神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.166 3人の恩人 4

2024-05-11 07:30:49 | 追憶
   
    おそれ入谷の・・・うっとり

(1)昨日は、結局、原因不明でした。
 そもそも、ブログに細かいことを書きすぎるから、操作ミスの原因にもなるのでしょうから、「簡素に」を旨とすることにしましょう。

(2)昨日書く予定だったことは、
 1.入学した私がクラス委員に手を上げたこと
 2.生徒会の役員もやったことがないのが手を上げて、その積極性を買われて、そのまま自治会の役員に推薦され当選したこと
 3.そうして夏休みに入り、自治会として開いた畑田重夫先生の講演に感動して、「もう戻ろうとせず、行けるところまで行ってみる」と決めたこと
 などでした。

(3)それから、畑田先生の講演後、質疑応答が終って、先生が帰り支度を始められたのをみて、持ち合わせのノートを持って駆け寄り、少し自分のことを話してからサインをお願いしました。先生は、
 「あまりサインはしないのだが・・・」
 と言いながら、激励のサインを書いてくださいました。
 このノート大事に取ってあるはずですが、そのためにどこにしまったか、かえって出てきません。いずれまた。

(4)その後、50代の後半の頃、法政大学の80年館〔図書館棟〕での研究会に行こうとしたとき、自動ドアの中から長身の人が、何かを考えながらでてこられるのが見えました。通るのを待っていると、それが畑田先生でした。
 気が付いたので、驚きながら、
 「畑田先生」
 とお呼びして、1970年の夏に講演していただいて、サインをいただいて・・・とたたみかけるようにお話しすると、ニコッとされて、
 「がんばりましょう」
 と言いながら手を差し伸べられたので、私も急ぎ手を出して、握手をしてお別れしました。
 そして、
 「元気で」
 と。先生の雰囲気は、70年と変わらず、『憲法に生きる』の表紙の写真の通りでした。

 以上が、消去してしまったところの要点です。

   
    エレガント

(5)さて、ともかく先へ進むべくあれこれとやりだしました。しかし、大学は次第に荒れていき、講義は、出たり出られなかったりが続きました。それなのに、クラス委員と自治会は、結局、2年目もやることになります。
 一方、やりたかったロシア語は、第Ⅱ外国語ではだめだとわかったものの、語学学校へ行く資金もなく、まだ暗中模索でした。この辺はあとでまた書きましょう。

(6)2年目の秋ごろのことです。
 自治会で知り合った先輩の中村さんが、
 「ゼミは、どこにするか決めたか」
 と話しかけてきました。
 ふだん、自分の関心のままに手当たり次第にあれこれと読んでいましたが、授業は出たり出られなかったりで、系統的な勉強ができていないと感じていましたから、ゼミできっちりやりたいとうすうす考えていました。それで、
 「歴史が好きだから、経済史のゼミにしようかと思っているけど、理論もやりたい・・・。」
 と答えると、
 「迷っているなら、経済学部なんだから、経済理論をやっときなよ。歴史は、好きなら自分でもできるよ。うちの先生、いい先生だから、話してあげるよ」
 と。それで話が進んでいきました。
 
(7)1972年4月、3年になってゼミに出席しました。経済理論つまりマルクスの『資本論』第1巻をテキストに勉強するゼミでした。
「いい先生」とは、この当時、マルクス経済学では知らない人のない宇佐美誠次郎先生でした。(宇佐美先生とのことはNo.134に少し書きました。ご覧ください。)

 生涯の師との出会い、それは中村さんの仲介によるものでした。ゼミに入ってからも、中村さんにはずいぶん面倒を見てもらいました。この時期の第3の恩人です。

 村山さん・畑田重夫先生・中村さん、この3人に出会わなければ、その後の人生はまた違っていたでしょう。
 では、この辺で。

   
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