散歩者goo 

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昨日記180412木(図書館 イチジクの鉢の土入れ替え)

2018年04月13日 18時46分27秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
最高/最低  20.7  15.4℃  薄曇
朝から図書館に出かけた。
そこには、蔵書点検のため休館との張り紙があった。
仕方なく、帰宅した。
こんなことなら、前日もっと多くの本を借りだすのだったと思った。

午後に、表に大型植木鉢に置いてあるイチジクの植え替えをした。
2m近くあるイチジクの木を横にして鉢を外し、根元の土や古い根をそぎ落とし、鉢に新しい土を作ってそこに敷イチジクを元に戻し、そぎ取った土の所に、新しい土を入れてやるという作業を一人でやった。
作業開始後、新しい土づくりをしたが、新しい土はあらかじめ用意すべきもので作業を開始してから気付いた。
それ以前にイチジクの周囲には大小の植木鉢が置いてあって、それを移す作業から始めなければならなかった。
土は、赤玉土と園芸土2種類(草花用肥料入りと草木用の少し硬い土)の3種類の土を混ぜ、それに白玉肥料を混ぜて作ったが。
イチジクの鉢を外すのもたいへんな作業だった。
新芽の出ている2m近い木を横に寝かせて、鉢の側面をたたいたり引っ張ったりしながらなんとか引き出した。
それから、根を傷つけないように手で土をそぎ落とし、白玉肥料に絡みついたと思われる古そうな毛細血管のような根の塊は、大胆にはぎ取った。
一通り古い根廻りの作業を終えると、元の大きい植木鉢の底に新しい土を敷き、その上にイチジクの木を入れた。
鉢の周囲の隙間はほとんどなかったが、それでも周囲に新しい土を入れて、植え替えは完了した。
鉢の土の部分的入れ替えは、予想通り数時間かけての大仕事で、体力もずいぶん使った。
久しぶりの園芸作業になった。
今年になって、金木犀と沈丁花が枯れて香りのする花木が無くなったので、新しく購入したい。

夕方になって食料品の買い出しに出かけた。
ジムは定期の期限切れのために行かなかった。
今日か来週にでもジムに行こうと思う。
数日休むと確実に体力筋力は低下する。
風邪といった病気にかかると、それ以上に筋力や体力が落ちる。
今回、先週からの風邪騒動で、かなり体力は低下していた。


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昨日記180411水(図書館と知的興味 )

2018年04月13日 14時29分41秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
最高/最低  22.3  14.4℃  曇後一時雨
この日も、前日同様図書館に出かけた。
タブレットも持ち込んだが、この日は読書とノート取りに集中した。
以前読んだ哲学関連の本を半分程度しか読んでいなかったので、改めて初めから読み直すことにした。
前回の時、ノートをとっていたので、それを見つつ、本を読みながら新しくノートをとった。
内容は、以前読んでいたので、問題なく理解できた。
結局、1ページほど要約ノートを作った。
2時前に帰宅し、昼食を作り遅い昼食をとった。
久しぶりの本格的読書やノート取りをして疲れたのか、午後はTVを見て過ごした。
本も読む本の種類で疲れ方が違う。
例えば、慣れ親しんだ、考古学や古代史の本は、多少難しくてもあまり疲れない。
文学は近年余り読んでいないので、分からない。
哲学はここ数年前から読み恥寝たのでまだ慣れていないので疲れる。
3―40代の頃は哲学史やマルクスや実存や構造や記号論関係の入門書や解説書は何冊も読んだことはある。
初めは大変疲れたのを思い出す
構造と観念論が対立する考えであることを知ったのは60代になってからだ。
実存の原点の現象学については、何度かチャレンジしたが、未だに十分理解できていないし、そもそも用語の定義が不明確であり、同じ意味のことを様々な用語で定義したりしているといった問題もある。
構造主義者が観念論を文芸哲学と揶揄するのも面白いし、ポスト構造他ポスト・・も未だ理解できていないが興味はある。(その言説が正しいかどうかは別問題)
フロイトやマックスウエーバーの有名な短編の文庫本は40代の頃に面白く読んだ。
ここ数年哲学書も読み始め、面白いと思い出している。
改めて哲学に興味を持ち始めたのは、40代以降、現代美術に係わり始めてからである。
その時アメリカ帰りの作家に美術論が話題になったときに記号論の話を聞いてから、現代美術と同時に現代詩等現代芸術を統合的に理解するツールとしての記号論に興味を持った。
その時に、構造主義や言語学と関係があるとは知らなかった。
しかし、今は民族学=文化人類学や考古学や現代芸術と記号論や構造主義が多少関連することを知った。
そのせいもあって、考古学博物館以外にも国立民族学博物館関係の催し物にもよく行くようになった。
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ギフトカタログ 自己分析・ナルシスト? 20180413―1155

2018年04月13日 11時59分47秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
先程、机や抽斗に積んである本やぎふとのか書類の山の中から一冊のカタログを見つけた。
数か月前に、何かの返礼品のギフトセットとしてカタログが届いていたのを思い出した。
その時、開けてみて趣旨も分かり、贈答品をそのカタログの中から選ぶようになっていた。
そもそも贈答品を貰うことも思っていなかったので驚いた。
カタログには様々な商品が掲載されていたので面倒くさいしそのまま引き出しの奥に入れていた。
返送用のはがきには期限があったのは知っていたが、特段気にも留めていなかった。
先程、そのカタログが出てきたのだ。
もう一度返送ハガキを見ると期限が4月10日になっていた。
しまったと思った。
しかし次の瞬間、そもそも何を貰うかも選択していなかったし、強いてほしいと思うものは無かったので、まあいいかと思った。

というのも、私の場合特別おいしいお菓子があっても、別段どうしても欲しいと思うことはほとんどない。
例えば、裏庭に昨年も、多くの巨峰が実ったが、食べたのは2―3房だった。
無論食べると、おいしかったが、だからと言ってどうしても欲しいとは思わなかったので、多くの巨峰は、ブドウ枝についたまま萎れていった。
今、金柑が大量になっているが、なったままで一度10個あまり収穫して食べたが、それも4個ほど食べ残した。
今も金柑には、たくさんの実が黄金色になっている。
スーパーで購入した柿もとてもおいしかったが、6個購入して2個食べ残し、冷凍したが、今もそのままである。
要するに、食料品であれ衣料品や道具であれ、自分が必要と思う以外は割合に気にしないのだ。
だから着ている物も、20年以上前どころか、現在冬に普段着で着ている、冬山用のフランス製ダウンジャケットは、20代後半に購入したもので、当時特価で2―3万円したと思うが、10年以上前から着用するようになり、無暖房の冬を過ごすのに必需品となった。
衣料品や食料品も貧困の為買えない場合も多いが、欲しいと思わないため買わないことの方が多い。
実際30代にはそれなりの蓄えがあったが、海外旅行もしたいとは思わなかったしいい車も持ちたいとは思わなかったし、いい背広も欲しいとは思わなかった。
靴も底がすり減り、かかとに穴が開いた靴も履いていた。(靴は穴が開いて歩きにくくなったり、水がしみ込んだりしてやっと買い替えることがほとんどだった。)
無論いい靴を買うお金は充分あったが、その時履いている靴は馴染んではき心地がよかったのだ。
事実、当時週1―2回行っていたスナックや炉端焼き(会社の同僚や、私の友達やそこで知り合った飲み友達が多くいた。)に行くと最低でも7000円以上かかったので、その気になればいつでもいい靴を買うことが出来た。
ネクタイも良く購入したが、ネクタイの流行の幅が広くなったり狭くなったりして、ちょっと1―2週間以上同じネクタイは当たり前だった。
当時お金をかけていたのは、スキー用具と山の道具だった。
スキー用品や登山靴は高級品を購入していた。
泊りがけのスキー学校にもよく通ったし、ヨット教室にも行ったことがあった。
最もお金をつぎ込んだのは、40歳で脱サラ後に1年半シカゴに英語留学し、その後メキシコで1か月半スペイン語学校に行き、その後中南米を回り、起業したことだろう。

サラリーマン時代は余裕があったが、脱サラ後も、どうしても欲しいものは借金しても購入していた。
例えばPCは、カードローンで購入した。
この判断は、間違いではなかった。
もしPCを購入していなければ、私はこれを投稿していないし、多くの同窓生と同じようにIT音痴になっていただろう。(接する情報量が、極端に違う。)
タブレットやスマホは、自己破産の5―6年後だったので借金こそしなかったが、なけなしの預金と年金を計算して、ぎりぎりの範囲で購入した。
欲しいと思えば、できる範囲を計算して可能と解れば、限界に近い状態で購入することが多いようだ。

この様に見てくると、私は元々外観や世間体を気にするところは少ないらしい。
それでも、ファッションや美的センスにはそれなりに敏感だと、自分では思っている。
例えば昔クラシックファンの友達と意見交換しても、極めて微妙なセンスのことについても十分から李会えたし、美術面でも作家と表現面のことや作品の内的なことやコンセプトについても、良く意見交換し、十二分に意思疎通できていると思っている。
逆に美的センスで話が通じない人とは、そういう面で話しても無駄なので、話題を変えている。(話しているとその人のレベルや関心事項が見えてくるので、その人に合わす。そうでなければ、無駄なエネルギーを使うだけである。)

ギフトの話から、あらぬ方向に話が飛んでしまったが、ギフトを送っていただいた方には、志だけはありがたく頂戴いたしました、とお礼を申し上げたいし、今回の事態が残念だとも全く思っていない。
そもそも、今回のことは、私がこんな適当な性格だから招いた事態でもあり、自己責任の問題である。(自己責任論は、新自由主義者が多く使う言葉であまり使いたくはないが、現実には日常生活で自己責任である場合も多く存在するのも事実だ。)

さりながら、今まで書いたことを振り返ると、自分のことの分析と自己弁護らしきものと、ある意味の自慢のようなものが目に付く。
こうしたことは、今に始まったことではないと自覚している。
どうやら、私はそれなりにナルシスト的傾向が強いのではないかと思う。
そういえば昔、後輩の亡くなった元同僚の友人と呑んだ時に、「〇〇さんの話は、いつも自分が中心で、悲劇の主人公のような話をしている。いい格好しすぎじゃないか!」といったようなことを指摘されたことがあり、今も時折思い出す。


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