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元旦の朝は、独居老人にとっては家族とか他者という最小限の社会単位が存在しないので、社会通念上の年中行事は関係ない。
もし私が、民族主義者なり、神道とかその他宗教の信者であれば、元旦の行事を行ったかもしれないし、他者の存在があれば、そこには最小単位の社会が存在するので、成り行き的に、社会規範の規制を自主的に行うようになりやすい。
即ち、その土地の風土慣習による年中行事であり、今回の場合は正月行事である。
しかし独居老人にとっては、年中行事をこなしたとしても、何の意味も持たない。
例えば私がキリスト教や仏教といった宗教に強い信仰を持っていれば、その教義に基づいた行事・作法や祈りをささげるだろう。
幸か不幸か、私は宗教について関心はあるし、仏教やキリスト教や神道に対し多少の知識を持ち合わせているが、強い信仰心はない
両親が存命中は、正月になると神棚と仏壇にお鏡を備えていた。
両親が他界した後は、兄の家に立派な仏壇を作り両親の位牌その他を、その仏壇に移した。
神棚はまだあるが、地元の神社の奉賛会もいつの頃か会費を払わなくなりやめたことになる。
最近は、考古学や歴史的興味から、神道のことについていくつかの学術的な本を読み、神道の成立から現在までの過程を理解できたし、非常に興味深い事実を知った。
神道の成立は古墳時代以降で、6世紀から7世紀ごろと考えられるが、詳しいことは分らない。
とにかく神社の成立が明確でないのだ。
そもそも、初めは神社という社殿がなかった可能性があり、単なる磐座、依り代だった可能性が強い。
本来日本の神は訪れる神であり、神を招いた(おぎしろ)のだという考えがあり、磐座や依り代はその証であるし、その典型である。
同時に、古来日本の神は祭らねば祟る(たたる)ものであったという説もある。
そもそも、日本の神道は多神教であり八百万の神であり、天照大神を頂点としたヒエラルキーの有る信仰体系ではなく、平安時代でさえ天皇は、他の神社に直接参拝できなかったという。
それぞれの地域(古来その氏族の支配地)で氏神がいて、天皇ですら氏神に敬意を払わねばならなかったという。
天皇の氏神は伊勢神宮であり、天皇が他の神社に直接参拝するようになったのは、幕末からという。
それ以前は、神社に入っても、その脇で参拝したという。
神の怒りに触れると、神が祟り、天皇でさえ災いが及ぶため、丁重にもてなしたという。
その典型が、菅原道真を祀る天満宮と言われる。
ただ言えることは、現在の神道は古墳時代の祭祀を引き継いでいるということは、多くの研究者の一致するところである。
神社成立後から、江戸末期までは、神社と仏教が非常に密接に関係していたといい、僧侶が神主を兼ねていたことも多かったという。
天地垂迹説(てんちすいじゃくせつ)もあり、明治以前の多くの人は、神道と仏教が一連の流れの中に位置づけられていたのではないかと言われる。
私の場合、幼いころに、人間は死後仏教で仏さまになり、50年たつと神道の神様になると教えられたが、そうした民間の信仰の在り方は、明治以前の信仰形態の名残ではないかと思っているし、そうすることで仏壇と神棚を同時に祭るという形態が残っているのかもしれない。
江戸時代以前から、吉田神道やその他独自の神道思想の影響もあり、江戸時代以降に国学者も加わり神道絶対主義的原理主義が徐々に広がりをみせ、仏教排斥の主張が広がり、明治維新の廃仏毀釈運動につながる。
そうした動きも含め、明治以前の神道と、その後の神道がかなり違ったものになっていることを、知る必要がある。
明治以降、神社が国家管理され、統合廃止格付けされ、大きな神社ですら所有地を減らされたりした例も多いと言い、神社の数も神主もかなり減少したという。(ある意味合理化した)
明治の廃仏毀釈、国家神道で神社が栄えたのではないのだ。
神道系の、新宗教(天理教 大本教 金光教・・・)の成立過程の政治的な流れも分かった。
正月に関してずいぶん余談が、長くなった。
こうした話は、学問的に研究すべき点が多く、面白い。
さて元旦の朝は、とりあえず世間の慣習に従おうと思い、元旦はお屠蘇を飲み、3が日を雑煮で過ごすことにした。
両親が居た頃は、元旦の朝は父の一言とお酒で新年を祝い、雑煮と煮しめや正月料理を食べていたが、両親が亡くなり、一人暮らしをするようになってからは、一人でお酒を飲み自分で作った雑煮を食べていた。
即ち、一度もお屠蘇というものを飲んだことがなかった。
たまたま味醂に屠蘇散がついていたので、出汁に味醂は必ず使っているので購入した。
屠蘇散の説明書通り前日から酒とみりんを混ぜたものに屠蘇散を浸しておいた。
説明書には、味醂又はお酒に浸すとあったが、味醂100%はとても飲む気がしないので味醂と酒505ずつにした。
元旦の朝飲んだが、まずかった。
酒だけに浸せばよかったと後悔した。
雑煮は、いつもの副食を作ってから、水を追加して沸騰させ、その後小さな餅4個(計150g)を加えて1分間電子レンジで加熱すると、うまく仕上がった。
午後になって、運動不足にならないように、前日行ったウォーキングを再び行うことにした。
距離にすると往復で10kmに近い。
歩き出すと、体が重かった。
明らかに昨日の疲れが残っているらしかった。
それでも同じコースを片道1時間弱で歩きファストフードで本を読んだ。
しかし、その時くしゃみが何度か出た。
実は、朝起きた時から喉の奥で、鼻からの空気が直接当たる個所に違和感を感じていたのだ。
それが、午後には声帯から気管支に違和感が広がり、軽く痰も絡むようになり、咳も出始めた。
経験的に、これは本格的な風邪の前駆症状だと感じた。
熱はないが、とりあえず葛根湯を服用した。
帰宅した時は多少体に疲れも感じた。
帰宅後昨日記を書いたので、早く寝るつもりが12時半ごろになった。
元旦の朝は、独居老人にとっては家族とか他者という最小限の社会単位が存在しないので、社会通念上の年中行事は関係ない。
もし私が、民族主義者なり、神道とかその他宗教の信者であれば、元旦の行事を行ったかもしれないし、他者の存在があれば、そこには最小単位の社会が存在するので、成り行き的に、社会規範の規制を自主的に行うようになりやすい。
即ち、その土地の風土慣習による年中行事であり、今回の場合は正月行事である。
しかし独居老人にとっては、年中行事をこなしたとしても、何の意味も持たない。
例えば私がキリスト教や仏教といった宗教に強い信仰を持っていれば、その教義に基づいた行事・作法や祈りをささげるだろう。
幸か不幸か、私は宗教について関心はあるし、仏教やキリスト教や神道に対し多少の知識を持ち合わせているが、強い信仰心はない
両親が存命中は、正月になると神棚と仏壇にお鏡を備えていた。
両親が他界した後は、兄の家に立派な仏壇を作り両親の位牌その他を、その仏壇に移した。
神棚はまだあるが、地元の神社の奉賛会もいつの頃か会費を払わなくなりやめたことになる。
最近は、考古学や歴史的興味から、神道のことについていくつかの学術的な本を読み、神道の成立から現在までの過程を理解できたし、非常に興味深い事実を知った。
神道の成立は古墳時代以降で、6世紀から7世紀ごろと考えられるが、詳しいことは分らない。
とにかく神社の成立が明確でないのだ。
そもそも、初めは神社という社殿がなかった可能性があり、単なる磐座、依り代だった可能性が強い。
本来日本の神は訪れる神であり、神を招いた(おぎしろ)のだという考えがあり、磐座や依り代はその証であるし、その典型である。
同時に、古来日本の神は祭らねば祟る(たたる)ものであったという説もある。
そもそも、日本の神道は多神教であり八百万の神であり、天照大神を頂点としたヒエラルキーの有る信仰体系ではなく、平安時代でさえ天皇は、他の神社に直接参拝できなかったという。
それぞれの地域(古来その氏族の支配地)で氏神がいて、天皇ですら氏神に敬意を払わねばならなかったという。
天皇の氏神は伊勢神宮であり、天皇が他の神社に直接参拝するようになったのは、幕末からという。
それ以前は、神社に入っても、その脇で参拝したという。
神の怒りに触れると、神が祟り、天皇でさえ災いが及ぶため、丁重にもてなしたという。
その典型が、菅原道真を祀る天満宮と言われる。
ただ言えることは、現在の神道は古墳時代の祭祀を引き継いでいるということは、多くの研究者の一致するところである。
神社成立後から、江戸末期までは、神社と仏教が非常に密接に関係していたといい、僧侶が神主を兼ねていたことも多かったという。
天地垂迹説(てんちすいじゃくせつ)もあり、明治以前の多くの人は、神道と仏教が一連の流れの中に位置づけられていたのではないかと言われる。
私の場合、幼いころに、人間は死後仏教で仏さまになり、50年たつと神道の神様になると教えられたが、そうした民間の信仰の在り方は、明治以前の信仰形態の名残ではないかと思っているし、そうすることで仏壇と神棚を同時に祭るという形態が残っているのかもしれない。
江戸時代以前から、吉田神道やその他独自の神道思想の影響もあり、江戸時代以降に国学者も加わり神道絶対主義的原理主義が徐々に広がりをみせ、仏教排斥の主張が広がり、明治維新の廃仏毀釈運動につながる。
そうした動きも含め、明治以前の神道と、その後の神道がかなり違ったものになっていることを、知る必要がある。
明治以降、神社が国家管理され、統合廃止格付けされ、大きな神社ですら所有地を減らされたりした例も多いと言い、神社の数も神主もかなり減少したという。(ある意味合理化した)
明治の廃仏毀釈、国家神道で神社が栄えたのではないのだ。
神道系の、新宗教(天理教 大本教 金光教・・・)の成立過程の政治的な流れも分かった。
正月に関してずいぶん余談が、長くなった。
こうした話は、学問的に研究すべき点が多く、面白い。
さて元旦の朝は、とりあえず世間の慣習に従おうと思い、元旦はお屠蘇を飲み、3が日を雑煮で過ごすことにした。
両親が居た頃は、元旦の朝は父の一言とお酒で新年を祝い、雑煮と煮しめや正月料理を食べていたが、両親が亡くなり、一人暮らしをするようになってからは、一人でお酒を飲み自分で作った雑煮を食べていた。
即ち、一度もお屠蘇というものを飲んだことがなかった。
たまたま味醂に屠蘇散がついていたので、出汁に味醂は必ず使っているので購入した。
屠蘇散の説明書通り前日から酒とみりんを混ぜたものに屠蘇散を浸しておいた。
説明書には、味醂又はお酒に浸すとあったが、味醂100%はとても飲む気がしないので味醂と酒505ずつにした。
元旦の朝飲んだが、まずかった。
酒だけに浸せばよかったと後悔した。
雑煮は、いつもの副食を作ってから、水を追加して沸騰させ、その後小さな餅4個(計150g)を加えて1分間電子レンジで加熱すると、うまく仕上がった。
午後になって、運動不足にならないように、前日行ったウォーキングを再び行うことにした。
距離にすると往復で10kmに近い。
歩き出すと、体が重かった。
明らかに昨日の疲れが残っているらしかった。
それでも同じコースを片道1時間弱で歩きファストフードで本を読んだ。
しかし、その時くしゃみが何度か出た。
実は、朝起きた時から喉の奥で、鼻からの空気が直接当たる個所に違和感を感じていたのだ。
それが、午後には声帯から気管支に違和感が広がり、軽く痰も絡むようになり、咳も出始めた。
経験的に、これは本格的な風邪の前駆症状だと感じた。
熱はないが、とりあえず葛根湯を服用した。
帰宅した時は多少体に疲れも感じた。
帰宅後昨日記を書いたので、早く寝るつもりが12時半ごろになった。