えてみる会」というのがあって、その会に2度参加しているが、知的好奇心をくすぐられ、さらにじっくりと腰を据えて多様な現代アートや作家と対峙する意味でも、非常に面白いと思っている。
そもそも、芸術は表現であり、人間の頭や心で考えたりイメージしたことを、伝達媒体を使い、認識が共有されている記号や文法文脈を駆使して伝達するものである。
そこには価値観の共有や、文法文脈や記号=シンボルの共通の了解がなければ成立しえない。
その意味で、芸術はすべての民族間で共通に成立するものではないと思っている。
いくら素晴らしい絵画作品であっても、宗教的・民族的価値観が違えば、その絵画作品は単なるゴミに過ぎないのだ。
具体的な例を挙げると、私を含む多くの日本人でさえ、文楽・義太夫節に対する理解(義太夫節に対する価値観や表現の良しあしと関係する技法・文法・文脈・・・)がわからなければ、雑音にしか聞こえないのであるが、多くの日本人は、義太夫節が芸事・芸術の一種であるとの認識を、教養として持っているので、わからなくても、理解しようとするのである。
しかし、義太夫節を中南米や西欧の人に聞かせても、価値観やそれに基づく文法・文脈を理解する術を持っていないため、ほとんどの人は雑音と思うだろう。
このように、すべての芸術作品は、固有の価値観・表現技法と表現や鑑賞作業を解くカギとなるコードともいうべき・文法・文脈を持っているのだ。
表現された芸術には同じカテゴリーないで、必ず優劣が存在する。
例えば、同じ曲でも、下手なカラオケは誰も聞きたくないが、プロ歌手の歌は聞きたくなる。
これは表現技法の問題であるが、同時に表現技法もそのカテゴリーの価値観によっている。
また、同じジャンルの曲でも、名曲と見向きもされない曲があるのも事実である。
これは作品の内容と文法文脈の良しあしの問題であり、同じくそのジャンル固有の価値観で判断している。(以上記号論的思考による展開メモ)
ギャラリーAMI-KANOKOでは、1Fで黒瀬剋展 2FでASADA展を行っていた。
この両名の作品が、土曜日の評論テーマとして、学生や作家から美術評論が発表される。
どんな評論が出るのか、非常に楽しみである。
前回と、その前の会の前半では、本質的な評論内容に否定的意見や疑問を述べて会場の討論を混乱させてしまったが(決して討論の内容と逸脱した発言で混乱させたのではありません。その後も討論は発言内容を踏まえて進行しました。)今回は、問題なさそうな感じがする。
というのも、私が行った時にも黒瀬氏は在籍していて、本人から作品に対する考えや、評論に対する考えを十分聞けた。
黒瀬氏の話によると、今回の執筆者とも十分話が出来たそうである。
したがって、作品に対する勘違いや見落としは少ないだろうと思われるからである。
2FのASADA氏には会えなかった。
ひょっとすると、ASADA氏とは展覧会で顔を合わせているかもしれないが、私はASADA氏と面識がないし、作品も初めて見る作品であった。
作品は、具象造形(陶芸?)のインスタレーションで物語性があり、作品の被り物を頭につけての写真も資料の中にあったので、評論しやすいと思われる。
土曜日に、どんな評論が聞けるのか楽しみである。
余談だが、この催しは、先月?奈良のギャラリーCLASSでのパーティーで久しぶりに会ったK氏と雑談していた時に、この会の事を話すと、開催しますよと言っていたので驚いた。
口ぶりからすると、運営に絡んでいるらしい感じがした。
(そういえば、それ以前にも会を運営しているようなことを、彼の口から聞いたような覚えがある。)
帰りは遅くなったので、予定していたギャラリーには寄らず、いつもの店でコーヒーを飲んで帰宅した。
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