散歩者goo 

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昨日記170527土(近つ飛鳥博物館 尾張とヤマト) 

2017年05月29日 17時49分54秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
最高/最低 23.8   16.0  晴
この日は朝から炊飯を行い、10食余りの冷凍ご飯を製造した。
昼食は、いつもの副食でなく、缶詰と納豆をおかずにした。
昔、山によく行っていた頃は、こうした行動食が当たり前だった。

昼食を済ますと、すぐに自転車で地下鉄の駅に急いだ。
地下鉄、近鉄、バスを乗り継いで、大阪府立近つ飛鳥博物館に向かった。
その行程は大変不便で、近鉄阿部野橋駅から喜志駅まで行き、1時間に1-2本しかないバスに乗って終点まで行き、そこから一須賀古墳群の有る山道を歩いてやっと、博物館に到着する。
この日博物館では午後2時から「ヤマト王権と地域社会の形成」というテーマで、学芸員の講演会があったのだが、汗をかきながら博物館に着いたのは2時30分を過ぎていた。
以前にも、何度かこの博物館に行っているが、まともに講演会の開始時間に間に合ったことは、ほとんどない。
この日の講演会は、3時終了なので半分以上聞き逃したことになるが、それでも一応講演会場に入り、資料をもらって講演会を聞いた。

卑弥呼の時代には、邪馬台国の隣に強大な狗奴国があり、お互い戦っていて、邪馬台国は中国の魏に応援を要請していたことが、中国の文献に記載されている。
考古学的に見ると、前方後円墳(卑弥呼の時代に始まり、大和の三輪山麓の箸墓が最初の定型化した巨大前方後円墳と考えられている。)が作られる頃に、東海地方から関東にかけて前方後方墳が広がっていて、大和政権から見て、中部地方を含む東国には、大和とは違った独自の政治的勢力があったことが知られている。
その中心は、尾張 美濃地域と言われていて、そこに多くの前方後方墳がある。
その時代出雲にも独自の古墳があったが、箸墓以降全国の独自の古墳が徐々に姿を消し、前方後円墳が中心となり、ヤマト王権の影響が広がるようだ。
講演会では、そうした伊賀から尾張地方にかけての、古墳の分布と推移や埴輪や須恵器の生産から地域社会の形成を論じていたように見えるが、地域的な古墳の分布や土器生産を除いては、傾向的には近年の学説で議論になっている事のようだった。

結局、講演会は半分も聞けなかったので、仕方なく展覧会のカタログを購入した。
カタログ「東国尾張とヤマト王権」(考古学から見た狗奴国と尾張連氏)には、考古学論文と、展示品の写真と考古学的解説が多数掲載されている。
その中の図表も、貴重である。
今まで考古学文献は多く読んでいるが、東国に関しては、文献も大和関連と比べて多くないので、以前から東国の、弥生時代から古墳時代の流れに関心を持っていた。
その意味で、今回の展覧会は是非行きたいものだった。
ただ、残念なことに、どの考古学の展覧会もそうであるが、展示としては同じような遺物が並んでいるだけで余り迫力はない。
考古学的成果を知るには、遺物を分析研究した調査報告書や、調査報告書をベースにした学術論文を読んで、その時代の流れや文物を頭の中で、推論し社会胸像や政治経済関係を再構成するしかない。
いくら展覧会で土器片や遺物を見たところで、それ以上でも以下でもなく、単なる物証でつまらない。
考古学は、刑事事件の捜査と共通するところがある。
物証を積み重ね、仮定をしつつ、遺物からの情報で、その時代の姿や出来事を再現することなのである。
姿は、物理的に分かるが出来事は、例えば火災があったとか、天候気候がどうであったとか、どれだけの人が住んでいて、どのような生活をしていたのか、食べ物はどうであったかとか、階級差はあったのかとかが、考古学的に遺物や遺跡を研究すると、分かるようになる。
たとえ土器片一つでも、その中に製造方法の変化や土器の胎土がどこから来たものかとか、研究すると様々なことが分かるのだ。
例えば、土器の研究だけで、その地域の婚姻関係や人の流れや地域どうしの結びつきを論証出来たりしている。
しかし、そうしたことは多くの土器片の比較研究から導き出されるもので、単品の土器片では、単に様々な情報(作り方、土の産地、焼き方の特徴、器形<地域・年代が分かる> 生産地域)を含んだ物証に過ぎないので、見ていてもつまらない。
考古学の面白さは、学問的事実から導き出せる内容を基に、その時代の世界を推測する面白さで、ロマンを感じさせる学問でもある。

帰宅後、疲れていたので、ジムには行かず、久しぶりにファストフードで、購入した博物館の展覧会カタログを読んだ。

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