心にスニーカーをはいて【五十路半ばの男が雑にカバー:歌いなおし】
※以下の文は、1年半ほど前に記事に記したものを少し直したものです。元の記事もありますが、動画は消してしまいましたので。
この曲は、昨年の4月頃、やたらに歌いたくなった曲でした。コロナで本格的に休校、リモートなどになった時期です。
楽譜なし、適当な記憶でカラオケづくり、しかも全部シンセ手弾きでテンポもいい加減、歌声も合わせて3時間ぐらいで録ってしまったものです。歌だけ今回録り直しました。いろいろ雑で毎度すみません。
「コロナ社会を生き抜く」「コロナとともに生きる」だそうです。私はいまだに「コロナ」という一言の名称にしてしまうことには抵抗があるのですが…だってコロナ型のウイルスって、以前から普通にいろいろあったじゃないですか。それまで「コロナ」という名前はそんなに嫌われる言葉ではなかったですし。 でもきりがないのでやめておきます。
その昨年3月、4月頃より、テレビでは「リモート出演」という言葉がやたらに出てきました。なんとも不自然な会話の「間」ができてしまって、いまだに全くなじめません。ご苦労はわかりますけどね。
動画配信サイトでは、(まあ以前からあったけど)別々の場所で演奏した音を同期させて合奏、合唱した動画がクローズアップされていました。あまりそちらに詳しくない出演者の人々が、「コロナとともに生きる世界、これでいきましょうよ」と、軽々しく言います。
「はあ?ふざけんじゃねえよ」が私の第一印象でした。(教育の「ロイロノート」使いこなす人には憧れますけどね。)
こういうのは、一形態としては可能性もあるし、楽しい。古くは小澤征爾さんが長野オリンピックの時に世界のオーケストラを衛星中継で結んで、時差を計算して同期演奏していたのを思い出します。
でもそれは、所詮スタジオでの多重録音のシステムと同じ。「素晴らしいサンプル」として味わうことはできますが、結局私たちはどこかで「生の演奏」「人が集い、息を合わせる演奏」も求めざるを得ない生き物なのです。
もちろん今回私が録った音も多重録音。バーチャルです。バーチャルによる表現は楽しい。しかし、我々音楽の音を録る者は、はるか昔から、「本物」と「偽物」の間を行ったり来たりして、本当に良いものを求め続けてきたのです。どれだけバーチャル(リモート)が高いレベルのところへ行ったとしても、それは決して「生演奏」を否定するものではなく、何物にも代えがたい生のすばらしさは絶対に軽視してはならない。そんなことをいつも考えています。
さて、「心にスニーカーをはいて」作詞、作曲はさだまさしさん。歌っている白鳥座というグループは私が学生だった頃に発足したグループで、メンバーには佐田玲子さんもいます。
いい歌なんですよ。大好きでした。「かもめ」という歌もよかったなあ。
その頃、紅茶のティーバック等に「真空パック」という技術が普及してきたのです。真空だから全く酸化せず、製造したときと同じ味を楽しめる、というのが革新的で、大ヒットしました。でもきっとみんな、どこかで引っかかっていたと思うのです。それがこの詩
「幸せは欲しいけど 幸せに似たものはいらない」「真空パックの真心や インスタントの愛だなんて そんなものいらない あなたはあなたでいてほしい」 と、強く心を打つのです。
まあある意味、以前掲載した、「木綿のハンカチーフ理論」なのかもしれませんけどね。
でも、この「コロナと生きる時代」に、新しい「真空パック」が世の中にいっぱい出てくることでしょう。人と人とがその場に居合わせず、リモートで(おそらく近い将来)効率よくコミュニケーションや仕事をしていくことになるのでしょう。
じかに人が近寄ることに対して、私たちはどのような考え方をもっていくべきなのか、大きく問われています。効率の良いものばかりに進んでいくことに、どこかで待ったをかける心を、いつでも持っていないといけない。
「心にスニーカーをはいて」を聴きたくなるのです。
みんなで、もっと考えてほしくなるのです。
※以下の文は、1年半ほど前に記事に記したものを少し直したものです。元の記事もありますが、動画は消してしまいましたので。
この曲は、昨年の4月頃、やたらに歌いたくなった曲でした。コロナで本格的に休校、リモートなどになった時期です。
楽譜なし、適当な記憶でカラオケづくり、しかも全部シンセ手弾きでテンポもいい加減、歌声も合わせて3時間ぐらいで録ってしまったものです。歌だけ今回録り直しました。いろいろ雑で毎度すみません。
「コロナ社会を生き抜く」「コロナとともに生きる」だそうです。私はいまだに「コロナ」という一言の名称にしてしまうことには抵抗があるのですが…だってコロナ型のウイルスって、以前から普通にいろいろあったじゃないですか。それまで「コロナ」という名前はそんなに嫌われる言葉ではなかったですし。 でもきりがないのでやめておきます。
その昨年3月、4月頃より、テレビでは「リモート出演」という言葉がやたらに出てきました。なんとも不自然な会話の「間」ができてしまって、いまだに全くなじめません。ご苦労はわかりますけどね。
動画配信サイトでは、(まあ以前からあったけど)別々の場所で演奏した音を同期させて合奏、合唱した動画がクローズアップされていました。あまりそちらに詳しくない出演者の人々が、「コロナとともに生きる世界、これでいきましょうよ」と、軽々しく言います。
「はあ?ふざけんじゃねえよ」が私の第一印象でした。(教育の「ロイロノート」使いこなす人には憧れますけどね。)
こういうのは、一形態としては可能性もあるし、楽しい。古くは小澤征爾さんが長野オリンピックの時に世界のオーケストラを衛星中継で結んで、時差を計算して同期演奏していたのを思い出します。
でもそれは、所詮スタジオでの多重録音のシステムと同じ。「素晴らしいサンプル」として味わうことはできますが、結局私たちはどこかで「生の演奏」「人が集い、息を合わせる演奏」も求めざるを得ない生き物なのです。
もちろん今回私が録った音も多重録音。バーチャルです。バーチャルによる表現は楽しい。しかし、我々音楽の音を録る者は、はるか昔から、「本物」と「偽物」の間を行ったり来たりして、本当に良いものを求め続けてきたのです。どれだけバーチャル(リモート)が高いレベルのところへ行ったとしても、それは決して「生演奏」を否定するものではなく、何物にも代えがたい生のすばらしさは絶対に軽視してはならない。そんなことをいつも考えています。
さて、「心にスニーカーをはいて」作詞、作曲はさだまさしさん。歌っている白鳥座というグループは私が学生だった頃に発足したグループで、メンバーには佐田玲子さんもいます。
いい歌なんですよ。大好きでした。「かもめ」という歌もよかったなあ。
その頃、紅茶のティーバック等に「真空パック」という技術が普及してきたのです。真空だから全く酸化せず、製造したときと同じ味を楽しめる、というのが革新的で、大ヒットしました。でもきっとみんな、どこかで引っかかっていたと思うのです。それがこの詩
「幸せは欲しいけど 幸せに似たものはいらない」「真空パックの真心や インスタントの愛だなんて そんなものいらない あなたはあなたでいてほしい」 と、強く心を打つのです。
まあある意味、以前掲載した、「木綿のハンカチーフ理論」なのかもしれませんけどね。
でも、この「コロナと生きる時代」に、新しい「真空パック」が世の中にいっぱい出てくることでしょう。人と人とがその場に居合わせず、リモートで(おそらく近い将来)効率よくコミュニケーションや仕事をしていくことになるのでしょう。
じかに人が近寄ることに対して、私たちはどのような考え方をもっていくべきなのか、大きく問われています。効率の良いものばかりに進んでいくことに、どこかで待ったをかける心を、いつでも持っていないといけない。
「心にスニーカーをはいて」を聴きたくなるのです。
みんなで、もっと考えてほしくなるのです。
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