神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.60 多摩川で

2024-01-25 19:17:51 | 余録
 昨日は、プロバイダーから届いていたメンテナンス予告を忘れていて、投稿してもつながらず、あれこれと調べているうちに、ついに操作を誤ってしまい、半分くらい消えてしまいました。これはその作り直しです。

  最初に、先日の付録です。
 
    阿仁の伝承館で:メッケルとありますね。

 私は、家にいるとだいたい机・パソコンにしがみついています。そのためどうしても運動不足になりがちなので、作業に区切りがつくと出かけます。しかし、出るとなるとあそこもここもとなり、ついつい大旅行となって苦労します。阿仁・田沢湖・仙岩峠などもそうですし、その前の院内もそうでした。
 しばらく前は、JRの「大人の休日クラブ」に入会して、それを利用して東北諸県などを回りました。
 最近は、コロナ蔓延もあって遠出は少なくなりましたが、多摩川や、少し足を延ばして秋川の方へ電動自転車に乗って弁当を食べによく出ます。1回2~3時間くらいの散歩です。
 
 18日に多摩川へ弁当を食べに行きました。
 次の写真は、八王子市と昭島市を結ぶ多摩大橋から河川敷に降りて上流から立川方面に向かって写したものです。
 多摩川にも岩場(砂岩)みたいなこんな景色あるんですね。
 
 

 向こうに多摩大橋が見えます。
 私はここで弁当を食べたのですが、見ていてすごなと思いました。
 左側のわずかに見えるところから、中央の水のあるところ、そして右の岩のところまでずっと浸食でできたものです。中央の水に影が映っていて、曲線状に浸食されたことがよくわかります。
 その箇所を上から撮ったのが次の写真です。



 見事なものですね。いったいどれだけの年月がかかってこんな地形にまで浸食されたのでしょうか。
 じつは、ここの少し上流に八高線の鉄橋がかかってますが、その付近から約200万年前のクジラ(昭島クジラ:アキシマエンシス)が発見されています。かつてはこの辺も海で、そのころ堆積した砂岩が侵食されて上の写真のように姿になったものと見られます。
 それだけでなく、写真の左上を見ると、そこにも水の流れた跡が見えます。そうすると、この岩の上から現在の水面まで2mほどありますから、かつての多摩川の流水面ははるかに上の方にあったことになるので、なお一層、水の力や時間のかかり方に驚かされます。
 その頃はダムや堤防や取水ということもなかったはずですから、流量も多くて河川も今より広々として雄大だったでしょう。

 昨年の暮れに、多摩大橋の下流で弁当を食べた時のことです。
 ちょっと不気味に見えるかもしれませんが、次の写真のような化石があたり一面に見えました。


 
 私は、「これはてっきりクジラのような大きな動物の骨の化石に違いない」と感動して、すぐさま20枚ほど写真を撮り、市の図書館の地学担当のところへ持って行きました。すると、20代くらいの若い担当者がじっと見て、
 「これは貝などが移動するときに周りを固めた跡の化石です。骨ならば・・・。
  つまり、人間がトンネルの周りをセメントなどで固めるのと同じです」と。
 
 弁当を使ってそこに30分くらい居てから、上流に向かって歩きました。すると、ガタンゴトンと始まって、左の方から八高線の下りが現われました。
 八高線は単線ですが、1時間に2本くらい運行しています。往復で4本。そこで「15分待てば上りが来る」と見込んで、遠くに見える大岳を入れる構図を考えて待っていると、来ました。

 シャッターを押すのが少し遅かったですが、撮れました。次の写真です。

  大岳:向こうに見える一番高い山

 八高線は故郷の群馬県へ行く最短コースです。八高線についてはいろいろと思いがあります。いずれ書く機会があるでしょうから、今日は予告として一つだけ。
 
 1969年6月、上京して高田馬場に下宿していた友人を訪ねた帰りのこと、「八高線で、八王子から高崎まで通して乗ってみたい」と言うと、「新宿駅から高尾行に乗れば、どれでも八王子は停まるはずだ」といって新宿駅まで案内してくれ、約3時間の直通の旅を味わったことがあります。
 もちろん、その列車を半世紀後に多摩川から見上げるだろうなどということは思いもしないことでした。

 

 
 
 
 
 



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